# 030. 空白のページ
襲撃から、五日が経った。
正面扉は、枠ごと立て直した。蝶番は古い客室の扉から移し、閂の受けは、前より一寸太い樫で打ち直した。裏口の戸は下半分を新しい板で継ぎ、廊下の穴には、乾いた床板が張られた。今度は、釘も打ってある。
テーブルの短剣の傷だけは、直さずに残した。
「布巾を掛ければ見えませんし……それに、その」
リアが、言いにくそうに言った。
「この傷を見ると、守ったんだなあって、思うので」
「……好きにしろ」
カイは、そう答えて、帳面に「食堂テーブル、現状維持」と書いた。備品の帳簿に「思い出のため」とは書けなかったので、科目は空欄にしておいた。
昼下がり、宿の中は、粥の匂いと、木屑の匂いがしていた。
リアは食堂の窓を磨いていた。泥の手形が残っていた、あの窓だ。手形はとうに拭き消されて、硝子は、西日を素通しにするまで透きとおっている。窓の外には、外灯がまっすぐ立っていた。
カイは、帳場の台で、宿帳を開いた。
このごろ、癖になっている。仕事の区切りに、この帳面を開く。
古い頁には、賑わっていたころの名前の群れ。行商人、石工、巡礼、字の代わりの小さな丸。それから、行の絶えた空白の時代。前の管理人の、細い走り書き。
そして、リア・トワネットの一行。
その下の余白に、カイは、この五日のあいだ考えていたことを、書き足すことにした。宿帳の隅、備考の欄。ペンを浸し、短く記す。
「夜濡れ犬、来襲。当宿はこれを退けた。客一名、無事」
書き終えて、少し考えて、もう一行足した。
「灯りは、消していない」
誰に読ませる記録でもなかった。だが、この帳面は、この宿に起きたことを残す帳面だ。名前だけでなく、守ったことも、残していい気がした。
「カイさん、それ、宿帳ですか?」
窓拭きを終えたリアが、覗き込んできた。カイは、少しだけ迷ってから、頁をそのまま見せた。リアは、備考の二行を、口の中で小さく読み上げ、それから、自分の名前の行を、そっと撫でた。
「……この下、早く埋まるといいですね」
「埋まったら埋まったで、忙しくなるぞ。飯の支度も、洗い物も、倍だ」
「望むところです。私、朝食係ですから」
リアは、胸を張った。それから、思い出したように付け足した。
「あ、でも、お布団が足りません。あと、お皿も……六枚じゃ、やっぱり」
「分かった分かった。東の町に行く時、荷車ごと考える」
日が、傾き始めた。
夕方の仕事を終えると、カイは油壺を持って、外へ出た。
西の空が、あの日と同じ茜色に燃えていた。灰灯街道が、暮れの光の中を、まっすぐ西へ伸びている。人影はない。今日も、この道を通った者はいなかった。
それでも。
カイは、外灯の覆いを開け、受け皿に油を注いだ。新しい芯は、リアが古布を固く縒って作ったものだ。よく油を吸う、いい芯だった。
火口箱を打つ。
火花が散り、火が移り、芯が、確かな炎を立てた。
覆いを閉じると、橙色の光が、暮れていく街道に向かって、静かに広がった。傾いた看板と、直したばかりの扉と、窓の内側の食堂の灯りを、ひとつの絵のように照らし出す。
一月前、ここは、誰もいない廃屋だった。
今は、竈に火があり、食卓に椀が二つあり、宿帳に名前が一つあり、そして、外灯がともっている。
「カイさーん。お夕飯、できましたよー」
戸口から、リアの声がした。
「ああ、今行く」
カイは、最後にもう一度だけ、火の具合を確かめた。油はたっぷり、風は穏やか。朝まで、保つ。
この灯りが、次に誰を呼ぶのか。それは、ともした側には分からない。分からないまま、それでも毎晩ともすのが、この宿の仕事だった。
カイは、宿の中へ入った。
扉の閉まる音がして、食堂の窓に、二人ぶんの影が揺れた。
宿帳には名前が一行。竈には火。食卓には椀が二つ。……まだ小さくとも、灯り木亭は、確かに宿として生きていた。
◇
その灯りを――見た者がいた。
灰灯街道の、ずっと東。日の落ちきった道の上で、一人の女が、足を止めていた。
長い金髪は旅の埃にまみれ、外套の裾は泥の色に染まっている。何日歩いたのか、自分でももう数えていなかった。
もう、歩けない。
そう思って顔を上げた、闇の先に。
小さな、橙色の火が、ひとつ、灯っていた。
星ではなかった。星は、あんなに低いところにはない。
あれは、火だ。
火なら――人が、いる。
女は、擦り切れた靴を、もう一歩ぶん、前に出した。




