表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/33

第1話 油小路の雨

 雨だった。

 慶応三年、晩秋。京の夜は冷たく、油小路の石畳は黒く濡れていた。

 瀬能宗一は、路地の角に背を預けたまま、煙草を一服つけた。火が湿気に負けそうになるのを、指先で庇いながら。


「宗さん! あいつら裏へ回った!」

 声が飛んでくる。若い、よく通る声。

「伊織、正面を塞げ」

 宗一は煙草を雨に捨てた。

「私が裏から行く」

「宗さんが裏って――」

 返事を聞く前に、宗一は路地を出た。


 裏とはつまり、奴らが逃げ込んだ方向だった。

 五人。いや、四人か。提灯の明かりが雨に滲んで、正確な数を掴みにくい。全員が刀を抜いている。血気盛んで、怖くて、それでも逃げ場がなくて、こちらへ走ってくる。


 宗一は羽織の衿を直した。浅葱色の布が、雨を吸って重くなっていた。

 足を止めない。

 向こうも止まらない。


 最初の一人が叫びながら斬りかかってきた瞬間、宗一の右手が動いた。

 それだけだった。

 二人目が気づいた時には、隣の男が膝から崩れていた。何が起きたかわからない顔で。宗一はすでに三人目の横を通り過ぎていて、四人目が振り返った時には、もう誰も立っていなかった。


 静寂。

 雨音だけが戻ってくる。

 宗一は刀を納めながら、石畳の血が雨に溶けていくのを見ていた。


 路地から足音。

「宗さん、終わりましたか」

 伊織だった。二十歳そこそこ、涼やかな目元に泥が跳ねている。息が少し乱れていた。

「終わった」

「早いですね、相変わらず」

 伊織は周囲を見渡し、それから宗一の顔を見た。

「……一人、若いのがいませんでしたか」

「いた」

「斬りましたか」

「仕事だろう」

 伊織は何も言わなかった。言えないのか、言わないのか、宗一には判断がつかなかった。


「戻れ」と宗一は言った。「土方さんへの報告はお前がしろ」

「宗さんは?」

「少し歩く」

 伊織はもう一度だけ宗一の顔を見て、それから頷いた。足音が遠ざかっていく。

 雨は止まなかった。


 一人になると、さっき斬った顔が浮かんだ。

 若かった。伊織と、大して変わらない歳だったかもしれない。何かを信じて、それを守ろうとして、刀を握っていた。その目だけは覚えている。怖くて、真剣で、まだ何者かになれると思っていた目。


 新撰組に死神がいる、という噂があった。

 夜に消えた者は翌朝死体で見つかる。斬られたことすら気づかぬまま、ただ事切れている。目撃者はなく、騒ぎもなく、風の噂だけが京の町を流れた。噂の出所もわからない。ただ、宗一本人だけが知っていた。


 新撰組零番隊。

 土方歳三直属の、誰も知らない部隊。隊士名簿にも載らず、屯所にも顔を出さない。「新撰組の誠」を守るために、誠に背くすべての汚れ仕事を、歴史から抹消する形で遂行する。構成員は二名。それだけだった。


 その死神は今、雨の中で頭を抱えていた。

 どこで間違えたのか。

 もうわからなかった。気づいた時にはこういう仕事をしていて、気づいた時には斬ることが呼吸になっていた。

 穏やかに暮らしたかった。ただそれだけだった。どこかの田舎で、不味い飯でも食って、何者でもなく生きていく。それだけで良かった。


 なのに。


 雨に打たれながら、宗一はただそれだけを思った。

 やり直したい、と。

 神でも仏でも、誰でもいい。もう一度だけ。

 今度は、誰も斬らなくていい場所で。

 目を閉じた瞬間、足元が消えた。


 気がつくと、空が見えた。


 知らない空だった。色が違う。青すぎる。こんな空を、宗一は見たことがなかった。

 体を起こすと、見知らぬ草原が広がっていた。石畳も、提灯も、血の匂いも、何もない。


 宗一はしばらくその場に座ったまま、遠くの山を眺めた。

 それから、小さく息をついた。

「……どこだ、ここ」

 誰も答えない。風が草を揺らすだけだった。


 宗一は立ち上がり、雪駄の泥を払った。浅葱色の羽織はまだ湿っていた。刀は腰にある。煙草は、雨で全滅していた。


 とりあえず、歩くしかなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ