# 024. 罠ではなく約束
裂け目から入った手が、水瓶の縁を探り当て、押しのけようと力んだ。
カイは、動いた。
考えるより先に、体が竈へ回り、大鍋の柄杓をつかんでいた。煮え立つ湯をすくい、裂け目の手へ、迷わず浴びせる。
「ぎゃっ……!」
手が、引っ込んだ。戸の向こうで、男が転がる音と、押し殺しきれない呻きが続いた。
「――湯だ! 本当に沸かしてやがる!」
「聞いてた話と違えぞ、文官くずれだろうが……!」
裏口の外の気配が、二歩ぶん、退いた。
カイは、柄杓を鍋に戻し、荒くなる息を、無理やり数で整えた。吸って、四つ。吐いて、四つ。手が震えていた。人に、煮え湯をかけた。守るためだと分かっていても、腹の底が冷たくなる感触は、消えなかった。
――それでいい。慣れるな。
自分に、そう言い聞かせた。慣れた先にいるのが、あの継ぎ接ぎの外套だ。
「旦那ぁ」
正面から、ガロの声がした。
さっきまでのくぐもった声ではなかった。扉の、すぐ向こう。板一枚を挟んで、男はそこに立っていた。
「やるじゃねえか。裏のは、うちの若いのが火傷で泣いてるぜ。……なあ、もう分かっただろ。あんたは今夜、しのげるかもしれねえ。だが明日は? 明後日は? うちは暇なんだ。あんたが寝ずの番を何日続けられるか、賭けてもいい」
「……」
「悪いのは、あんたじゃねえんだよ」
声が、ふっと、柔らかくなった。それが、いちばん嫌な変化だった。
「あの灯りだ。あれがぜんぶ悪い。……旦那、あんた、分かってねえんだ。この道でな、夜に灯りをともすってのは、餌を撒くってことなんだよ。飢えた道に飯の匂いを流して、寄ってきたもんを、あんたは選べねえ。迷子も来る。俺たちも来る。あの女もそうやって釣れたんだろ? 灯りってのはな――罠なんだよ。ともした本人だけが、罠だと知らねえ罠だ」
カイは、扉の内側、三歩の距離で、その声を聞いていた。
そして、気づいた。この男は、時間稼ぎに喋っているのではない。いや、それもあるだろう。だが声の芯に、奇妙な熱があった。この男は、これを、カイに認めさせたいのだ。灯りは罠だと。善意は餌だと。そう認めさせることが、この男には、蓄えよりも必要なのだ。
なぜなら――そう認めさせられれば、あの外灯を憎む自分が、正しくなるから。
「……ガロ」
カイは、初めて、名前で呼んだ。
「あんた、昔、この宿に泊まったことがあるな」
扉の向こうが、沈黙した。
確信があったわけではない。だが、看板を見上げたあの目。昔と同じところに看板がある、という呟き。灯りの縁に正確に立つ足。この宿の裏口の位置も、窓の数も、下見なしで知っていたような、今夜の手際。
「二十年この道で荷を運んだって言ったな。なら、灯り木亭の前を、何百回も通ったはずだ。夜に、あの外灯を見たはずだ。……あの灯りを見て、罠だと思ったか? 思わなかったはずだ。ああ、今日も生きて着いた――そう思ったはずだ」
「……黙れ」
「灯りは、罠じゃない」
カイは、扉に向かって、はっきりと言った。
「約束だ。夜道の果てにいる誰かへの、『ここは拒まない』という約束だ。……あんたはそれを、誰よりも知ってるはずだ」
「黙れと言ってんだよ!!」
轟、と、扉が鳴った。
拳で、殴りつけた音だった。一度、二度。板が震え、埃が舞った。
「約束だと? ……笑わせるな。じゃあ聞くがな、旦那ぁ! 道が死んだ時、その約束はどこにあった!? 宿が閉まって、橋が落ちて、俺たちが道端で干上がってく間、どこの誰が約束を守った!? 誰も来なかった! 灯りは消えて、それっきりだ! 約束なんてもんは、道が生きてる間の飾りなんだよ!!」
叫びの残りが、風に千切れて消えた。
扉一枚を挟んで、荒い息の音だけが、しばらく続いた。
カイは、静かに答えた。
「……ああ。誰も守らなかった。それは、あんたの言う通りだ」
「……」
「だから、俺が点け直した」
扉の向こうで、息を呑む気配がした。
「一度切れた約束は、なかったことになるんじゃない。誰かが結び直すまで、切れたままそこにあるだけだ。俺は点け直した。だから約束は、今夜からまた生きてる。……ガロ。今からでも遅くない。得物を置いて、戸口から来い。そうしたら、あんたは今夜、押し込みじゃなくて客だ。飯も出す。それが約束ってものだ」
長い、長い沈黙があった。
風の音。外灯の硝子の鳴る音。厨房で、リアが湯の蓋を押さえている、微かな音。
やがて。
「……ははっ」
短い、乾いた笑いが、扉の向こうで鳴った。
「……ああ、駄目だ。あんた、駄目だよ、旦那。そういうこと言う奴の顔はな……見ちまったら、こっちが保たねえんだよ」
声が、扉から離れた。
そして、夜気を裂いて、号令が飛んだ。
「――総がかりだ!! 丸太持ってこい! 正面をぶち破れ!!」
複数の足音が、一斉に動いた。重いものを担ぎ上げる掛け声。砂利を蹴る音が、正面へ集まってくる。
「リア! 上だ!!」
カイは叫んだ。厨房で、鍵束をつかむ音がした。
直後、丸太の先端が、扉に激突した。
閂が悲鳴を上げ、食堂の扉全体が、内側へ、大きく軋んだ。




