# 027. この宿にいる間は
扉は、開かなかった。
沈黙が、答えだった。
ガロは、しばらく扉を睨み、それから、諦めたように息を吐いた。吐いた息の終わりで、腰の短剣を抜いた。錆の浮いた刃が、廊下の暗がりで鈍く光る。刃先を扉の枠と板の隙間、錠の舌のあたりへ差し込もうと、男が身を屈めた。
「ガロ」
カイは、廊下を、また一歩詰めた。
「最後の商談だ」
刃が、止まった。ガロは、屈めた姿勢のまま、目だけをこちらへ寄越した。
「……ほう。今度は、そっちから商談か」
「蓄えの件は、考え直してもいい。八割は無理だが、三割なら、冬を削って出せる。米と豆と油だ。今夜のあんたらの実入りとしては、悪くないはずだ。怪我人も出さずに済む」
「へえ」
ガロは、身を起こした。刃は、下げなかった。
「三割。……で?」
「それで、終いだ。この扉から離れて、部下をまとめて、帰れ」
「女は」
「その言葉は、この宿には置いてない」
ガロは、喉の奥で、低く笑った。
「旦那よお。あんた、状況が見えてんのか? 下じゃ、うちの若いのが暴れてる。ここには俺と、その錆びた火掻き棒のあんただ。扉一枚向こうにゃ、峠の証人がうずくまってる。……三割なんて数字はな、対等な相手が出すもんだ。あんたが出せる立場かよ」
「立場の話なら、あんたのほうが悪い」
カイは、言った。声が震えないことに、自分で驚いていた。
「下の音を、よく聞け。暴れてる音じゃない。手間取ってる音だ。裏の一人は火傷で戦列から抜けた。正面の二人は床で伸びてる時間のほうが長い。灰を食った一人は、まだ目が開かん。……あんたらは飢えてる。飢えてる人間は、長い喧嘩ができない。夜明けまで粘る体力が、今のあんたらのどこにある。あんたがここで扉一枚に手こずってる時間は、全部、あんたの負けに積まれてる」
言い切って、カイは、音を立てないように息を継いだ。膝は、さっきから笑っている。廊下が暗くて、助かった。
ガロの目が、初めて、はっきりと剣呑になった。
「……口の減らねえ」
「だから、最後の商談だと言った。三割持って帰るか、手ぶらで逃げ帰るか。あんたが選べるのは、もう、その二つだけだ」
「三つ目があるだろうが」
ガロは、短剣を持ち直した。刃の向きが、扉から、カイへ変わった。
「あんたを黙らせて、扉を割って、女と蓄えを全部持ってく。……なあ旦那、最初から不思議だったんだよ。なんで、あんた、そこまでする? 会って一月かそこらの、流れ者の小娘だろうが。身内でもねえ。金づるでもねえ。抱いてるわけでもねえんだろ? ……命張る理由が、どこにある」
それは、脅しの形をした、本物の問いだった。
この男は、本当に分からないのだ。分からないから、苛立っている。理由の分からないものは、値段のつけようがない。値段のつかないものは、この男の生きてきた世界には、存在しないことになっている。
だからカイは、この男に分かる言葉で、答えることにした。
「――帳簿の話をしてやる」
「あ?」
「この宿の宿帳には、今、名前が一つ書いてある。たった一つだ。何年も白紙だった帳面に、最初に書かれた名前だ。……ガロ。あんたも商売人の端くれなら分かるだろう。最初の客ってのは、商売の証文だ。最初の客を守れなかった宿に、二人目の客が来ると思うか」
カイは、火掻き棒を、握り直した。
「それに、な。あの娘は雨の夜に、あの外灯を見て、ここまで歩いてきた。灯りを信じて戸を叩いた人間を、灯りをともした側が差し出したら――あの火は、あんたの言う通りの、ただの罠になる。俺はそれを認めない。今夜も、この先もだ」
「……講釈は、それで終いか」
「ああ、終いだ。あとは一行で済む」
カイは、廊下の真ん中で、扉とガロの間に、まっすぐ立った。
逃げた経験二回の、文官くずれの足で。剣も持てない、帳簿しか知らない手で。それでも、この一行だけは、この場所で言うと決めていた。
「あれは、この宿にいる間は、俺の客だ。――勝手に連れていかせるつもりはない」
廊下の空気が、張り詰めた。
ガロは、動かなかった。短剣の切っ先だけが、暗がりの中で、わずかに揺れていた。それは、値踏みの揺れではなかった。値踏みなら、この男はもっと速い。これは――受け取り先のない何かを、持て余している揺れだった。
◇
扉の内側で、リアは、その一行を聞いた。
この宿にいる間は、俺の客だ。
抱え込んだ鍵を、リアは、握り直した。冷たかった鉄は、いつの間にか、手のひらの温度になっていた。
……私は、お客さん。
最初の、お客さん。
震えは、止まっていなかった。それでも、リアは扉に背をつけたまま、廊下に向かって、声にならない声で、初めて言い返した。
開けません。ここは、私の部屋です。




