# 023. 扉が叩かれる
足音は、散った。
一塊で来たそれが、宿の手前で、右と左に分かれていく。砂利の音が建物の両側を回り込み、やがて、正面、東の壁、裏手――少なくとも三方に、人の気配が立った。
囲まれた。
「リア。持ち場だ」
カイは、声を低く保った。リアは、こくりと頷いて、厨房へ入った。竈の火が、彼女の影を壁に大きく揺らした。
カイは、食堂の中央に立って、目を閉じた。
見えない以上、耳で数えるしかなかった。正面に二人。いや、三人か。東側に一人。裏に、二人。全部で六か、七。昼間見た五人より、増えていた。
どん、と。
正面の扉が、鳴った。
叩いた、という音ではなかった。拳ではなく、肩か、丸太の先で、一度、重く突いた音だった。閂が受けて、扉全体が軋んだ。
「……宿の旦那ぁ」
扉越しに、くぐもった声がした。ガロの声だった。
「灯り、見たぜ。景気のいい火じゃねえか。……ありゃあ、そういう返事ってことで、いいんだな?」
カイは、答えなかった。
答える代わりに、扉から三歩下がって、火掻き棒を握り直した。声の出所に気を取らせるのが、向こうの手だ。喋っている間、耳は正面に釘付けになる。その間に、別の場所が動く。
案の定だった。
がしゃん、と、東側で音がした。
塞いだ窓のひとつ。板の隙間に何かをねじ込んで、こじり始めた音だった。木の裂ける、嫌な音が続く。だが、あの窓の板は二重に打ってある。表の一枚を剥がしても、裏にもう一枚。こじる音は、途中で止まり、舌打ちらしき気配とともに離れていった。
一箇所目、しのいだ。
「開けろよ、旦那。手間ぁかけさせんな」
扉が、もう一度、突かれた。今度は二度続けて。閂の受け金が、みし、と鳴る。打ち直した樫の板が、衝撃を受け止めているのが分かった。だが、受け金は受け金だ。丸太で本気で突かれ続ければ、保って十数回。
カイは、扉のすぐ内側に、横倒しにしておいた長椅子を、足で押し込んだ。扉が破られても、開いた瞬間に足元へ椅子が絡む。転ばせるための、二段目の備えだった。
「リア!」
厨房へ、声を投げる。
「湯は!」
「わ、沸いてます!」
「よし、そのまま火を強くしろ! 使うまで、蓋をしておけ!」
言葉の半分は、指示だった。もう半分は、扉の外への聞かせ物だった。湯、という言葉は、塀の外の連中の耳にも届く。狭い入口から押し入る人間にとって、煮え湯の存在は、それだけで足を重くする。
実際、正面の突きが、一度、止まった。
外で、低い言い合いの気配がした。風がそれを千切って、内容までは聞こえない。だが、勢いだけで来た連中の足並みが、最初に乱れる音だった。
――そうだ。考えろ。面倒だと思え。
カイは、汗の滲む手を、ズボンで拭った。
こちらの勝ち筋は、ひとつしかない。撃退ではない。断念させることだ。連中は飢えている。飢えている人間は、実入りと手間を天秤にかける。手間が実入りを超えたと思わせた瞬間、この夜は終わる。だから、一箇所しのぐたびに、手間の皿へ、石をひとつずつ載せていく。
みしり、と。
今度は、裏だった。
裏口の戸が、軋んだ。こじ開けではない。体当たりだった。一度、二度。新調した閂が受ける。三度目で、内側に据えた水瓶が、ずん、と鳴った。戸が数寸押し込まれ、瓶の縁に当たったのだ。
「……っ、なんだこりゃ」
戸の向こうで、くぐもった声がした。
戸の隙間から覗いても、暗い厨房の土間に、大瓶がひとつ座っているだけだ。押せば動くと思うだろう。動かない。水の入った大瓶は、見た目の倍、重い。
体当たりが、続いた。一度ごとに、戸の板が撓み、水瓶が土間を、指の幅ずつ滑る。
想定より、早い。
カイは、厨房の入口まで下がった。竈の前で、リアが大鍋の蓋に手を添えたまま、裏口を見つめていた。顔は白かったが、足は、持ち場から動いていなかった。
「リア。聞け」
カイは、裏口から目を離さずに言った。
「裏が破られたら、俺はここで止める。厨房の入口は狭い。一人ずつしか入れない。……お前は、その時が来たら、『上』だ。鍵束と手燭。部屋に入って、鍵をかける。いいな」
「で、でも、お湯が――」
「湯は俺が使う。お前の仕事は、鍵だ」
カイは、一瞬だけ、リアを見た。
「二階の客室の鍵は、全部お前に預けてある。あの鍵束は、この宿の、部屋という部屋の戸締まりだ。それを持って、自分の部屋の鍵をかける。……それは逃げ隠れじゃない。この宿の最後の戸締まりを、お前が締めるってことだ。分かるな」
リアの目に、一度、涙の膜が張って――引いた。
「……はい。私が、締めます」
どん、と、ひときわ重い音がした。
裏口の戸の、下の板が、内側へ裂けた。
裂け目から、夜の冷たい風が、ひと筋、厨房の土間へ流れ込んでくる。竈の火が、あおられて大きく揺れた。裂けた板の向こうに、闇と、動く人影と――泥だらけの手が、見えた。
カイは、火掻き棒を握り直し、裏口の正面に立った。
ここから先は、一人ずつしか来られない。そのための、この宿だった。




