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第14話 算盤と、遠い夜の話

「Dランク昇格に――かんぱーい!」


『かどの店』の奥の席。ニーナが勢いよく掲げた木組みのジョッキに、宗一が自分のジョッキを軽くぶつける。琥珀色のビールが少しだけ跳ねた。


「ほう。今日の肉は、いつもより分厚いな」

「特別だからね! Dランクになれば、こんなお肉が毎日でも食べられるようになるんだから!」


 ニーナは上機嫌でナイフを入れた。宗一も自分の皿の肉を口に運び、それから、店員が遠巻きにドン引きしながら置いていった『例のスープ』を啜る。

「……美味い」


 周囲の客がまたヒソヒソと「バカ舌だ」「かわいそうに」と囁き合うが、宗一はどこ吹く風で二口目を啜った。ニーナはその惨状から目を逸らしつつ、ふと思い出したように口を開いた。


「そういえばさ、宗さん。前に出会った時は『どこから来たか知らん』なんて言ってたけど……本当のところはどうなのよ」

「ん?」

「最初は記憶喪失だと思ってたんだけど……色々話してると、どうも記憶がないというわけではなさそうだし」

 宗一はスープの匙を置き、ジョッキのビールを一口飲んだ。

「……きょう、という町だ。この街よりも少しばかり窮屈で、血の気が多い連中が集まる場所でな」


「へえ。そこで何してたの?」

「まあ……この街でいう衛兵、みたいなものだ」

「ふーん。で、その衛兵さんが、どうしてこの街に?」

「それがわからないんだ。仕事を終えて考え事をしていて……気がついたら街の外の草原にいた」

「何それ。いくら考え事してたからって、普通別の街の草原まで無意識で歩かないでしょ」

「私にもさっぱりだ。狐にでも摘ままれた気分だよ」


 宗一は軽く笑って流すと、おもむろに懐へ手を入れた。

「ところで、これだ」

 宗一がテーブルの上にコトンと置いたのは、手のひらより少し大きい、長方形の平べったい木枠だった。精巧に削り出された細い軸が何本も通り、そこに小さな木の玉がいくつも串刺しにされている。


「なにこれ?」

「『算盤そろばん』という、私の故郷の計算機だ。お前の昇格祝いに、夜な夜な木を削って作っていた」


「……ちょっと待って。昇格が決まったの、ついさっきの夕方なんだけど?」

「ははは。夜な夜な、といっても今夜だ」

「今夜!? まだ夕飯中なんだけど!?」


 宗一はパン、と気の抜けた手拍子を打って笑った。ニーナは呆れて天を仰いだ。

「……まあ、昇格には関係なく、頃合いを見て渡そうと思っていたんだ」

「適当ねえ……」


 宗一の指先や刀の扱いが異常に繊細であることは、ニーナも知っている。だが、まさかただの木切れからこんな精巧な道具を作れるとは思いもしなかった。


「計算機? これが?」

「上の玉が五、下の玉が一を表す。これを指で弾いて計算するんだ」

 宗一は算盤を自分の方へ引き寄せると、指先でパチパチと小気味よい音を立てて玉を弾いた。


「……昔、河合という金勘定の得意な同僚がいてな。そいつがいつも使っていたんだ。私も多少の手解きを受けた」

 宗一の目が、少しだけ遠くを見た。しかしすぐにいつもの飄々とした視線に戻り、算盤をニーナの前に押しやる。


「お前のその『物理法則ハック』とやらは、計算が大事なんだろう?」

「……うん。対象の重力や摩擦を同時に書き換えるには、頭の中での暗算が追いつかなくて。それが今の私の壁」


「なら、こいつを使え。数字を頭で覚えるのではなく、指先の動きと視覚で処理するんだ。……慣れれば、この道具がなくても、頭の中に『算盤』を思い浮かべるだけで劇的に計算が早くなる」


「頭の中に……!」

 ニーナはハッとして、算盤を見つめた。恐る恐る玉に指を触れ、宗一に言われた通りに動かしてみる。


「銀貨と銅貨の計算だと思えばいい」

 宗一のその一言で、ニーナの頭の中で何かがカチリと繋がった。パチ、パチ、パチ。最初はおぼつかなかったニーナの指の動きが、数分のうちに滑らかになっていく。頭の中で複雑に絡み合っていた魔術の数式が、指先の玉の動きへと変換され、恐ろしい速度で処理されていく。


「……すごい。これなら、複数の定数書き換えも同時にいける……!」

 ニーナの目が驚愕と興奮に見開かれる。パチパチパチパチパチパチッ! テーブルの上に、かつて宗一が聞いていたのと同じ、小気味よい音が響き渡り始めた。


「ニーナは金への執念がすさまじいからな。すぐに覚えると思ったよ」

「うるさいっ!」

 ニーナは照れ隠しのように怒鳴りつつも、算盤から手を離そうとしない。


 パチパチという日常の音を聞きながら、宗一は一人ジョッキを傾け、どこか可笑しそうに目を細めた。

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