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レゾリューション  作者: まさしぃ


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4/10

レゾリューション ——第 4 部——

 車椅子で病室まで送ってくれた武志は、最後までどこまでも誠実で、神様みたいに良い奴だった。彼が去り、1人きりになった病室で、俺はベッドの上にしばらく呆然としていた。


 手の中の緑茶はまだ冷たい。それを凝視しながら、頭の中は完全にフリーズしていた。


(……どうする? タイムリープできないぞ)


 あの階段から落ちれば戻れると思っていたのに、武志のパーフェクトな善意の前にそのルートは完全に消滅した。このまま俺は、東高に通う、俺を知らない翠と、あの武志の恋路を病院のベッドから眺め続けるだけのモブキャラとして生きていくしかないのだろうか。


 そんな絶望と焦燥感に駆られながら、俺はふと、ベッドの脇に置かれていた自分の荷物に目を留めた。事故の衝撃で、無惨に汚れ、ボロボロになった通学バッグだった。


 今の俺には、この世界線の情報があまりにも足りない。俺は痛む身体を少しずつ動かし、そのバッグの手提げを開いて中身を探った。


 中から出てきたのは、1冊の生徒手帳だった。重い心臓の鼓動を聞きながらページをめくる。そこには、俺の写真とともに『千葉県立南高等学校』という文字がはっきりと印字されていた。


 分かっていたことではあるが、文字として突きつけられると、やはり胸が締め付けられる。確かに俺は、この世界線でも南高の生徒なのだ。


 さらに奥を探ると、見るも無惨な姿になったスマホが見つかった。画面はクモの巣状にバキバキにひび割れ、筐体自体が不自然な形にひん曲がっている。トラックにはねられたときの衝撃の凄まじさを物語っていた。


(クソッ……これがあれば、この世界の俺がどんな生活をしてたのか、色々分かったかもしれないのに……!)


 微かな希望を抱いて電源ボタンを何度も長押ししてみたが、端末は完全に沈黙したままで、2度と息を吹き返す気配はなかった。


 唯一の情報源すら失い、目の前が真っ暗になるような落胆が押し寄せる。


 そんな、絶望のどん底で冷や汗を流していた、その時だった。


 ガラガラッ! と激しい音を立てて病室のドアが開いた。


「将……っ! 将、大丈夫なの!?」


 肩を激しく上下させ、息を切らせながら部屋に飛び込んできたのは、俺の母親──節子だった。


 乱れた髪を直す余裕もなかったらしく、額には大粒の汗が浮かんでいる。その顔には、実の息子の危機に対する、純粋で、狂おしいほどの心配の色が張り付いた。


「母ちゃん……?」


 俺が呆気に取られた声を出すと、母ちゃんはベッドの脇へ滑り込むように駆け寄り、俺の顔や腕をこれでもかと確認し始めた。しかし、俺の怪我が意外にも軽症であると分かると、母ちゃんはようやく安心したようだった。


 こっちの世界線の母親も、俺の知っている、元の世界線の母ちゃんと何ら変わらないのであった。


 母ちゃんは厳しい人だが、もし「秋元将ファンクラブ」なるものが存在したとしたら、間違いなく会員番号は0番の人間だ。テレビでどの俳優を見ても「将の方がかっこいい」といつも言っている。かつて海外旅行の旅先で俳優の佐藤健本人に偶然出会い、旅仲間がキャーキャーと大盛り上がりしていた時でさえ、「うちの息子のほうがかっこいい」と頑なに譲らなかったという、ぶっ飛んだエピソードもあるくらいだ。


 その後、佐藤健さんは快く写真に応じてくれたものの、後日見せられた写真には、笑顔の佐藤健、もっと笑顔の旅仲間、そして真顔の節子の3人が写った写真を見たときは、さすがに吹き出してしまった。


 そんな母親に、俺は少し聞いてみた。


「俺って、彼女とかいたっけ?」


 すると母ちゃんは、笑いながら言った。


「どうしたの? 頭を打ったからそんなこと言ってるの? そんな彼女がいるなら見てみたいわよ。でもね、もしあんたと付き合う子があったんだとしたら、その子は相当見る目があるわ」


 どんだけ息子に自信があるんだよ、とツッコミたくなる。でも、世の中の母親というのは、みんなそういうものなのかもしれない。きっとあの武志の母親だって、武志こそが世界一だという自信があるはずだ。


 その後、母ちゃんは俺と本当に他愛のない世間話をして帰っていった。男子というのは結局、反抗期だろうが何だろうが、母親に会うとどこか安らぐものなんだと、この状況になって痛感させられた。


 1人になった病室で、俺はこれまでの出来事をもう一度、冷静に俯瞰してみることにした。今回はタイムリープ2周目。元の世界線での事故は、ルートを変えても防げなかった。翠はまるで、何かに引っ張られるようにして事故に吸い寄せられていく。


 いや、それだけじゃない。そもそも、同じ4月4日に戻ったはずなのに、なぜ翠は俺を知らないのか。なぜ翠の通う高校が変わっているのか。自分の写真が載った南高の生徒手帳、トラックの衝撃でバキバキに壊れたスマホをもう一度見つめながら、俺の頭の中に、ある1つの仮説が浮かび上がった。


(……そうか。これは単純なタイムリープじゃなくて、世界線移動ってやつか……?)


 俺はただ時間を巻き戻しただけじゃない。あの事故の衝撃をトリガーにして、元の世界とは歴史の因果関係が少しずつズレた「別の並行世界」へとシフトしてしまっていたのだ。だから、この世界の翠には俺との記憶がないし、彼女の隣には武志がいる。


(じゃあ……もし、翠を助けなかったら、どうなる?)


 その思考が頭をよぎった瞬間、背筋にぞっとするような冷たい感覚が走った。なぜかは分からない。何の確証もない。だけど、もし俺が彼女を見捨てて助けなかったら、翠という存在そのものが、どの世界線からも完全にいなくなってしまう──そんな気がしたのだ。


 そうなった場合、俺のタイムリープも、それ以降二度とできなくなる。直感でしかなかったが、それだけは絶対にそうなるという、妙に確固たる自信があった。


 なら、どうすべきか。この世界線には武志がいる。こっちの翠は俺と友達としては仲良くなったものの、俺に対して特別な好意を持っているわけじゃない。彼女の隣は、武志の場所だ。


 そうなると、やはり俺がすべきことは1つしかない。元の世界線にもう一度戻り、あの4月4日の事故を、何が何でも阻止するほかないのだ。


 あの日に戻って、今度こそ必ず、事故を阻止する。


 そう心に決めると、俺は痛む身体を無理に動かし、静まり返った廊下へ出て非常階段へと向かった。近づくにつれて、ドクドクと鼓動が早くなっていく。打撲のせいで全身が痛くて重い。


 重い扉を開け、階段の最上段に立った瞬間、ピタリと足が止まった。ここから落ちれば元の世界に戻る。はずだ。だけど、どうしても次の一歩が出ない。


 そりゃそうだ。今からやろうとしていることは、客観的に見ればただの自殺行為に近い。100%タイムリープするという保証なんてどこにもないのだ。


 何より、これでもし俺がタイムリープできずにただ死んでしまったら、ここまで必死に育ててくれた、あの母ちゃんを裏切ることになってしまう。


 それに──。階段の暗がりを見つめながら、俺は自分の中にある、もう1つの本音に気づいてしまった。


 こっちの世界線での、武志と、翠と、俺の3人で過ごしたあの屋上での楽しい時間が、「悪くない」と思い始めてしまっている自分が、確かにそこにいたのだ。俺を忘れた翠の姿は辛い。だけど、彼女が武志の隣で笑っているあの穏やかな世界も、これはこれで1つの幸せの形なんじゃないか、と。


 どれだけの時間が流れただろうか。俺はただ、夜の非常階段の最上部で、一歩も動けないまま立ち尽くしていた。


 その時、ふと背中に、確かな衝撃が走った。


 ハッと振り返ると、そこには帰ったはずの母ちゃんが立っていた。母ちゃんは俺の身体を、後ろから両手でしっかりと押さえていた。


「あんた……どうしたの?」


 静かだけど、すべてを透き通すような母ちゃんの顔を見た瞬間、俺の中で張り詰めていた何かが、音を立てて崩れ去った。恐怖、絶望、孤独、迷い。抱えきれなくなったすべての感情がグチャグチャに混ざり合い、俺は母ちゃんにしがみつくようにして、子供みたいに声を上げて大泣きした。


 母ちゃんは何も聞かず、泣きじゃくる俺の身体を優しく抱きしめ、大きな手のひらで何度も、何度も頭をなでてくれた。


 ◇


 その後、病室のベッドに戻った俺は、ただ静かに天井を見つめていた。もう涙は止まっていたけれど、目はうつろで、まるで心がどこかへ行ってしまった抜け殻のようだった。


 病室の外からは、廊下で母ちゃんが父ちゃんに電話をかけている声が、かすかに漏れ聞こえてくる。


「うん、ちょっと手続きして、最後にもう一回顔出したんだけど……うん、……ちょっとね……。だから、私今日、病院に泊まろうかと……」


 母ちゃんの本音は分かっている。


「将の様子がおかしい」


 のだ。階段の最上段に怯えた顔で立ち尽くし、狂ったように泣き出した息子を見て、普通じゃないと察したに決まっている。


 だけど、母ちゃんはそのフレーズを絶対に口にはしなかった。電話の向こうの父ちゃんに対しても、俺に対しても。「おかしい」と決めつけない、それが母親なりの繊細な気遣いなのだと分かった。


「うん、夕飯はなんか買うでも取るでもして。明日の朝には帰るから。はい、はーい」


 父ちゃんとの電話を終えた母ちゃんが、何事もなかったかのような顔で病室に入ってきた。


「お母さん、今日は泊まっていくわ」


 母ちゃんが側にいてくれる安堵感と、今は一人でそっとしておいてほしいという複雑な気持ちが入り混じり、俺はただ、短く返事をした。


「……うん」


 素っ気ない自分の声が、静かな病室に小さく響いた。


 やがて、俺のベッドのすぐ横に、母ちゃん用の簡易ベッドがガラガラと運び込まれ、設置された。大人が寝るには少し窮屈そうなサイズだったけれど、小柄な母ちゃんにはちょうどいい大きさに見えた。


 母ちゃんは俺のベッドに歩み寄ると、少しずり落ちていた布団をそっと引き上げ、丁寧にかけ直してくれた。


「寒くない?」


 その短い気遣いの言葉に、俺は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、小さく答えた。


「……うん」


 自分でも驚くほど、少し子供に戻ったような、甘えるような声が出ていた。身体はいくら大きくなって、180センチになろうが何だろうが、やっぱり男の子というのは、母親にとってはいつまでも子どものままなのかもしれない。


 母ちゃんは、俺に何も聞いてこなかった。階段で何をしていたのかも、どうしてあんなに泣いたのかも。今までの奇妙な出来事、タイムリープのこと、翠の事故のこと、そのすべてを誰かに聞いてほしいような、でも誰にも話したくないような、俺のぐちゃぐちゃで複雑な感情を、母ちゃんは見透かしているようだった。


 ふいに、母ちゃんが静かに言った。


「何も話さなくていい。今日はゆっくり寝なさい」


 その一言で、肩の荷がふっと軽くなった気がした。母親とこうして横に並んで寝るなんて、一体何年ぶりだろうか。そんなことをぼんやりと考えているうちに、タイムリープの複雑な計算も、今が何周目の世界線なのかという焦りも、すべてが頭から白く消えていった。


 ただただ、穏やかな気持ちが胸を満たしていく。俺は気持ち的には本当に何日ぶりか、何年ぶりかという、絶対的な安心感に包まれながら、母の隣で深い眠りへとついていった──。


(つづく)

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