49.「ホットミルク」
海が近いからかもしれない。
特に今は、家屋全体が強い夜風に晒されているようだ。
ところどころから吹き込む冷気や、仄かな潮の香り。
そして敷布団と畳を隔てて床から伝わるほんの僅かな振動、ピュウピュウと響く音。
目が覚めてしまうのも、無理はなかった。
まだ月と黒い空のコントラストは強く、スマホを光らせると時刻は2:24を指していた。
「はぁ……」
結局あの後、かーな……いや、そう呼ぶとまだ怒られるので叶の機嫌は、俺たちをデュエルで完膚なきまでにボコボコにしたあとも収まることなく、すっきりしない空気のままそれぞれの寝床についた。
俺は昨日の昼に訪れた仏壇のある和室とは別の、小さな和室を寝場所として使わせてもらっている。
お母さんと“おにい”、そして叶はそれぞれ自分たちの部屋で寝ているらしい。
これまで誰かの家に泊まることはあれど、それはすべて男友達の家で、ゲームやら話やらをしている間に気が付けば同じ部屋で寝ていたという具合だった。
今回のように、慣れない環境でしっかり客人として迎えられて、一人で寝るという経験は本当に初めてで、正直なところ心細かった。
「……トイレ借りよ」
暗がりの中、俺は覚束ない足取りで襖をそっと開けて、キンと冷え切った廊下に足を踏み出した。
水道の蛇口に直接ついたハンドルを回す。
流れ出た水のあまりの冷たさに驚いたあと、昔懐かしいハムスターのキャラクターが描かれた壁掛けのタオルで、しっかり手を拭いた。
ギイと響くドアの音に心拍が上がりつつ、ざらざらとした塗り壁を手で伝い、俺は部屋を目指した。
しかし戻り道を間違えてしまったのか、気が付けば俺は往路では見なかった、ドアの隙間から明かりが漏れている部屋の前にたどり着いていた。
悪いかなと思いつつ、俺はそっと隙間から中を覗き込む。
そこは、昼に何度もみていたはずのダイニング。
テーブルにはお母さんが一人で座り、カップの中に入った飲み物をゆっくりと飲んでいた。
なぜこんな早い時間に?
そう思いはしたが、とにかくお邪魔はしてはいけないと、俺は静かにその場を離れようとした。
しかし、差し足をそっと床に置いた瞬間に「メキッ」という音が盛大に響いてしまった。
慌ててダイニングを振り返ると、お母さんがこっちをじっとりとした目で見ていた。
「眠れないのか」
「ひっ」
多少慣れたとはいえ、やはり眼光とアヴァンギャルドな金髪には迫力がある。
パワー30000のオーラに巻かれて喉から絞り出された俺の情けない声に、お母さんはきょとんとしていた。
「……何か温かいもの飲むかい。もっぺん歯を磨くことになるけど」
「の、のみます」
「いえ、寝ます」とは言えなかった。
単純に断るのが、ちょっと怖かったのもある。
だけどそれ以上に、俺に話しかけたお母さんの声色はどこか……「話を聞いてほしい」と、言っているようにも聞こえたんだ。
本当になんとなく、だけど。
「コーヒーは目が覚めちまうか。ノンカフェインのものは……しまった、牛乳か生姜湯しかないや」
「あ、じゃあ牛乳をください」
「ん」
お母さんはそう短く答えて、年季の入ったマグカップに牛乳を注ぎ、電子レンジの中にそっと置いた。
鋼板を叩きつける夜風の音と、電子レンジのターンテーブルが回る音。
ダイニングに訪れた静寂は、なんだか不思議と心地が良かった。
「もしかしてなんですけど、俺たちの声……うるさかったですか?」
「ん? どういうことだい」
「いや、こんな夜中に起きてどうしたんだろうと思って。それが昨日の俺たちの騒ぎのせいだったら、その」
「あはは、違うよ。この時間はいつもとっくに起きてるのさ」
「えぇ、いつも!?」
「市場の朝は早いからね……ほら、できたよ」
電子レンジが発したメロディから遅れて、俺の前にそっと湯気の立つマグカップが差し出された。
「おかげで、今日みたいなオフでも習慣で目を覚ましてしまう。ま、アンタを駅まで送る途中で寝たりはしないから安心しな」
「それは凄いっすね……俺、そんな早くに起きられたことないですよ」
「そりゃそうだ。それが世間様の普通。とはいえ、アタシも旦那と出会うまでは……むしろ今の生活が当たり前だと思ってたんだがね」
「……」
お母さんが冷蔵庫に目を向けたので、俺も同じところへ目を向けた。
色褪せた四角い白枠が、マグネットで貼り付けられている。
その中には小さな男の子の手を引く金髪の若い女性と、眼鏡をかけた男性が胸から肩に赤ちゃんを乗せ、背中を優しく叩いている場面が切り取られていた。
「このあとバカみたいにデカいゲップをしたんだよ、あの子」
そう言って、お母さんは笑う。
俺は写真を眺めながら、ホットミルクを口にしようとした。
それは熱いくらいにまで温められていて、思わず唇をやけどしそうになった。
そんな俺の様子を一瞬、お母さんが心配そうな表情で見てきたので、手で「大丈夫です」と伝えた。
「……叶は、向こうでは元気にやってるのかい」
「はい、とても元気に頑張っていますよ」
「そうか、まぁ……そうなんだろうね」
「ん?」
どこか含みのある返答に、思わず疑問が湧いた。
お母さんが手に持ったマグカップから、コーヒーの香ばしい香りが湯気に乗って届く。
「あの子、引っ越してからしばらくは音沙汰なかったのにさ。インターハイ予選の結果報告をもらってからは……アンタと『〇〇をした』、友達と『〇〇できたよ』ってメッセージを、頻繁にくれるようになったんだよ」
「あはは、それは安心しました」
「……楽しいことがあればすぐに言葉にするのに、その逆のことはだんまり。変に嘘で返せないところも、昔から変わらないね……あの子は」
「……それは」
俺が言葉を返そうとした瞬間、お母さんは「ちゃんと歯は磨くんだよ」と言って小袋入りのクッキーを差し出してきた
「まぁそうなったのは、アタシのせいでもある。女手ひとつで育てられてると自覚した途端、あの子たちは自分たちにできることをしなきゃと、自分たちなりに考えたんだろうね」
「……」
「美味いかい」
「はい……」
「……それは親として嬉しくもあったけど、何より申し訳なさ、不甲斐なさが勝った。海水浴場が近かったから、よく海では遊ばせてやれたが……それ以外の子供らしい遊び方はろくに教えてやれず、大したお小遣いもあげられなかった」
――そうか。
そうして唯一覚えた遊びが、おにいが作ってくれるカードだったということか。
「だからその分、あの子たちは自分にできる勉強と水泳を、ひたすらに頑張っていたんだね。そんなあの子たちの強かな頑張りが、今ようやく実を結ぼうとしている……アタシにはもったいないくらい、よくできた子供たちだ」
「……ごめんなさい。俺、気の利いた言葉が思い付かなくて」
「ははっ、それでいいさ。これからもな」
お母さんはそう言って、穏やかに微笑んだ。
俺は、少しぬるくなったホットミルクをぐぐっと飲み干した。
やがて、俺は洗面台の冷たい水でもう一度歯を磨き、布団の敷かれた部屋に戻った。
静かに襖を閉め、こんもりと盛り上がった掛け布団をそっと上げる。
「……遅かったじゃん」
俺はその瞬間、言葉を失った。
掛け布団の下には、月明かりにほんのりと照らされた――パジャマ姿で膝を抱え、横たわる叶の姿があったからだ。




