レゾリューション ──第10部──
手のひらの上でじりじりと照りつける太陽の光を浴びて、シルバーのリングがいっそう眩しく、キラキラと反射していた。
なぜ、これがこの世界線にあるんだ。あっちの世界線で、俺たちが買い、お互いの右手の薬指にはめたはずの指輪。こっちの病院で目覚めたときには、俺の指からも、世界からも完全に消え失せていたはずの、あの「未来の約束」。
激しい混乱と、それ以上の震えるような予感が、俺の身体を突き動かした。俺は吸い込まれるように、そのシルバーのリングを、自分の右手の薬指へと滑り込ませた──カチリ、と。
まるで、最初からそこがあるべき場所だったかのように、指輪は俺の薬指にぴったりとはまった。冷え切っていたはずの指先に、じわりと温かい血が巡っていくのが分かる。
俺は指輪のはまった右手を強く握りしめた。そして、その拳を包み込むように左手も重ね合わせ、祈るように額へと押し当てて、そっと目を瞑った。脳裏に蘇るのは、あっちの世界線での、愛おしい翠の姿。
アクセサリーショップを出た後、繋いでいない方の手を時折り太陽にかざして、キラキラと反射するリングの光を眺めては、言葉にならないほど嬉しそうに笑っていた、あの眩しい思い出。
(……そうだ。翠は、あのとき──)
ふと目を開く。俺は、あの日の翠がやっていたのとまったく同じように、右手をゆっくりと、真上の太陽へと向かってかざした。
刹那。
世界が、音を立てて白銀の光に包まれていった。非常階段から落ちたときのような暴力的な衝撃はない。ただ、温かく、だけど抗えない時間の濁流が俺の身体を包み込み、引き上げていく。
その眩い光の流れの中で──俺の脳裏に、俺の預かり知らぬ「もう1つの世界線」の記憶が、濁流となって流れ込んできた。
それは、俺の知らない、星野翠の戦いの記録だった。
最初に見えたのは、凄まじい衝撃の残像。トラックが突っ込んできたあの瞬間、俺は本能的に翠をかばって突き飛ばし、代わりに自分が血を流してアスファルトに倒れていた。事故現場の生々しい喧騒の中、動かなくなった俺の身体に覆いかぶさり、狂ったように名前を呼び続けて泣き叫んでいる翠の姿。
場面が切り替わる。
誰もいない自分の部屋で、ベッドの上で膝を抱え、涙を流しながら俺の形見となった指輪をじっと見つめている翠。
ほんの一瞬、世界から音が消えた。
だが、彼女の瞳は死んでいなかった。キラキラしたいつもの笑顔はそこにはない。見たこともないほど悲痛で、だけど強い決意に満ちた表情で、翠は太陽に手をかざし、俺を救うためにタイムリープを繰り返していた。
しかし、歴史の強制力は残酷だった。翠がどれだけ奔走しても、俺の事故はどうしても避けられない。翠が自分を犠牲にして俺を救おうとすればするほど、俺は逆に翠を助けようとして、代わりにトラックにはねられて死んでしまう。
(あぁ……そうだったのか。あの交差点で、トラックが来る直前、君がなぜあんなに穏やかに笑っていたのか……!)
君は、最初から知っていたんだ。これからトラックが来ることも、自分がはねられることも。俺を死なせないために、自分が身代わりになることを受け入れて、だから俺の手を握って微笑んでいたんだ──。
だが、それでも2人が助かる未来には辿り着けない。追い詰められたあっちの世界線の翠は、最後の望みをかけ、タイムリープの光の濁流の中で、ある「賭け」に出た。
自分の世界線でまさしを救うのが不可能なら、せめて、まさしの魂を「自分が死なない別の世界線」に送り込むことで、彼が生きられる道を模索しようとしたのだ。流れる光の狭間に、2人の少女の姿が浮かび上がっていた。
1人は、何度も時間を渡り、ボロボロになって疲れ切った涙を流している、南高の制服を着た、元の世界線の翠。その右手には、あのシルバーのリングが握られている。
事故で俺が死んだはずの元の世界線の翠と重なり、そしてもう1人は、東高の制服を着た、この世界線の──野球部のマネージャーをしていた翠だった。元の世界線の翠は、祈るようにして、自分の持っていた指輪を別の世界線の翠へと託した。
限界の瀬戸際で、その想いと指輪をしっかりと受け取った東高の翠は、涙を流すもう1人の自分に対し、力強く頷いてみせた。
「──大丈夫、私に任せて!」
そうしてこの世界線の翠に未来を託したあと、南高の翠は、タイムリープが消えゆく最後の残滓の中で、俺が飛ばされた先の『この世界線』の病院の屋上を、人知れずそっと覗き込んだのだ。
ベッドから起き出し、パニックになりながら屋上へやってきて、泣きそうな顔で空を見上げている俺の姿。それを時空の隙間から見届けた彼女は、
「うん、無事に届いたね……」
と心から安心したように、ボロボロと大粒の涙をこぼしながら、小さく微笑んで元の世界線の闇へと消えていった──。
(あのとき、屋上で感じた確かな視線は……俺をここまで送り届けてくれた、君だったんだな、翠……!)
すべてのパズルのピースが、音を立てて噛み合っていく。俺がこの世界線で出会った翠が、なぜあんなにも俺に優しくしてくれたのか。なぜ、好き嫌いする俺を叱り、生きる気力を与えてくれたのか。
すべては、世界線を超えて託された、「彼を救ってほしい」というもう1人の自分との約束を果たすためだったのだ。光が、いっそう激しさを増していく。俺の魂が、本来あるべき時間、本来あるべき彼女の元へと、凄まじい速度で引き戻されていくのを感じていた。
◇
「お待たせ翠。……おや? どうしたの、そんな空を見上げて」
退院の手続きを終え、病院の敷地を出て武志と並んで歩いていたその時だった。
遥か頭上、病院の屋上のさらに上の空が、一瞬だけ、太陽よりも眩しく白銀に爆発した。
「えっ……!? 今、空が光ったよね? 雷かな、雲ひとつないのに……」
武志が目を丸くして、驚きに声をあげる。だけど、隣を歩く翠だけは、驚くこともなくその光の残滓をじっと見つめていた。
その右手は、自分の胸元、相葉武志という最愛の恋人がいる温もりを確かめるように、そっと添えられている。翠の唇が、小さく動いた。
「……よかったね、約束は守ったよ、………翠」
「え? 翠、何か言った?」
不思議そうに覗き込んでくる武志に、翠はいつもの悪戯っぽい、だけどどこか切なく、どこまでも優しい微笑みを返した。
「うぅん、なんでもない。さ、行こ! 武志、お腹空いちゃった」
◇
光の中でどれだけの時間が経ったのかは、もう分からなかった。そもそも時間を行ったり来たりしているのだ。そんな濁流の中に身を置いていると、時間という概念そのものが酷く曖昧で、意味を持たないもののように思えてくる。
だけど、魂が急速にどこかへ引き寄せられていく感覚だけは、確かにあった。あの、世界で一番温かい、約束の場所へ──。
ふっと、身体が重力を取り戻す。ツン、と鼻腔をくぐったのは、懐かしい春の風と、微かな街の匂い。俺は穏やかな気持ちで、ゆっくりと目をあけた。
そこに、いた。俺の、世界で一番愛おしいひと。
目の前に立つ翠は、俺に背を向けていた。夕暮れの柔らかな光が差し込む交差点の真ん中で、彼女はシルバーのリングがはまった右手を、そっと太陽にかざしている。
それは、無邪気できらきらしたはしゃぎ方ではなかった。どこか静かで、すべてをやり遂げたかのような、深く落ち着いた佇まい。ゆっくりと、彼女がその手を下ろす。そして、愛おしい身体をこちらへ向けて、ゆっくりと振り返った。
西日に照らされているからなのか、それとも顔を紅潮させているからなのかは、分からなかった。だけど、そこにあったのは、嬉しそうに、そして少し恥ずかしそうに目を細めた、俺の知っている星野翠の笑顔だった。
彼女は俺の顔をじっと見つめ、すべてを知っているかのような、優しい声で呟いた。
「……おかえり」
そのひと言を聴いた瞬間、頭の芯がじんわりと熱くなり、一瞬でこれまでのすべてが救われたような気がした。何度もトラックに撥ねられた激痛も、大事な人を失った絶望も、白黒になってしまった世界で流した血を吐くような涙も──そのすべてを、一瞬で忘れさせてしまうほど、目の前の翠の笑顔は眩しかった。
だけど、胸の奥から込み上げてくる感情が、俺の胸を締め付ける。俺だけじゃなかった。翠だって、いや、むしろ翠の方こそが、俺なんかとは比べ物にならないほどの膨大な時間を、孤独に、ボロボロになりながら繰り返し、戦い続けてくれていたんだ。
俺が「タイムリープができない」と絶望し、車いすの上で泣き言を言っていたあの時間すらも、彼女は別の世界線の片隅で、たった1人で運命の濁流に抗っていた。
──すべては、俺を救うためだけに。
何度はねられても、どれだけ現実の激痛にのたうち回っても、俺にはまだ「翠に逢いたい」という明確な目的があった。けれど、君はどうだ。
俺を別の世界線へ送り出すその瞬間まで、君は「自分を忘れてしまった俺」や、「別の世界の彼女と幸せそうに笑う俺」を見るかもしれないという、そんな死ぬよりも残酷な未来を受け入れる覚悟で、あの光の中に手を伸ばしたんじゃないのか。
その孤独を、恐怖を、一体どれほどの想いで抑え込んできたのだろう。
君はなんて、なんて強い女の子なんだろう。
愛おしさと、申し訳なさと、あまりの健気さに胸がいっぱいになり、俺の口から、無意識に言葉が漏れ出ていた。
「……翠、……もしかして、君は……」
すべてを察して、裏での翠の頑張りを、その傷を、俺が抱きしめようと言葉を紡ごうとした、その時。
「──んっ」
翠は俺の言葉を遮るように、自分の人差し指を、俺の唇へと優しく当てた。静かに首を振る彼女の瞳が、悪戯っぽいきらめきを取り戻していく。
当てていた指をそっと離し、翠はいつもの無邪気で、だけど世界で一番可愛い笑顔を咲かせた。猫が毛並みを整えるような愛らしさで悪戯っぽく笑い、ゆっくりと口を開く。
「……女の子にはねぇ……誰にも言わない、秘密があるんだよ」
「っ……!」
その完璧なはぐらかしに、俺は息を呑んだ。知っている。俺は光の中で、君の秘密を全部見てしまった。どれほど俺のために傷つき、戦ってくれたのかを。
それなのに君は、その苦労も、涙も、全部「女の子の秘密」という可愛い言葉の裏に隠して、何事もないかのように俺の前に笑ってみせるんだ。ずるいよ、そんなの。愛おしすぎるだろ。
驚きと、脳が完全に麻痺しそうなほどの愛おしさに胸がいっぱいになり、俺はたまらず、何か言葉を返そうと唇を開いた。
「翠、俺──」
だが、その言葉が最後まで紡がれることはなかった。言葉を重ねようとした俺の口を、今度は翠が、自らの唇で優しく塞いだからだ。
「……っ」
不意を突かれた俺の目の中で、夕日に照らされた翠の、少し潤んだ瞳が至近距離で揺れている。上目遣いで俺を見つめるその瞳の、底知れない愛の深さと絶対的な破壊力に、俺の理性はあっさりと消し飛んだ。
全身の骨が抜かれていくように力が奪われ、立っていることすらできなくなりそうなほどの甘い痺れが体を駆け巡る。脳の芯までとろけそうな幸福感に包まれ、俺はもう、完全に彼女にメロメロだった。
俺は抗うのをやめ、世界で一番大切にしたい彼女の細い腰を、強く、強く引き寄せた。重なり合った唇から、驚くほどの熱が体中に伝っていく。
何度も何度もすれ違い、別の世界線で迷子になりながら、それでもお互いを諦めなかった2人の魂が、今、完璧に1つに溶け合っていくような、そんな深い、深いキスだった。
そよぐ春の風が、2人の髪を優しく揺らす。耳を澄ませば、信号機の電子音や、遠くを走る車の音が心地よく響いている。
世界には、息をのむほど鮮やかな、美しい色彩が満ち溢れていた。
ゆっくりと唇を離すと、翠は顔を真っ赤に染めながらも、愛おしそうにふにゃりと破顔した。もう、言葉なんて必要なかった。
俺たちはどちらからともなく、じっとお互いの瞳を見つめ合った。彼女の潤んだ瞳に映る俺の顔と、俺の瞳に映る彼女の眩しい笑顔。交わす言葉は1つもなくとも、お互いがどれほど深く、どれほど命懸けで相手を想ってきたのか、そのすべてが温かい電流のように肌を通じて伝ってくる。
ただ愛おしくて、ただ愛おしくて、俺はもう一度、今度は確かめるように彼女の手をそっと握り直した。翠もまた、俺の指をぎゅっと握り返してくる。
夕暮れの光を浴びて、しっかりと結ばれたお互いの薬指。そこにはめられた2つのシルバーリングが、2人が掴み取った真実の未来を祝福するように、いつまでも、いつまでもキラキラと輝き続けていた。
(レゾリューション ──完──)
もう一人の翠目線でのスピンオフ作品
『レゾリューションDiva』を28日17:50から公開します。
よろしければ是非お読みください。




