レゾリューション ──第9部──
「あ、そうだ。将くん、あのね。私、来週、退院が決まったんだ」
中庭に差し込む夕暮れの光の中で、翠は少し寂しげに、だけどどこか嬉しそうにそう言った。その瞬間、俺の耳の奥で、世界の終わりを告げる冷たい鐘の音が響いたような気がした。
「……そっか。おめでとう、それは……本当に、よかったね」
俺は顔の筋肉を必死に動かし、表面上は精一杯の笑顔を作って取り繕った。喉の奥がカラカラに乾いて、声がうまく出ない。この世界線で、自分だけが独りぼっちで置いていかれてしまうという、底知れない虚無感が足元から這い上がってくる。
そんな俺の異変を察したのか、翠は少し首を傾げ、悪戯っぽく覗き込んできた。
「なになに、将くん。もしかして、さみしくなっちゃった?」
「……そんなことないよ。でも、本当に退院できてよかった。お祝いしなきゃね」
必死に平然を装う俺に、翠は優しく微笑みかける。
「まあ、退院してからもまた3人で会おうよ。連絡先も交換したんだし、いつでもお見舞いに来るからさ」
翠はそう言って励ましてくれた。だけど、俺の心は少しも晴れなかった。いつまでも、付き合っている2人の善意に甘えているわけにはいかない。退院すれば、彼らには彼らの日常がある。部活や、これから控える受験に忙しい日々を送るようになり、やがていつしか、病院で一瞬だけ交わった俺のことなんて忘れる日が来るだろう。そんな冷酷な現実に、胸が押しつぶされそうだった。
何より、この世界線で俺が退院したところで、そこには俺の知っている翠は存在しないのだ。俺がかつて恋を落とし、愛を誓い、右手の薬指に指輪をはめたあの翠は、どこにもいない。そんな俺が、いつか他の誰かと恋をして、新しい未来を築くなんていう日々は、永遠にやってくるはずがなかった。
(いっそ……ダメもとでもう一度、あの非常階段から……)
荒んだ心が、危険な思考へと傾いていく。今度という今度は、本当に死ぬかもしれない。だが、それでも構わないとさえ思えた。翠のいない世界に、俺の居場所なんて、どこにもないのだから。
◇
翠の退院の日が、とうとう目の前に迫っていた。はたから見れば、俺たちは誰もが羨むような「仲の良い3人組」に見えたかもしれない。相変わらず翠は昼過ぎに俺の病室へやってきて甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるし、武志も毎日、部活帰りに顔を出しては気さくに話しかけてくれる。
俺はそんな2人の眩しい優しさに合わせるように、必死に空気を読み、場を盛り上げるための話を合わせた。ピエロのように笑いながら、心の中ではずっと、血を流し続けていた。
ついに迎えた、翠の退院の日の朝。俺は意を決して、翠を病院の屋上へと呼び出した。
そこで、自分の秘めてきた想いをすべて彼女に伝える決心をしたのだ。この行為が、どれほど理不尽で、どれほどとんでもないことかは、自分が一番よく分かっていた。
元の世界線で俺の帰りを待っているはずの翠への裏切りであり、何より、こっちの世界線で俺を泥沼から救い出してくれた恩人である武志への、最悪の不義理だ。こっちの世界線の翠の隣には、武志がいるべきだ。そんなことは、百も承知だった。
翠の退院が決まってから、毎日、毎夜、吐き気がするほど葛藤した。でも、ダメだった。どれだけ自分を責めても、この胸の炎は消えなかった。こっちの世界線の翠であっても、翠は翠なのだ。毎日俺の好き嫌いを怒り、スプーンでお粥を運んでくれたあの温もりを、どうしても忘れることができない。
このまま何も言わずに諦めて、ただの「通りすがりの友人」として終わることなんて、俺にはどうしてもできなかった。
雲ひとつない5月の青空が広がる屋上。冷たくも心地いい春の風が吹き抜けるベンチに、俺が待つ中、翠はやってきた。
「どうしたの、将くん。こんな朝早くに呼び出すなんて」
不思議そうに首を傾げる翠。
「……今から話すことを、どうか黙って聞いてほしいんだ」
俺は深く息を吸い込み、ゆっくりと、今までの出来事を彼女に話し始めた。
俺は、君たちの知っている秋元将ではないということ。違う世界線から、時間を飛び越えてやってきたのだということ。
突拍子もないオカルトの告白。頭がおかしくなったと笑われる覚悟だった。だが、翠は驚くことなく、静かに俺の言葉に耳を傾けていた。
「……驚かないんだね」
俺が少し不思議に思って呟くと、翠はまっすぐな瞳で俺を見つめ、静かに首を横に振った。
「将くんが、嘘や作り話をしているとは私は思わない。君の目は、いつも冗談を言っているようには見えなかったから。だから……全部、聞かせて」
その言葉に背中を押され、俺は堰を切ったようにすべてを打ち明けた。
元の世界線で、俺は星野翠という女の子と付き合っていたこと。
翠の18歳の誕生日にシルバーのペアリングを買って、それを右手の薬指にはめたとき、翠がキラキラした目で言葉にならないほど喜んでいたこと。
幸せの絶頂の中、2人で手を繋いで歩いていた交差点で、大型トラックにはねられたこと。
気づいたらこの世界線にいて、そこでまた君に出会ったこと。だけど、君は俺の知っている星野翠ではなく、相葉武志の恋人だったこと。
タイムリープを繰り返し、何度も元の世界線の翠を救おうとしたけれど、そのたびに失敗して、君の前に現れる「初対面」は、これで3回目だということ。
独立した4回目のタイムリープに失敗し、この世界線の非常階段から落ちて大怪我を負ってしまったこと。
狂人の戯言にしか聞こえない歪んだ真実を、俺はすべて曝け出した。翠は、そのすべてを静かに受け止めてくれた。
「……そっか。あなたがそう言うなら、きっとそれは全部本当なんだね」
彼女の一言には、一切の疑いも、冷やかしもなかった。ただ純粋に、俺という人間の存在を丸ごと肯定してくれるような優しさに満ちていた。
俺は拳を強く握り締め、意を決して、ずっと胸に閉じ込めていた本当の想いをぶつけた。
「……ダメだって、分かってる。分かってるんだ。なのに……俺は、君に恋をしてしまいました」
翠の身体が、かすかに揺れた。
「武志から君を奪い取ろうとか、そんなつもりは絶対にない。君の隣には、武志がいるべきだ。それは痛いほど分かってる。でも……この想いを伝えないまま、君を日常に帰すことだけは、どうしてもできなかったんだ。突然こんなこと言って、本当にごめん」
一気にまくしたて、俺は肩で息をした。屋上に、静寂が訪れる。春の風だけが、俺たちの間を通り抜けていった。
やがて、翠はいつになく丁寧な、だけどどこか凛とした言葉遣いで、静かに応えた。
「……想いを伝えてくれて、ありがとう。すごく、嬉しい」
翠はそう言って、寂しげに、だけど愛おしそうに目を細めた。
「でも、あなたの隣にいるべきは、私じゃない」
その明確な拒絶の言葉に、俺の心臓がズキリと痛んだ。だけど、彼女の言葉はそこで終わりではなかった。
「でも、大丈夫。あなたは1人じゃないよ。絶対に、元の世界線に帰れる──私が、力を貸してあげるから」
「え……?」
呆然とする俺の右手を、翠が両手でそっと包み込んだ。彼女の手のひらの温もりが伝わると同時に、俺の掌の中に、冷たくて小さな「何か」が滑り込んでくる。
「これ……君に預けておくね」
翠はそう言うと、俺の手をぎゅっと握り込ませた。
「そろそろ、私、行かなきゃ。武志が下で待ってるから──バイバイ、将くん。元気でね」
それが、彼女の最後の言葉だった。翠は振り返り、一度も足を止めることなく、屋上の扉の向こうへと去っていった。
見上げる空は、雲ひとつない、どこまでも突き抜けるような青空だった。
振られたわけじゃない。最初から誰かから奪うつもりなんて、これっぽっちもなかった。だけど、面と向かって「あなたの隣にいるべきは、私じゃない」と、その絶対的な事実を言葉にされると、やっぱり、胸の奥が痛いほどにつらかった。
こっちの世界線で、俺が毎日焦がれ、心の拠り所にしていた、あの温かい笑顔。その想いを寄せる対象は、もうどこにも無くなってしまった。
確かに、俺の恋は終わったんだ。
だけど、不思議と胸の奥はすっきりとしていた。今のこの青空のように、驚くほど晴れやかで、澄み切った気持ちだった。
やっぱり、伝えてよかった。あの温かい日々に、自分の恋心に、嘘をつかなくて本当によかった。心から、そう思っていた。
──それなのに。
「……つらいなぁ……」
ぽつりと呟いた瞬間、俺の目から、大粒の涙がボロボロと溢れ出してきた。止めようと思っても、全く止まらない。心は納得しているはずなのに、身体が、感情が、失恋の痛みに激しく悲鳴を上げていた。
とめどなく溢れる涙を、俺は何度も入院着の袖で拭った。拳に血がにじむほど固く握り締め、全身を硬直させて、子供のように声を上げて泣いた。この世界線での、最初で最後の、俺のわがままの代償だった。
……どれほどの時間が経ったのだろう。やがて涙はすっかり枯れ果て、俺は燃え尽き果てた灰のようになって、ぼーっと空を見上げていた。
いつの間にか時間は進み、青空に浮かぶ太陽は、俺を真上から強烈に照らし出している。
(そういえば……)
俺は、去り際に翠が俺の手に何かを握らせていったことを、今更のように思い出した。「力を貸してあげる」と言って、彼女が俺の右手に託していったもの。
俺は、固く握りしめていた右手の拳を、ゆっくりと開いた。
じりじりと照りつける太陽の光を浴びて、俺の掌の上で、それがいっそう眩しく、キラキラと反射した。
──そこにあったのは、見紛うはずもない、シルバーのリングだった。
(つづく)
次回更新は8月27日17:50です




