レゾリューション ——第 7 部——
皮肉なことに、もうこの天井も見慣れてしまった。
ひどくかすれた声、鼻を突く消毒液の臭い。ベッドの脇にあるカレンダー付きの壁掛け時計に目をやると、デジタル表示されているのは「4月5日」の文字だった。
あと何回、元の世界線での4月4日と、この世界線での4月5日を過ごせばいいのだろう。はたまた、俺は死ぬまで永遠にこのループを繰り返すのだろうか。
ただ1つだけ確かなのは、どれだけ回数を重ねても、この身体の痛みの記憶だけは絶対に慣れることがないということだ。
(いや……待てよ?)
3周目の別の世界線。あれこれと動き回る前に、俺はベッドの上でじっと天井を見つめながら、これまでの出来事を頭の中で整理し始めた。
翠は、どうルートを変えても必ず事故に引き込まれてしまう。1周目は大型トラック。2周目は、ルートを変えたはずなのにやっぱりトラック。そして先のループでは、トラックのルートを完璧に阻止して駅の東口に逃げ切ったというのに、今度は入線してきた電車に撥ねられてしまった。
しかも、後ろから何者かに突き落とされた。あの時、俺たちの背後に立ち、ホームの上から俺たちを見下ろしていたあの人物。あれは間違いなく、俺たちの通う『南高』の制服ではなく、『東高』の制服を着た翠本人だった。
ということは、こういうことか? あそこにいたのは、こっちの世界線の翠が、何らかの理由で元の世界線へとパラレルシフトしていた……? なら、かつて俺が病院の屋上で一瞬だけ見かけた気がする、あの『南高』の制服を着ていた翠は、逆に元の世界線からこっちの世界線へとパラレルシフトしていたということなのか?
位置関係や制服の謎が、脳内でパチパチと音を立てて繋がり始める。あっちの世界線も、こっちの世界線も、時間の流れ自体は変わらない。
もし、こっちの世界線での「4月5日」に、元の世界線(南高)の翠が一瞬でも存在していたのだとすれば──。
(4月5日に、怪我をしていない状態で五体満足で生きている、元の世界線の翠が存在している……!)
ドクン、と心臓が大きく跳ね上がった。とんでもないことに気づいてしまった。それはつまり、この絶望的なループの果てに、2人とも無事に生き残って翌日を迎えることができる「正解のルート」が、どこかに確実に存在しているという証明に他ならない。
俺の胸の奥に、雪や台風の予報を見て「もしかしたら明日、学校が休みになるかもしれない」とワクワクしている小学生のような、純粋な期待と高揚感が満ちあふれていった。痛みなんて、もう完全に忘れていた。
(なら、次は絶対に事故に遭わないルートを模索しよう)
今すぐにでもペンと紙を広げてルートを書き殴りたい衝動に駆られたが、それをここでじっくりやっていると、あっという間に夜になってしまう。まずは、この世界線での「クエスト」を予定通りに済ませてしまうのが先決だ。
俺はナースコールで看護師を呼び出した。星野翠のことを尋ね、一語一句狂わない「記憶の混濁」という診断を受け、こっちの世界線の翠が同じ病院の上のフロアにいるのを確認する。
すべての流れを把握している俺は、そのまま迷うことなく屋上へと向かった。
あの時、俺はベンチで考え事をしていて、ふと顔を上げた瞬間に南高の制服を着た翠を見かけ、追いかけようとして無様にずっこけた。
一瞬でもいい。もし本当にあっちの翠がここに現れるのだとしたら、今度こそ逃がさない。ちゃんとその目を見て、「必ず助けるから!」って、大声で伝えてあげたい。
そんな期待に胸を膨ませ、俺は4月の風が吹き抜ける屋上のベンチで、じっとその時を待った。
待つこと、数十分。カチャリ、と静かに音を立てて、ついに屋上出入り口の重い鉄扉が開いた。「翠……!」と弾かれたように立ち上がり、俺はその姿を凝視した。
しかし──そこに現れたのは、俺が予想していた『南高の制服姿』の翠ではなく、見慣れた『入院着』を身にまとった、こっちの世界線の翠だった。
「あれ?」
あまりの肩透かしに、俺は思わず拍子抜けしてしまった。あっちの翠じゃなかったのか……。
落胆のあまり、俺は自分の病室からヒョコヒョコと歩いてきた彼女の姿を、あぜんとガン見してしまっていた。そんな不躾な視線に気づいた翠は、少し戸惑ったように小さく会釈すると、痛そうに足をかばいながら、ゆっくりとベンチに腰掛けた。
このまま黙っていると、数分後に武志が買い物袋を下げて登場し、翠を連れ帰ってしまう。かといって、初対面で馴れ濡れしく話しかけられるのを、翠は酷く嫌う性質だ。事実、高校の入学当初、彼女に気安く声をかけては見事に玉砕していった陽キャたちの姿を、俺は南高の教室で何度も目撃してきた。
(……よし、ここはちょっとズルいけど、同情を誘う作戦で行くか)
俺は少し痛む身体を丸め、わざとらしく弱々しい声を絞り出した。
「……あの、自分、電車にはねられたんです……」
なんてこずるい一言なんだろう、と自分でも心の中で猛烈なツッコミを入れた。だが、効果は抜群だった。翠は「えっ!?」と大きく目を見開き、純粋な驚きと心配の表情を俺に向けた。そこからは、お互いに同じ交通事故の被害者として、自然に少しずつ言葉を交わしていく流れを作ることができた。
彼女の話によると、こちらの翠は自分の誕生日である4月4日の放課後、彼氏と約束があったらしい。なのに、運悪くその日の「朝の通学中」に車にはねられて入院してしまったのだという。話を聞いているうちに、こっちのルートの翠に対しても、俺は純粋に同情の念を抱いていた。
そうして話が温まってきた頃、カサカサとビニール袋の音を立てて、予定通りに武志が登場した。すべてが俺のプロット通りだ。1周目の苦い経験を活かし、俺は武志の善意に素直に甘え、3人がごく自然に仲良くなる流れに見事に乗せることに成功した。
素晴らしい、完璧な滑り出しだ。
会話の中で、1周目では聞き出せなかった新たな情報もいくつか手に入った。
武志は野球部。そして、こちらの世界線の翠は、その野球部のマネージャーを務めているらしい。元の世界線での『演劇部のヒロイン』とは、2人の関係性も環境も若干異なっていた。性格的にも、多くの部員を支えるマネージャーという立場にあるせいか、こちらの翠はどこか面倒見がよく、俺の知っている『氷の美少女』よりも、性格的にはやや丸くて人当たりが良いという印象を受ける。
こういう、世界線の些細な「if」の発見が、今の俺には少しだけ楽しくもあった。
その後、予定通りに武志に車椅子で病室まで送ってもらい、タイミングを見計らったかのように母親の節子が登場した。このクエストも手慣れたものだ。母ちゃんが一度「帰るわね」と言って病室を出た後、受付で入院の手続きを済ませ、最後にもう一度だけ顔を出すことを、俺はすでに知っている。
ガラガラ、と再び病室のドアが開いた。「どうしたの? 母ちゃん、忘れ物?」先回りして、元気な姿を見せて安心させると、母ちゃんはどこかホッとしたような顔をして、今度こそ静かに帰っていった。
「よし……。ここからは、今後の作戦会議だ」
ベッドの上で一人になった俺は、深く息を吐き、頭を完全に思考モードへと切り替えた。もう焦ってタイムリープする必要はない。元の世界線での4月4日の事故を、確実に回避するための完璧な作戦を、この静かな病室でじっくりと組み立てるんだ。
元々あの日は、翠とのデートが終わった後、翠の母親から「夕飯を兼ねた翠の誕生日パーティー」に招待されていた。ということは、あの大型トラックが突っ込んでくる交差点や、電車に撥ねられた駅のホームといった危険地帯をすべて回避し、無事に翠の家にたどり着くことさえできれば、それこそが「正解のルート」と言えるはずだ。そして、何事もなく元の世界線で4月5日の朝を迎える。
道路は危険だ。駅のホームも危険。そうなると……。駅から少し離れた場所にあるあの公園を通り抜け、そこからトラックが絶対に進入できないような、入り組んだ狭い路地の住宅街を、まるで迷路を進むようにして歩いていけばどうだ?
距離はそれなりに長くなるが、歩けない距離じゃない。そこなら車に轢かれることも、電車に突き落とされることも物理的に不可能なはずだ。
「これなら……いける! 完璧だ!」
ついに絶対安全な新ルートを確立した俺は、一刻も早く4周目の元の世界線へと戻り、翠を救うためのタイムリープを実行することにした。
これまでのルール通りなら、非常階段からダイブし、意識を失うほどの強い衝撃(あるいは死)を受ければ、あの白い光の奔流が俺を元の世界へと運んでくれるはずだ。
痛みの恐怖はあったが、正解を見つけた今の俺に迷いはなかった。重い鉄製の扉を押し開け、夕闇が迫る非常階段の最上段に立つ。
「待っててくれ、翠……今度こそ、必ず助ける!」
俺は胸の奥から声を絞り出し、躊躇することなく夜の虚空へと身体を投げ出した。
視界が激しく、上下に回転する。強烈な風の音が耳元をかすめ、次の瞬間──。
「ドカカカッ!!! ズガァンッ!!」
身体が硬いコンクリートの踊り場に激しく激突し、何度もバウンドしながら転がり落ちる鈍い衝撃音が階段室に響き渡った。
「がはっ……!? う、あ、痛てぇ……! 痛えぇぇぇあァァァッッ!!!」
おかしい。何かが、絶対におかしい。いつもなら衝撃の直後に世界を包み込んでくれるはずの、あの眩い、優しい「白い光」が、どこを探しても一切訪れないのだ。
視界は真っ白に弾けるどころか、ただただ、暴力的なまでの『現実の激痛』が全身の肉を容容赦なく打ち付け、脳髄を狂わんばかりに駆け巡る。あまりの痛みに息が詰まり、コンクリートの床に這いつくばったまま指先一つ動かすことができない。
やがて、俺の悲鳴を聞きつけた看護師たちが慌てて階段室に駆け込んできた。
「秋元さん!? 大丈夫ですか! すぐ先生を!」
ドタバタと騒がしい周囲の声を聞きながら、俺は心の中で信じられない現実に震えていた。
タイムリープが、できない。
その後の検査の結果、奇跡的に骨折こそ免れたものの、元々事故で負っていた全身の打撲がさらにひどく悪化し、全治1ヵ月程度だった怪我は「全治2〜3ヵ月」へと跳ね上がってしまった。ベッドから起き上がるのすら激痛が走り、自力で歩くには壁を伝ってカメのようにゆっくり進むのがやっと、という文字通りの満身創痍だ。
元の世界に戻るどころか、俺はただ、この世界線で余計にひどい怪我を負って、身動きを封じられてしまったのだ。
光に包まれることはなく、俺の意識は、この狂った世界線に冷酷に繋ぎ止められたまま。激痛とパニックの中で、俺はただ、底知れない絶望に震えることしかできなかった──。
(つづく)
次回更新は8月27日17:50です。




