19.このカードはブロックされない
一向に整う気配のない荒い呼吸のたび、まばらな乗客たちの視線がこっちを向いたような気がしてならなかった。
『せっかくの懇親会を台無しにしやがって』
『水泳を知らないお前が行って、何になるんだよ』
『でしゃばりめ』
そんな言葉がたびたび脳裏に浮かんでは、その都度スマホのメッセージ画面を震える手で開いた。
俺が打ち込んだ欠席のメッセージに対しての返事は、まだ何もなかった。
叱咤も失望も肯定も、本当に何もない。
心臓がヘンな跳ね方をして、今頃ロータリーに集まり始めているであろうバイト先のみんなの映像が、否応なしに再生される。
車窓の外を一定のリズムで波打つ架線を注視すると、少しだけ落ち着いた。
でも、その奥をあまりにゆっくりと流れる遠景の街並みに目のピントが合った瞬間、心がまたジグザグになった。
「もっと速く、走ってくれよ……」
思わず小言が漏れてしまった。
そして、俺は再び周囲の視線が気になって、仕方がなくなって、そわそわしながらまたスマホを開く。
そして、何にもない。
こんな有様で――海風に何がしてあげられるんだよ。
電車に揺られている間、そんな考えが何度も浮かんだ。
落ち着かない手をポケットから抜く。
そして膝に置いたバッグに手が触れた折、あることをふと思い出した。
バッグの中を探って、いつも持ち歩いている“お守り”を手にする。
デッキの先頭は、鉛筆で描いた“星滅のホワイトホール・ドラゴン”だった。
俺は周囲の人たちからそれが見えないように手で包んで、静かに目を閉じて、こんどはしっかりと大きく息を吸って、吐いた。
◆
この運動競技場に来たのは、数年前にサッカーの海外有名選手が練習試合をしていると聞いて、西垣たちと野次馬をした時が最後だ。
その一角にある、うちの県のものより大きなプール施設に至っては、入ること自体がまったく初めてとなる。
『第78回 夏季総合体育大会 予選会場』と書かれた建屋の横断幕が目についた。
競技中なこともあって、会場入口の人影の出入りはまばらだ。
予選会場だったことが幸いし、入口スタッフに「応援です」と告げ、高校の学生証を見せればすんなりと通してもらえた。
ここがインターハイ会場であれば、ADカードなんかが無いと選手導線に混じることはできなかったはずだ。
建屋の通路を超えると、眼前には青黄のフラッグとコースロープで飾られた屋外開放型の巨大な50mプールが目に飛び込んできた。
9つに区切られた水色の世界は、こちらに向けて迫って来る9人の選手たちの“平泳ぎ”によって、矢じりのような飛沫とうねりが生み出されていた。
奥側には電光掲示板がそびえ、そのさらに向こうには屋内型の小プールが見える。
左右の段々となった観客席では、地方中から集まったたくさんの高校がそれぞれ固まって場所を陣取っている。
『いっけーいけいけ!いけいけコージッ!』
『お前のブレ魂見せたれ敷島ーッ!』
『とーばせー、とばせ大磯ーッ!とーばせー、とばせ大磯ーッ!』
そして、プールサイドではどこかの高校の生徒たちが、一生懸命応援に励んでいた。
その気迫、熱気に一瞬ひるみそうになったが、なんとか堪えた。
大会の応援にみんな、なぜこんなにも必死なのか。
ここにきて俺は、実感を以て理解できた。
「キャプテン、今からでもリレーの変更登録はできます! だから海風を外してください!」
突如として耳に飛び込んできたのは、いつかプールの壁越しに聞こえてきた、あの声だった。
どうやらウチの水泳部は、プール左岸段上の一区画を陣取っていたようだ。
しかし、見覚えのあるたくさんのウインドブレーカーを目にしても、安堵は訪れなかった。
「穂高、やめて。いまから変えるつもりはない」
「でも、あのコンディションでは絶対無理です! それに、本人もまだプールから戻ってこないじゃないですか。このままじゃインターハイに進めなくなるどころか……!」
詰め寄る穂高先輩、それを落ち着かせようとする坂野先輩。
その周囲の仲間や後輩たちに、落ち着かない空気が伝播している様子が、遠目で見ているだけでも生々しく汲み取れた。
慌ててウインドブレーカーの集団を見回すが、海風の姿はどうにも見当たらない。
は、早く見つけないと――そう思った矢先、俺の肩を誰かが叩いた。
「うわっ」
「あ……やっぱり室井君だ」
振り向くと、そこにはタオルを首からかけたウインドブレーカー姿の古瀬がいた。
手には大きなビニール袋が握られ、中には大量のスポーツドリンクがひしめいている。
「ふ、古瀬か……びっくりした」
「ごめんごめん、よいしょっと……」
古瀬は袋を地面に置いて、自校の陣地を遠い目で見ながら口を開いた。
「大変、お見苦しいところをお見せしました……」
「い、いや、少し驚いたけど……大丈夫。それよりごめん、海風知らない?」
「海風さんの応援……?へぇ……」
「な、なに」
古瀬は目を細めながら、俺の顔をじっとりと見回している。
なんだなんだと思っていると、やがて「いや、なんでも」と言って目を閉じ、また開いた。
「じつは海風さん、2時間ほど前にアッププールに向かったきり、私も見てないんだ」
「アッププール?」
「あの屋内の小プールのことだよ。実は、朝一番の100mフリーのタイムがあまり良くなくて……『午後のリレーまでには仕上げてきます』って意気込んでたんだけど、今どうしてるのか……」
「……そうだったのか」
やはり、そういうことだったんだ。
10:00すぎに見たメッセージの時間と、彼女がアッププールに向かった時間はおおよそ一致する。
「あまりに戻りが遅いから、私も探しに行こうと思ったんだけど……その矢先に先輩に買い出しを頼まれちゃって」
「……分かった。俺、探してくるよ」
「え、それは悪いよ……ってちょっと、室井君っ!」
「ありがとう!古瀬も頑張って!」
話を切るような別れ方で本当に申し訳ないと思った。
でも、はやく海風を探さなきゃ。
俺はとにかく、居てもたってもいられなかった。
◆
「……いない」
アクリル窓と格子状の支柱に覆われた、比較的小さな25mプール。
利用者はまばらで人影を見回すのは容易だったが、それでも海風の姿はどこにも見当たらず、再び足元がおぼつかなくなった。
泳いでいるいくつかの人影を目を配り、「この人じゃない」「こっちも違う」「この人はさっきも見た」と、何度も独り言を繰り返す。
おまけに、みんな水着姿でアップに励んでいるのに対し、俺はごく普通の私服姿で立ち尽くしているのだから、周囲の目線がこっちに向くのは当たり前だった。
焦る気持ちが手を変え品を変え、俺の思考を段々と追い詰めていく。
――だからかもしれない。
ふと、頭によぎった『隅に隠れたい』という気持ちと、いつか彼女が言った『それなら校舎裏で話しちゃう?』、『虫とかは慣れっこだよ』といった言葉が、不意に交錯したのは。
◆
アッププールが入った建屋の雑草まみれの裏側を、物陰からのぞき込む。
「し、しゃあ。 ……だめだ」
――そこに、海風はいた。
「……しゃあっ。 ……あれ、ちがう」
濡れた水着姿のままこちらに背を向けて、その場で屈んでいる。
いつもより小さく見える、肩ひもからはみ出た焼けた肩の肌。
そして貼りついた水着の大きく開いた背中部分にうっすらと浮き出た背骨の形が、ふるふると震えている様子が痛いほど伝わってくる。
彼女は力のないかけ声とともに、自身の頬をパチ、パチと何度もたたいていては、「あれ」「ちがう」といった小さな声を、何度も何度も零している。
「……いつも通り、できない」
全身の震えはやがて、不規則に跳ねるような震え方に変わっていって、彼女の手はいつしか自身を塞ぎこむようにぎゅっと包んでいた。
「……大丈夫って、言ったのに」
彼女の震えが――俺にも伝播していることに気が付いた。
何か声をかけたいのに、かけられない。
あの強かった海風が負けてしまうほどの重圧に向かっていく、ここ一番の勇気がでない。
「や……たす……け……」
ささやくような、今にも消えそうな、そんな声だった。
刹那――またしても俺が手を伸ばしたのは、バッグの中に忍ばせた“お守りの束”だった。




