第1話 油小路の雨
雨だった。
慶応三年、晩秋。京の夜は冷たく、油小路の石畳は黒く濡れていた。
瀬能宗一は、路地の角に背を預けたまま、煙草を一服つけた。火が湿気に負けそうになるのを、指先で庇いながら。
「宗さん! あいつら裏へ回った!」
声が飛んでくる。若い、よく通る声。
「伊織、正面を塞げ」
宗一は煙草を雨に捨てた。
「私が裏から行く」
「宗さんが裏って――」
返事を聞く前に、宗一は路地を出た。
裏とはつまり、奴らが逃げ込んだ方向だった。
五人。いや、四人か。提灯の明かりが雨に滲んで、正確な数を掴みにくい。全員が刀を抜いている。血気盛んで、怖くて、それでも逃げ場がなくて、こちらへ走ってくる。
宗一は羽織の衿を直した。浅葱色の布が、雨を吸って重くなっていた。
足を止めない。
向こうも止まらない。
最初の一人が叫びながら斬りかかってきた瞬間、宗一の右手が動いた。
それだけだった。
二人目が気づいた時には、隣の男が膝から崩れていた。何が起きたかわからない顔で。宗一はすでに三人目の横を通り過ぎていて、四人目が振り返った時には、もう誰も立っていなかった。
静寂。
雨音だけが戻ってくる。
宗一は刀を納めながら、石畳の血が雨に溶けていくのを見ていた。
路地から足音。
「宗さん、終わりましたか」
伊織だった。二十歳そこそこ、涼やかな目元に泥が跳ねている。息が少し乱れていた。
「終わった」
「早いですね、相変わらず」
伊織は周囲を見渡し、それから宗一の顔を見た。
「……一人、若いのがいませんでしたか」
「いた」
「斬りましたか」
「仕事だろう」
伊織は何も言わなかった。言えないのか、言わないのか、宗一には判断がつかなかった。
「戻れ」と宗一は言った。「土方さんへの報告はお前がしろ」
「宗さんは?」
「少し歩く」
伊織はもう一度だけ宗一の顔を見て、それから頷いた。足音が遠ざかっていく。
雨は止まなかった。
一人になると、さっき斬った顔が浮かんだ。
若かった。伊織と、大して変わらない歳だったかもしれない。何かを信じて、それを守ろうとして、刀を握っていた。その目だけは覚えている。怖くて、真剣で、まだ何者かになれると思っていた目。
新撰組に死神がいる、という噂があった。
夜に消えた者は翌朝死体で見つかる。斬られたことすら気づかぬまま、ただ事切れている。目撃者はなく、騒ぎもなく、風の噂だけが京の町を流れた。噂の出所もわからない。ただ、宗一本人だけが知っていた。
新撰組零番隊。
土方歳三直属の、誰も知らない部隊。隊士名簿にも載らず、屯所にも顔を出さない。「新撰組の誠」を守るために、誠に背くすべての汚れ仕事を、歴史から抹消する形で遂行する。構成員は二名。それだけだった。
その死神は今、雨の中で頭を抱えていた。
どこで間違えたのか。
もうわからなかった。気づいた時にはこういう仕事をしていて、気づいた時には斬ることが呼吸になっていた。
穏やかに暮らしたかった。ただそれだけだった。どこかの田舎で、不味い飯でも食って、何者でもなく生きていく。それだけで良かった。
なのに。
雨に打たれながら、宗一はただそれだけを思った。
やり直したい、と。
神でも仏でも、誰でもいい。もう一度だけ。
今度は、誰も斬らなくていい場所で。
目を閉じた瞬間、足元が消えた。
気がつくと、空が見えた。
知らない空だった。色が違う。青すぎる。こんな空を、宗一は見たことがなかった。
体を起こすと、見知らぬ草原が広がっていた。石畳も、提灯も、血の匂いも、何もない。
宗一はしばらくその場に座ったまま、遠くの山を眺めた。
それから、小さく息をついた。
「……どこだ、ここ」
誰も答えない。風が草を揺らすだけだった。
宗一は立ち上がり、雪駄の泥を払った。浅葱色の羽織はまだ湿っていた。刀は腰にある。煙草は、雨で全滅していた。
とりあえず、歩くしかなかった。




