# 028. 夜濡れ犬の敗走
先に動いたのは、ガロだった。
「……ああ、もう、うるせえんだよ!!」
短剣が、突き出された。
カイは、下がらなかった。下がれば、背中は階段だ。代わりに、体を廊下の壁へ捻り、火掻き棒を、横薙ぎに――ではなく、足元へ振った。廊下に転がしておいた陶器の水差しが、鉄に弾かれて、ガロの脛へ滑る。
夜目の利かない廊下で、足元から来るものは、見えない。
ガロの踏み込みが、乱れた。突きの狙いが逸れ、刃はカイの肩口の壁板に食い込んだ。深く、だ。男の膂力なら、板ごと引き抜くのに一呼吸。その一呼吸の間に、カイは廊下の奥へ、二歩、跳び下がった。
リアの部屋の、扉の前。
そこだけは、譲れない場所で――そして、そこだけが、罠の場所だった。
「逃げ場はねえぞ、旦那ぁ!!」
ガロが、刃を引き抜き、突進してくる。廊下は狭い。獲物は逃げ場のない突き当たり。男の目には、詰みの形に見えたはずだ。
だから男は、床を見なかった。
リアの部屋の扉の、一歩半手前。廊下の床板が、一枚、他より黒い。この宿に来た最初の週、カイが階段回りを検分した時に見つけた、芯まで湿気で腐った板だ。いつか張り替える、と帳面に書いて、後回しにしていた。守りの支度を始めた日、カイはその板の釘を、あえて全部抜いた。
自分は、跨ぐ。夜ごと歩いて、跨ぐ癖をつけた。
跨がない人間は――
めきり、と、音がした。
ガロの右足が、床板ごと、廊下の底へ抜けた。
突進の勢いのまま、男の体は前へつんのめり、膝まで床に呑まれて、止まった。短剣が手を離れ、廊下を滑って、カイの足元へ届く。カイはそれを、拾わずに、蹴った。階段の下へ。武器は、拾えば使いたくなる。使えば、その先は取り返しがつかない。
「が……っ、この、抜け……!」
ガロが、床に手をついて、もがく。腐った板の裂け目が、脛に噛みついて、抜けない。
「リア!」
カイは、扉越しに、叫んだ。
「火を見ろ!!」
一拍あって――部屋の中から、音が、爆発した。
がん、がん、がん、がん。
鍋の音だった。休みなく、力の限り、割れんばかりに。部屋の窓の締まり木が外れる音がして、音は、夜の外へも溢れ出した。宿の二階から、闇の街道へ、鳴り止まない金属の音が撒き散らされる。
下の階の、乱闘の気配が、止まった。
「な、なんだ!? また鳴ってる!」
「上だ! 上でなんか――頭ぁ!? おい、頭の声がしねえぞ!!」
「……ずらかろうぜ、なあ! 蓄えの前に、こっちの頭数が減っちまう! 火傷のやつ、もう立てねえんだ!」
「頭ぁ!! どこですかい!!」
階段の下から、部下の声が、割れた鍋の音の隙間に飛んでくる。ガロは、床に噛まれたまま、答えなかった。答えられなかったのだろう。この体勢を見られることと、負けを認めることの、どちらが痛いか。
カイは、ガロの傍らに、膝をついた。
手の届く距離だった。男の拳も、届く距離だった。それでも、カイは屈んで、裂けた床板の噛み合いを見た。
「……動くな。そのまま暴れると、脛の骨をやる」
「触るんじゃねえ!!」
「板の目に沿って抜けば、抜ける。いいから、力任せをやめろ。……そっちの足を、こう、内へ」
ガロは、罵りながら、それでも、結局はカイの言う通りに足を捻った。めき、と板が鳴って、足が抜けた。ズボンは裂け、脛は血が滲んでいたが、折れてはいなかった。
男は、床に座り込んだまま、荒い息をして、カイを見た。
「……なんで、抜いた」
「床下で死なれると、宿が困る」
「……殺せる場面だったろうが。頭を潰しゃ、群れは散る。あんた、それくらいの算盤は弾ける男だろ」
「弾いた上でだ」
カイは、立ち上がって、階段のほうへ顎をしゃくった。
「帰れ。部下が呼んでる」
ガロは、しばらく動かなかった。
それから、壁に手をついて、ゆっくりと立ち上がった。継ぎ接ぎの外套は泥と埃にまみれ、脛からは血が滲み、二十年道を歩いた男の姿は、見る影もなかった。それでも男は、拾い上げた矜持のかけらみたいに、外套の前だけは、掻き合わせた。
階段を、一段ずつ、下りていく。
その途中で、男は一度だけ、止まった。
「……旦那」
振り向かなかった。声だけが、階段の暗がりから上がってきた。
「あんたの宿は、守れたよ。今夜はな。……けどな、覚えとけ。あんたが守ったのは、この壁の内側だけだ。壁の外にゃ、俺みてえのが、まだ何十人も転がってる。宿にも入れねえ、新街道にも行けねえ、道と一緒に捨てられた連中がな」
「ガロ――」
「こんな道……」
男の声が、初めて、脅しでも皮肉でもない、ただの疲れた響きになった。
「誰も救わねえよ」
それだけを吐き捨てて、継ぎ接ぎの外套は、階段を下り、破れた扉を抜けて、部下たちの声のするほうへ――夜の闇へ、消えた。
複数の足音が、西へ、遠ざかっていく。
引きずるような足取りが、混ざっていた。追い剥ぎの群れの敗走は、勝ち鬨を上げる気になれないほど、みすぼらしい音がした。
やがて、風の音だけが残った。
鍋の音が、止まった。
カイは、廊下に立ち尽くしたまま、体中から力が抜けていくのを感じた。壁に背中を預け、ずるずると、床に座り込む。手の中の火掻き棒が、からん、と音を立てて転がった。
扉の向こうで、錠の外れる音がした。
細く開いた隙間から、リアの顔が覗いた。泣き腫らした目で、鍋とお玉を、まだ両手に抱えたままだった。
「……カイさん」
「……ああ」
「勝った、んですか……?」
カイは、天井を見上げて、少し考えた。
「……追い返した。それだけだ」
窓の外で、外灯の火が、まだ燃えていた。




