レゾリューション ──第 8 部──
世界から、すべての色が消え失せていた。
あの日、非常階段の暗闇へと身体を投げ出したあの瞬間から、俺の世界は完全なモノクロームへと変貌してしまった。タイムリープという、唯一にして絶対の手段を失った。その冷酷な現実を前に、俺の脳は思考することを完全に放棄していた。
天井のシミをじっと見つめる。何も考えられない。食欲も、何かをしようという気力も、文字通り塵ひとつすら湧いてこなかった。
悲しいとか、悔しいとか、そういう瑞々しい感情すらも、全身を襲う鈍い打撲の激痛と共にどこかへ洗い流されてしまったようだった。俺はただ、生きているだけの肉塊だった。
ガラガラ、と病室のドアが開く。
「将、あんた一体何やってんのよ……!」
息を切らせて駆け込んできたのは、母ちゃんの節子だった。その顔は青ざめ、目には明らかな動揺と心配の色が浮かんでいる。
感情を失った泥のような頭の片隅で、俺は必死に言い訳の言葉を組み立てた。
「……あぁ、母ちゃん。ごめん。ちょっとさ、売店に行こうと思ったんだけど、階段を踏み外しちゃって。エレベーターが点検中だったからさ、階段を使うのもリハビリになるかなって思ったんだけど……バカだよな」
我ながら、酷く掠れた、乾いた嘘だった。
「リハビリなんて、あんたまだそんな段階じゃないでしょ!」
母ちゃんは呆れたように、だけど心の底から安堵したように大きなため息をついた。
ひとまずただの不注意の事故だと納得した母ちゃんは、「本当におばあちゃんの世話のタイミングと重なっててんてこ舞いだわ」と言いながら、実家へと戻る支度を始めた。
「じゃあ、行くわね。今度は本当に大人しくしてるのよ」
「あぁ、分かってるって。気をつけてな」
俺は顔の筋肉を必死に動かし、精一杯の「空元気」を装って愛想笑いを浮かべ、母ちゃんを見送った。扉が閉まった後、どっと黒い疲労感が押し寄せる。
……きっと、母ちゃんにはお見通しなんだろう。俺の笑顔が、どれほど無理に作られたハリボテの元気なのか。それでも、あえて何も追求せず、ただ「大人しくしててね」とだけ言って帰っていった母親の、深すぎる優しさが、今の俺にはたまらない申し訳なさだった。
昼時になり、ガラガラと無機質なキャスターの音を立てて、病院の食事が運ばれてきた。白米、焼き魚、小鉢。だが、それらは俺の目にはただの灰色の物質にしか見えない。ひと口も手を付ける気になれず、箸すら持たずにベッドの背もたれに寄りかかっていた。
「秋元さん、また全然食べてないじゃないですか」
配膳を回収しにきた看護師が、困ったように眉をひそめる。
「食べないと退院もできませんよ。回収は少し遅くなっても大丈夫ですから、お願いだから少しでもお腹に入れてくださいね」
そう言って、彼女はトレイを置いたまま病室を出て行った。退院できない、という言葉すら、今の俺の心には何の響きも持たなかった。
タイムリープの手段を失い、ただ時間だけが過ぎていく。時計の針が午後を回り、昼下がりの柔らかな光が病室に差し込み始めた頃。
「あ、いた! もう、どこにもいないから探しちゃったよ?」
不意に、聞き慣れた、だけどどこか少し違う、鈴を転がすような声が響いた。ハッと顔を上げると、そこには入院着を着たこっちの世界線の翠が立っていた。
彼女は俺のベッドのネームプレートを確認し、それから俺の顔を見て、一瞬でその大きな目を見開いた。
「え、ちょっと……待って。一体どうしたの、その顔!? 昨日はそんなに包帯だらけじゃなかったよね?」
転落の経緯を知らない翠は、見るからに狼狽して俺のベッド脇に駆け寄ってきた。
俺は乾いた喉を鳴らし、母ちゃんについたのと同じ嘘を、繰り返した。
「あ、これ? いや、売店に行こうとしたんだけどさ。エレベーターが止まってたからリハビリのつもりで階段を使ったら、派手に転げ落ちちゃって」
「リハビリって……バカじゃないの? もう、本当にまいっちゃうよね……」
翠は呆れながらも、本当に心配そうに俺の顔を覗き込んできた。それから、あやすように小さくため息をつき、ぽつりと愚痴をこぼす。
「男の子って、みーんなそうなの? うちの野球部の部員たちも、どっか痛めてるくせに『全然平気です!』とか言ってすぐ無理するんだから。男の子って生き物は、どいつもこいつもカッコつけたがりの大嘘つきばっかり。……本当に、マネージャーの身にもなってほしいわ」
呆れたような、だけどどこかそんな「手のかかる男子たち」を放っておけない世話係としての温かい響きが、彼女の言葉には混ざっていた。
その時、彼女の視線が、サイドテーブルの上に手付かずのまま置かれているトレイへと向いた。
「……ご飯、全然食べてないの?」
「あぁ、なんか、あんまり食欲なくてさ」
「ダメだよ、そんなの。身体を治すために、食べなきゃダメ」
翠はそう言うと、当たり前のような顔をして、俺のベッドの横にある丸椅子を引き寄せ、そこにちょこんと腰掛けた。そして、トレイからお粥の器とスプーンを手に取る。
「ほら、お口開けて。はい、あーん」
「……え?」
あまりの急展開に、俺の思考が完全にストップした。「え、いや、自分で食べられるから……」と遠慮しようとしたが、翠は「手がそんなに震えてるのに? 早く、冷めちゃうでしょ」と、一歩も引かない。
断りきれず、俺はおずおずと口を開けた。スプーンから滑り込んできたお粥は、驚くほど温かかった。咀嚼し、飲み込む。しばらく忘れていた、確かな「味」が口の中に広がっていく。ひと口、またひと口と翠の手から運ばれる食事を口にしているうちに、俺の身体に少しずつ、血が巡るような感覚が戻ってきた。
ふと、小鉢の中に、俺の天敵である緑色の野菜が見えた。
「……あの、きゅうり、苦手なんだけど……」
俺が少し顔をしかめると、翠はお母さんのような、少しお説教を交えた口調でピシャリと言った。
「はい、好き嫌いはダメです、ちゃんと食べなさい」
そう言って、きゅうりの酢の物をスプーンですくって目の前に突きつけてくる。かつて南高の演劇部のヒロインだった翠なら、絶対にこんな風に他人の世話を焼いたりはしなかった。野球部のマネージャーとして、多くの部員たちの面倒を見てきた『こっちの翠』だからこその、どこか強引で、だけど圧倒的に温かい優しさ。
俺は覚悟を決めて、がまんしてそのきゅうりを口に放り込み、必死に噛み砕いて飲み込んだ。それを見た翠は、ぱあっと顔を輝かせ、まるで幼い子供をあやすように、嬉しそうに微笑んだ。
「うん、えらいえらい! よく頑張りました」
その笑顔を見た瞬間。俺の胸の奥で、カチリ、と何かのスイッチが入る音がした。モノクロだった世界に、ほんの少しだけ、鮮やかな色彩が戻ってくるような感覚。
その後も、翠は「自分の病室にいても退屈だしさ」なんて理由をつけて、夕方になるまでずっと俺の病室に居続けてくれた。他愛のない学校の話、野球部の話。彼女が話す言葉をただ聞いているだけで、俺の心の空洞が少しずつ満たされていくのが分かった。
夕方になり、オレンジ色の夕日が病室を染める頃、ガラガラとドアが開いて、部活帰りの武志が登場した。肩に大きなスポーツバッグをかけた武志は、翠から、俺が階段から落ちたという説明を聞くと、心底同情したような顔をして俺のベッドに歩み寄ってきた。
「将くん、災難だったね……。何か欲しいものとか、必要なものがあるなら、僕が部活帰りにでも何でも買ってきてあげたるから。遠慮しないで、何でも言ってね」
どこまでも紳士で、どこまでも気のいい相葉武志。3人で過ごす病室の時間は、パニックと絶望の底にいた俺にとって、いつしか何物にも代えがたい「かけがえのない時間」になっていった。
それからというもの、毎日、昼過ぎになると必ず翠が俺の病室に訪れるようになった。「ちゃんと残さず食べた?」と、食事のチェックをしに来るのだ。
武志が部活を終えてやってくる夕方までは、2人きりの時間。そして武志が来てからは、3人での時間。
そんな生活が1週間ほど続いた頃には、俺の全身の打撲もかなり和らぎ、普通に歩けるようになっていた。そうなると、夕方に武志が来るまでの2人の時間は、病室を飛び出して病院内をあちこち散歩するのが日課になった。屋上、売店、木漏れ日の差し込む中庭……。
隣を歩く翠と、笑い合いながら歩く時間。それは客観的に見れば、まるでこっちの世界の翠と、恋人同士のように「デート」をしている状態そのものだった。
しかし、夕方に合流する武志は、俺たちのそんな様子を見ても、嫉妬の素振りなど微塵もないように見えた。それは、俺のことを男として相手にしていないとか、下に見ているとか、そういう冷たいものでは決してない。ただ純粋に、武志は俺のことを「信頼している大切な仲間」として認識しているからこそ、そこに一切の疑いを挟まないのだ。武志のそのどこまでも大人で、余裕のある態度が、逆に俺の心をチクリと刺した。
分かっている。絶対にダメだと、頭では痛いほど理解している。俺が救わなきゃいけないのは、あっちの世界線の、俺を「まさし」と呼んで笑ってくれた星野翠だ。こっちの翠には、武志という最高の恋人がいる。
だけど──。毎日俺の身体を気遣い、好き嫌いを怒り、隣で無邪気に笑ってくれるこの世界線の翠に、俺はいつしか、止めようもなく恋をしてしまっていた。
武志と翠が2人で仲良さそうに笑い合っている姿を見るたびに、胸が生き地獄のように激しく締め付けられる。あっちの翠への裏切り。武志への激しい罪悪感。そして、叶うはずのない恋心。
ぐちゃぐちゃになった感情を抱えたまま、それでも俺は、翠との散歩の時間を心の拠り所にしていた。
そんな、ある日の午後。いつものように2人で中庭を歩いていた時、前を歩いていた翠が、ふと足を止めて振り返った。
「あ、そうだ。将くん、あのね」
夕暮れに近い光の中で、翠は少し寂しげに、だけど少し嬉しそうに微笑んで言った。
「私、来週、退院が決まったんだ」
その言葉が、俺の耳に、まるで世界の終わりを告げる鐘の音のように響いた。
(つづく)
次回更新は8月26日17:50です




