# 022. 嵐の前の食卓
日暮れまでの五刻を、カイは点検に使った。
塞いだ窓の板を、一枚ずつ揺すって確かめる。裏口の水瓶に、水を注ぎ足す。食器棚の空き瓶を並べ直し、逃げ道の柵を油で滑らせ、厨房の大鍋を竈にかけた。それから、宿にある唯一の斧――こちらが使うためではなく、向こうに使わせないための斧を、床下に沈めた。
やることを数え上げていくと、手は動いた。
手が止まると、膝の裏の強張りが戻ってきた。だから、止めなかった。働いていないと考えてしまうんです、といつかリアが言った。今なら、あの言葉の芯まで分かった。
厨房からは、昼を過ぎたあたりから、いつもと違う匂いがしていた。
夕方、食卓に並んだものを見て、カイは瞬きをした。
豆と乾茸のスープ。灰焼きの平パン。そこまでは、いつも通りだった。だがその横に、干し肉を柔らかく煮て香草を絡めたものが一皿。芋を潰して焼き固めたものが一皿。それから、薄く蜂蜜を塗ったパンの耳が、小さく切って並べてあった。蜂蜜は、掃除の時に見つけた、壺の底の残りのはずだった。
「……祭りか?」
「ち、違います」
リアは、前掛けの端を握った。その手が、白かった。
「その……今夜、いつ、その、始まるか分からないから。途中でお腹が空いたら、力が出ないので。腹持ちのいいものと、すぐ食べられるものと……甘いものは、その、怖い時に舐めると、少しだけ、落ち着くから……」
声は、途中から震えていた。
震えながら、この娘は、戦の支度を食卓の言葉に全部訳して、並べたのだった。武器は持てないから、代わりに芋を焼き固めた。見張りは立てないから、代わりに蜂蜜を塗った。
「座れ。冷める」
カイは、いつもの席に着いた。いつもの声で言えたかどうか、自信はなかった。
「い、いただきます」
「いただきます」
食い始めて、すぐに分かった。リアの匙は、動いていなかった。椀を持つ手が細かく震えて、スープの面に、小さな輪がいくつも立っていた。
無理もなかった。カイの匙も、味が半分しか分からなかった。
だから、カイは、話した。
「この芋のやつ、うまいな。固めてあるのに、中は柔らかい」
「……つ、潰してから、少しだけ粉を混ぜるんです。そうすると、崩れなくて」
「冬の保存食になるか」
「なります。焼いてから干せば、日持ちします。あの、食堂では、冬の仕込みの時期に、樽で……」
リアの匙が、動き始めた。
食い物の話をしている間だけ、この娘の手は震えを忘れる。それはもう、カイの知っている事実だった。だからカイは、干し肉の煮方を訊き、香草の使い分けを訊き、東の町で買うべき香辛料を訊いた。リアは答え、答えるうちに、椀は少しずつ軽くなっていった。
「……あの、カイさんは」
椀の底が見えたころ、リアが、ぽつりと訊き返した。
「怖く、ないんですか」
「怖い」
カイは、即答した。
飾っても仕方がなかった。それに、ここで「怖くない」と言えば、リアは自分の怖さを、一人で抱え直すことになる。
「昼から、膝の裏がずっと強張ってる。さっき、水瓶に水を足す時、桶を持つ手が滑った。……怖いんだ、普通に。俺は戦ったことがない。今夜が初めてだ」
「じゃ、じゃあ、なんで、そんな、いつも通りに、ごはん……」
「いつも通りに飯を食うためだ」
カイは、蜂蜜のパンを一切れ、口に放り込んだ。
「連中が奪いに来るのは、蓄えと、お前と、それからたぶん、これだ。この食卓だ。夕方に飯の匂いがして、椀が二つ並んで、うまいだの何だの言いながら食う、この時間ごと潰しに来る。……だったら、こっちの返事は決まってる。今夜も、いつも通りに食う。食った上で、守る。先に食卓のほうを諦めたら、守るものが減るだけだ」
リアは、蜂蜜のパンを、小さくひと口かじった。
「……甘い」
「ああ」
「……効きますね、これ」
「ああ」
それだけの会話だったが、食べ終わるころには、二人の椀は空になっていた。
皿は、リアが洗い、カイが拭いた。いつも通りの順番で、いつもより丁寧に。洗い終えた皿を、リアは棚のいつもの場所に、きっちり揃えて戻した。まるで、明日の朝も当たり前にこの皿を使うのだと、棚に約束させるような手つきだった。
それから、二人で戸締まりを回った。
正面の閂。良し。食堂の締まり木、二箇所。良し。倒した食器棚と空き瓶。良し。裏口の閂と水瓶。良し。厨房の大鍋は、湯気を立て始めている。逃げ道の柵。良し。
「持ち場を、もう一度言ってみろ」
「厨房です。火と、お湯の番。カイさんが『火を見ろ』って言ったら、鍋を鳴らし続ける。……もし、もしも中に入られて、カイさんが『上へ』って言ったら、鍵束と手燭を持って、二階の私の部屋に入って、内側から鍵をかける。開けていいのは、カイさんの、三回・二回の叩き方だけ」
「よし」
最後に、カイは油壺を持って、外に出た。
西の空に、まだ夕焼けの燃え残りがあった。風が出てきている。疎林の梢が、ざわざわと鳴っていた。
外灯の前に立つ。
灯りを消して待ってろ、と、あの男は言った。消えた灯りは降参の白旗で、ともった灯りは覚悟の返事だと。
カイは、受け皿に油を注いだ。いつもの半分ではなく、縁まで、なみなみと。朝まで保つ量だった。
芯を整え、火を移す。
火は、風に一度大きくあおられて、それから、しっかりと立った。
「……これが、返事だ」
カイは、硝子の覆いを閉じた。
宿に戻り、正面の閂を下ろす。重い木の落ちる音が、建物の中に響いた。リアが厨房の入口に立って、こちらを見ていた。カイは頷いてみせた。リアも、頷き返した。
それから、待った。
風が、強くなっていく。外灯の火が、硝子の中で身をよじるのが、食堂の窓から見えた。梢の音に、時折、屋根の鳴る音が混ざる。竈では、大鍋が静かに湯気を上げ続けていた。
どれほど、経ったか。
風の音の、その下に。
砂利を踏む音が、聞こえた。
一人分では、なかった。




