50.「キス」
「なに、めっちゃ驚くじゃん……」
「いや、そ、そりゃ……え、なんっ」
やっていることに対して、いくらなんでもな言い様だ。
なんで、叶が俺の布団の中にいるんだ?
「へ……部屋で寝てたんじゃ」
「そうだけど。なんか久しぶりに帰ったら、この家こんなに寒かったのかって……つい驚いちゃってさ」
な、なるほど。
たしかに8ヶ月近くも寮のベッドで寝てれば、そういう感覚になってしまうのも無理ないのかな。
どの部屋で寝てもあまり変わらないと思うけど、その点はひとまず置いておこう。
「そっか。あの、じゃあ俺はどこで寝れば……」
そう言うと、叶は目線を俺からプイと逸らしながら、敷き布団の空いたスペースを手でポンポンと叩いた。
心の中で響いた「まじか」という声には、どこか期待めいた喜びと、先の見えない不安が確かに同居していた。
「お、おじゃまします」
「ん……」
なるべく音を立てないよう、気を遣いながら掛け布団を持ち上げると、中は叶の体温でほのかに暖まっていた。
叶に背を向ける形でお互いの身体に若干の隙間を開けつつ、限られたスペースに身を納められるよう、全身を伸ばすような体勢で布団に潜りこむ。
――そうしていたのに、叶が遠慮なく背後から身を寄せてきたものだから、俺の心拍がこの上なく跳ね上がった。
叶の腕が肩から胸板にまで回ってきて、それから横になったまま全身が密着した。
そして、俺の顔に触れそうなほど近いところで呼吸が繰り返されるたび、あたたかな吐息がくすぐったくて全身が否応なしに硬直してしまう。
「あ、あの」
「忍君が悪いんだ。あんなに恥ずかしげもなく、好きだ好きだって立て続けに言うから……」
「ごめん……あれは、その。おにいとのデュエルが、つい熱くなってしまって」
「……」
「……いやぁ~、それにしても“おにい”の作るカードって、俺がイメージしてた“おにい感”とはちょっと違ったナァ。もっと雑なカードたちをイメージしてたら、意外とよく考えられてて、なんというかこう……」
「……私だって、ずっと我慢してたのに」
「……我慢?」
「……」
あれ――なんだろう。
俺はいま、叶がふいに口にした“我慢”という言葉が、妙に引っ掛かった。
普通に考えれば、この場合の“我慢”は『好きって言いたいけど、人前で言うのは恥ずかしい』って意味で間違いはないはずで。
現実やフィクション問わず、惚気たカップルがよく見せるような……いわゆる微笑ましい一幕に突入したのかなと、俺も最初は思った。
『楽しいことがあればすぐに言葉にするのに、その逆のことはだんまり』
『変に嘘で返せないところも、昔から変わらないね……あの子は』
でも、だったらなんで叶は――俺に抱きつくのではなく、しがみつこうとしているんだ。
それがどうしても不思議だった。
でも、理由を聞くことはできなかった。
だから、俺は必死に服をつかむ叶の手に、そっと手を添えることしかできなかった。
「……っ」
「……」
外で反響する風の音と、どこかのトタン屋根がたわむ音がないまぜになって、この薄明りの静寂にたしかな時間の流れを生んだ。
何秒、いや何分が経っただろうか。
お互いにしばらく何も話さず、ほとんど動くこともなかった。
背後の叶はいま、どんな顔をしているんだろう。
もしかしたら、いつの間にか寝てしまっていたりして。
時々そう思いはしたけど、重ねた手には力がずっと込められていた。
「……あは」
そして、自分でも呆れ返るほど間の抜けた笑いが漏れた。
だって、おかしいだろ。
告白の時ですら埋まっていなかったピースが、今になってピタッとはまったのだから。
「そっか、“おにい感”なんて――はじめから存在しなかったんだな」
ようやく辿り着いた俺の答えを聞いて、叶の手からはすっと力が抜けた。
「……ごめんなさい。本当は、忍くんが作ったカードなら……なんだってよかった」
返って来たのは不安と安心が入り混じった、“弱音”にも似た“嘘”の白状だった。
「私、忍くんが何かのきっかけで、カード作りをやめちゃったら……私たちの繋がりがなくなっちゃうって思ったの。だから、忍くんがカード作りに目標を持てるように……おにいの名前を出したんだ」
たしかに、自作カードという“きっかけ”があって、初めて俺たちは秘密を共有することができた。
「あはは……忍くんに見損なうなって言っておきながら、結局私も同じことを考えてしまってたんだね。ホント、ダサいよね」
だからこそ、叶が“俺”と“おにい”を重ねていた時期もあったはずだ。
実際、俺が“おにい”の代わりになろうと必死でカードを作っていたのも、そんな叶の感情を汲み取っていたつもりだったからだ。
『なんで、期待に応えるために、楽しかった思い出を――みんなの前で恥ずかしいって、思わなきゃいけないんだろう』
でも、本当は初めからサインが出ていたんだ。
雨の降る天宮祭りで言葉を交わしたとき、叶が家族にも見せちゃいけないとひた隠しにしていた弱いところを、俺が見てしまった。
だから俺は、家族の代わりになっちゃダメだったんだ。
室井忍という、唯一無二の“逃げ場”が――叶には必要だったんだ。
「……大丈夫、これからもカードは作り続ける。俺が好きでやることだからね」
そう伝えてすぐに、触れていた叶の手に再び力が僅かにこもった。
それは決してしがみつくような力ではなく、手に何かを納めるような指の運びだった。
同時に、背中にぴたりと触れていた彼女の身体から、リズムの不揃いな震えが伝わってきた。
「ありがとう……でもね。私、もう……それだけじゃ、だめになっちゃった」
「……叶」
嗚咽の混じった、痛切な訴え。
叶が我慢できなくなったこと。
それはまさに、関係が停滞することに対する恐怖の発露だった。
叶が俺を実家に呼んでくれたのは、きっと俺に家族と会ってもらって、今の関係を少しでも前に進めたかったからだと思う。
だけど、こうして“愛し合える”タイミングを見出してしまったのは、きっと本当にたまたまなんだ。
普段は寮を出られない彼女が――俺の心が離れていかないよう、より強く繋ぎとめたい衝動に抗えなかったがために。
「――」
そんなの、俺だって気持ちは同じだよ。
だから、俺は今度こそ自分から動くことにした。
上体を起こし、ゆっくりと振り返る。
月明かりに照らされた叶はシーツをぎゅっと握りしめたまま、仰向けになってこちらを見上げていた。
驚いた顔も、流れ星みたいな涙の筋も、すべて目に焼き付けた。
塩素で傷んだ叶の髪にそっと手を添えて、潤いと戸惑いの混じった彼女の目線が落ち着きを取り戻すまで、あたたかくなった頭をゆっくりと撫でた。
やがて、じんわり蕩けていくような叶の瞳が、ひとりぶんの人影を映し出す。
そして、俺は瞳を閉じて、顔を近づけた。
「――」
このキスは、正真正銘――俺のワガママだ。
だって、俺は叶が好きだから。
◆
あれだけ吹き荒んでいた海の風が、今は穏やかに落ち着いているようだ。
耳に飛び込んでくるのは、一定のリズムで「すー」と聞こえる寝息、窓越しの空で響き渡るウミネコのたくさんの「ニャア」。
瞼を開くと、白いカーテンを透過した朝の光が、周囲を優しく照らし出していた。
次に天井から吊り下がる和照明が目に飛び込んできて、それから格子状に広がる板張りの天井が、視界の中でじんわりと形を表してきた。
何度か瞬きをした後、右腕に感じるあたたかな重みに気が付いて、目線を向ける。
「すー、すー」
布団に包まれ、俺の腕枕の上でゆるんだ叶の寝顔に――思わず胸が跳ねた。
嬉しさと、やっちまった感と、このあとの未来予想。
これらすべてが、巡り巡る思案の中でひたすらにごった返している。
だめだ、落ち着こう。
もちろんタバコは吸わないけど、ここは何より一服ってやつが必要だ。
そうだ、言葉だ。
落ち着ける言葉を何か探そう。
「……これが朝チュンならぬ、朝ニャアってやつか……」
そう言ったとたん、寝返りを打った叶のゆるい拳が――俺の顔面を鞭打った。




