# 029. 最初の朝
朝の光は、破れた正面扉の隙間から、遠慮なしに入ってきた。
カイは、食堂の椅子で目を覚ました。眠ったというより、夜明け前に、体が勝手に落ちたのだった。首と、肩と、握り込んでいた右手の指が、まとめて痛んだ。
体を起こして、宿を見た。
ひどい有様だった。
正面扉は枠ごと外れ、壁に立てかけてある。長椅子は脚が一本折れ、テーブルには短剣の突き傷。床は灰と泥にまみれ、空き瓶の破片が窓際に散っていた。廊下の突き当たりには、板の抜けた黒い穴。裏口の戸は下半分が裂けたまま、井戸端の風を通している。
十日かけて整えた場所が、ひと晩で、半月ぶん壊れた。
カイは、しばらく、その破れ目をひとつずつ目で数えた。
不思議と、来た日の絶望は、戻ってこなかった。あの日のこれは「廃屋の傷」だった。今のこれは「守った宿の傷」だ。同じ壊れ方でも、帳簿につく科目が違う。
厨房から、水音がした。
覗くと、リアが、竈に火を入れていた。
目の下に、濃い隈があった。あの娘も、眠れたはずがない。それでも、髪はきちんと括られ、前掛けの紐は結ばれ、鍋は――昨夜、武器として鳴らし続けたあの鍋は、綺麗に磨かれて、いつもの釘に掛かっていた。
「あ……おはよう、ございます」
「ああ。……寝てないな」
「カイさんこそ」
それで、その話は終わりだった。
「お粥、炊きます。それと、その、昨日の芋の残りと……あの、卵、覚えてますか。ドマルさんが置いていった、燻した卵。二つだけ、大事に取ってあったんです。……今日、使っても、いいですか」
「今日使わないで、いつ使うんだ」
リアは、少し笑って、頷いた。
朝食ができるまでの間、カイは外に出た。
外灯の前に、立つ。
火は、消えていた。油が、朝方に尽きたのだ。なみなみと注いだ油を、最後まで燃やし尽くして、芯だけが黒く残っていた。硝子には、昨夜の風の埃がうっすら積もっている。
カイは、覆いを開け、燃え残りの芯を、指で確かめた。
短い。今夜には、替えねばならない。油も、残りは壺に一つ半。蓄えは三割どころか、一割も渡さずに済んだが、冬までの帳尻は、どのみち楽ではない。扉の材、戸板、蝶番、床板。買い出しの一覧は、昨日までの倍の長さになった。
それでも。
カイは、埃を布で拭い、芯を整え、覆いを閉めた。
消さない。
昨夜、あの男に言った言葉に、嘘はなかった。約束は、今夜からも生きている。灯りが呼ぶものが善意でも悪意でも、呼ばれて来たものへの返事は、この宿が決める。それだけのことだった。
「カイさーん、できましたー」
食堂に戻ると、テーブルの突き傷の上に、布巾が一枚、さりげなく掛けてあった。
その上に、湯気の立つ椀が二つ。粥には、燻し卵が半分ずつ、黄金色の断面を見せて乗っていた。芋の焼き固めたのと、白湯に香草を落としたのが、脇に並ぶ。
「いただきます」
「いただきます」
粥は、うまかった。
塩気の向こうに、卵の燻した香りがした。壊れた扉から朝の風が入り、竈の火の匂いと混ざった。二人とも、ほとんど喋らなかった。喋らずに、ただ、温かいものが腹に落ちていくのに任せた。夜通し強張っていた体の芯が、匙を運ぶたび、少しずつほどけていった。
「……あのー、カイさん」
椀が半分になったころ、リアが、上目遣いに口を開いた。
「昨日の……床の板。廊下の、あの、抜けたところ」
「ああ」
「あれ、わざと、だったんですよね。釘、抜いてあったって……いつも、カイさん、私の部屋の前で、ぴょこって変な歩き方するの、あれ、そういう……」
「ぴょこ、とは歩いてない。跨いでただけだ」
「ぴょこって、してました」
リアは、ここ数日で初めて、声を出して笑った。笑って、笑いの尻尾が少し湿って、慌てて白湯を飲んだ。
「……守られちゃいました。床にまで」
「床は、たまたまだ」
カイは、椀に目を落として言った。
「たまたま腐ってて、たまたま、直すのを後回しにしてた。……この宿は、そういう宿だ。傷んでるところと、直ってるところが、まだらにある。それが昨日は、たまたま、いいほうに転んだだけだ」
「……ふふ。じゃあ、私、この宿の傷んでるところに、感謝しないと」
「感謝は要らん。今日から、その傷んでるところを二人で直すんだからな。廊下の穴も、扉も、裏口もだ。……働いてもらうぞ、朝食係」
「はいっ」
いい返事だった。
食べ終わって、リアが皿を洗い、カイが拭いた。皿を棚に戻すと、リアは箒を持って、灰と硝子の破片を掃き始めた。カイは、外れた扉を検分して、使える蝶番と使えない蝶番を分けた。
生活の音が、壊れた宿の中で、また回り始めた。
昼前、カイは、ふと手を止めて、帳場の台へ歩いた。
宿帳は、無事だった。
昨夜の乱闘の間も、台の上で、開いたままだった。誰にも触られず、埃だけを薄く被って。カイは袖でそれを払い、開いた頁を見た。
前の管理人の、細い走り書き。
その下に、リア・トワネットの名前と、日付。
たった一行。それだけの帳面を、昨夜、この宿は守り切ったのだった。
カイは、その一行の下に続く空白の升目を、指でなぞった。
白い行が、まだ、何頁も残っている。




