# 026. 鍵の意味
階段を駆け上がったカイの前に、ガロの背中があった。
男は、振り向きもしなかった。廊下の突き当たり、リアの部屋の扉の前に立ったまま、肩越しに、面倒くさそうに言った。
「来ると思ったぜ、旦那。……そこで止まりな。あんたの足で二歩、俺の足で一歩だ。俺のほうが、この扉に近い」
カイは、階段を上がりきったところで、足を止めた。
事実だった。廊下は狭く、長い。カイが走れば、ガロは扉を蹴破るほうが早い。手の中の火掻き棒が、急に頼りなく感じられた。
「なあ、嬢ちゃんよ」
ガロは、扉に向き直った。声だけが、また、あの猫撫でに戻る。
「聞こえてるんだろ? あんた、賢い子だよなあ。峠じゃ、ちゃんと逃げた。逃げ足の速さは、うちの若いのが保証してたぜ。……なら、今も賢くしな。その鍵を回して、出てきな。そうすりゃ、誰も痛くねえ」
扉は、答えなかった。
「だんまりか。……なあ、知ってるかい。扉ってのはな、開けてもらうもんじゃねえんだ。開けさせるもんなんだよ」
ガロの手が、扉の把手にかかった。がち、と、錠が受ける音がした。
「ほう。ちゃんとかけてやがる」
男は、把手を、ゆっくりと、二度、三度、揺すった。乱暴にではない。錠の遊びを、指先で測る揺すり方だった。荷運びの手だ。結び目と、蝶番と、錠前の癖を、二十年の指が知っている。
◇
扉の内側で、リアは、床に座り込んでいた。
背中を扉に押しつけ、両手で、鍵を握っていた。
錠は、もう下りている。鍵を握っている必要は、本当はない。頭では分かっていた。それでも、指は解けなかった。この鉄の棒だけが、把手の揺れる音と自分との間にある、たったひとつの確かなものだった。
――開けなよ。
扉一枚の向こうの声が、骨に響く。
体が、勝手に昔の答えを探し始める。開けたほうが、いいのかもしれない。私が出ていけば、カイさんは殴られない。宿も壊されない。私さえ出ていけば、いつもみたいに、全部が丸く――
握った鍵の稜が、手のひらに食い込んだ。
その小さな痛みが、リアを、今夜に引き戻した。
……違う。
これは、私の鍵だ。カイさんが「返すな」と言った鍵だ。この鍵のかかる部屋は、贅沢品じゃなくて、飯と寝床と同じ棚に並ぶものだと、あの人は言った。ここは、私の部屋だ。生まれて初めての、内側から鍵のかかる、私の。
開けたら、それを、自分で手放すことになる。
リアは、声を出さなかった。出せなかった、が半分。出さないと決めた、が半分。震える両手で、鍵を胸に抱え込み、扉に背中を押しつけたまま、床板の冷たさの上で、ただ、離さなかった。
◇
「……開けねえか」
廊下で、ガロが把手から手を離した。
「妙だなあ。中の嬢ちゃん、震えてるはずなんだがなあ。震えてる奴ってのは、たいてい開けるんだ。怖さに、じっとしてられなくてよ。……なのに、開けねえ」
男は、首を回して、カイを見た。
「あんたか。あんた、この娘に何を吹き込んだ」
「何も」
カイは、廊下の板を、一歩ぶん、詰めた。
「鍵を渡しただけだ」
「鍵ぃ?」
ガロの眉が、歪んだ。本気で、意味が分からないという歪み方だった。
「……鍵なんてもんはな、旦那。金目のもんを囲うためのもんだ。蔵と、金箱と、それから、逃げられちゃ困る女を囲うためのな。俺はそういう鍵を、腐るほど見てきた」
「なら、その鍵は、あんたの知ってるどの鍵とも違う」
「講釈はいい」
ガロは、扉から半歩下がった。把手ではなく、扉の板そのものを、蝶番の側を、値踏みする目で見た。錠が開かないなら、錠ごと壊す。板が駄目なら、枠ごと。その算段の目だった。
下の階から、部下たちの怒鳴り合いと、何かの倒れる音が、まだ続いている。時間は、向こうにもない。
ガロは、肩を、ぐるりと回した。濡れた犬皮の外套が、重たげに揺れた。
そして男は、扉に向き直り、今夜初めての、地を這うような低い声で言った。
「開けろ」




