レゾリューション ——第 3 部——
すべてを白く染め上げる、強烈な光。それが収束したとき、俺の肌を包んだのは春の柔らかな風ではなく、やはり、あの鼻を突く消毒液の臭いだった。
「……う、あ……」
口から漏れた声の掠れ具合も、視界に飛び込んできた見慣れない白い天井も、全身を襲う、きしむような鈍い痛みも、すべてがデジャヴだった。
秋元将、17歳。右手には、やはりあのシルバーのリングはない。
ただ、1度目(1周目)と明確に違っていたのは、俺の心に冷徹なまでの「冷静さ」が同居していることだった。
(───落ち着け、まずは状況を確かめるんだ)
俺は痛む体を無理やり動かし、ベッドの脇にあるナイトテーブルへと視線を向けた。そこには小さなデジタル時計が置かれている。
液晶の文字を、じっと見つめる。
【4月5日11:00】
心臓が、冷たく波打った。
現在の日付は4月5日。4月4日の夕方にトラックにはねられ、一晩意識を失って、今が翌日の午前11時。時間の流れ自体は、何も変わっていない。
その後は、1周目と同じ流れが淡々と進んでいった。
ナースコールを押し、駆け込んできた看護師にダメもとで「星野翠」の安否を聞いてみる。返ってきたのは、一言一句狂わない「あなた1人だけですよ」という困惑の言葉だった。
時計が昼をまたぐ頃、俺は医師による脳の精密検査へと回された。出された診断は、やはりというべきか「事故のショックによる一時的な記憶の混濁」。
すべてのことが、全く同じ流れで進んでいく。この後は、廊下に出て、半開きになった病室を見つけ、俺を知らない翠と、あの気の良い青年・武志と出会う──。
(なんだろうな、俺のこの落ち着きようは……)
2度目ともなると、恐怖や混乱よりも、この一連の流れをどこか俯瞰して見つめている自分がいた。例えるなら、一度失敗したゲームのステージをやり直しているような、もはや「クエスト」に挑んでいるかのような感覚に近い。
だが、このまま同じルートを辿れば、待っているのはあの無限ループだ。翠と武志の仲睦まじい姿にショックを受け、フラフラと廊下に出て、メンテナンス中のエレベーターに阻まれ、非常階段から転落して、またあの光に包まれる。
(ちょっと待て。考えをまとめて、ルートを変えてみるか)
俺はベッドから這いだし、まずは翠の部屋だけをそっと確認しに向かった。ドアの隙間から覗くと、やはり病室のベッドにはあの翠が座っている。今すぐにでも駆け寄ってその名前を呼びたい。けれど、その気持ちを必死に抑え込んで、俺は逆方向の廊下へと足を進めた。
向かったのは、病院の屋上だった。重い扉を押し開けると、遮るもののない春の風が容赦なく俺の頬を叩く。設置されていたベンチにゆっくりと腰掛け、風を浴びながら、頭の中にあるピースを整理し始めた。
まず、俺は元の世界線で翠と付き合っていた。それは絶対に妄想なんかじゃない。そして、今いるこの世界線は、俺の知る元の世界線ではない。
しかし、年号も、この屋上から見える周りの景色も、元の世界線と完全に一致している。遠くには、俺の住む市のランドマークとなっているお馴染みのタワーが、春の日差しに溶けかけながらもはっきりとそびえ立っている。
この病院だって、実家からそんなに離れていない大学病院だ。確か、小さい頃に川崎病で1週間くらい入院した記憶がある。
さて、ここまでは理解できた。つまり事故の衝撃をきっかけに、俺は今、別の並行世界に飛ばされている状態なのだ。厄介なのは、この世界線の翠は俺を一切知らなくて、武志という別の彼氏がいるということ。つまり、この世界線にいること自体が、俺にとっては「ゲームオーバー」を意味している。
元の世界線に戻るには……そうだ、さっきは階段から落ちた。
(物理的に痛いの嫌だな……。あのコンクリートに叩きつけられた痛みだけは、今でもハッキリと身体が覚えてるし。笑えないぞ、本当に)
かと言って、あの元の世界線に戻れたとしても、今度は翠がトラックの前に自ら飛び込んでしまう。場所を変えても、ルートを変えても、彼女はあの微かな笑みを浮かべて死へと向かっていくのだ。
進んでも地獄、戻っても地獄。
「もう、どうすればいいんだよ……詰んだ……」
あまりの無理ゲーっぷりに頭を掻きむしり、うつむく。どれほどそうしていただろうか。ふと、やり場のない苛立ちと共に顔を上げた、その瞬間だった。
「えっ……??」
遠くに見える、屋上への出入り口。その扉のガラス越しに、一瞬だけ、見慣れた制服と、見慣れた鮮やかな髪色の女の子の姿が映った。
「え? ええっ……? 翠……?」
間違いなかった。あれは高校の制服を着た、俺の知っている翠だ。入院着の翠じゃない。しかし、その姿はまるで幻のように、スルリと扉の向こうの階段室へと消えていってしまった。
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
俺は慌ててベンチから立ち上がり、必死にその姿を追いかけようとした。けれど、全身の打撲痕が悲鳴を上げる。鉛のように重い身体は、どうあがいても走ることすら許してくれない。
(待ってくれ、行かないでくれ……!)
半べそになりながら、一歩でも前へ、一秒でも早く扉へ、と気持ちばかりが焦る。だが、焦る気持ちに全く身体がついていかなかった。足をもつれさせた俺は、勢いよく前のめりに転倒した。
「がはっ……! う、痛てぇ……!」
痛い。ただでさえ痛いのに、さらに全身を強打して痛みが跳ね上がる。硬いコンクリートの床に無様に這いつくばったまま、俺は自分の無力さに情けなくて涙が出そうだった。
でも、見間違いなはずがない。あれは確かに、俺の知っている制服姿の翠だったんだ。くそ、身体が起こせない……。
絶望に打ちひしがれ、コンクリートに額を押し付けていた、その時。
「あれぇ、君、大丈夫??」
「!?」
頭上から降ってきたのは、あまりにも聞き馴染んだ、大好きな翠の声だった。俺の元に戻ってきてくれたんだ──!
弾かれたようにとっさに顔を上げると、そこには確かに、心配そうにこちらを覗き込む翠の顔があった。しかし、俺は目を見開いた。彼女が着ているのは、さっき一瞬だけ見えたあの高校の制服ではなく、俺と全く同じ、この病院の「入院着」だったのだ。
わけがわからない。けれど、俺は縋り付くようにして目の前の彼女に問いかけた。
「あのさ……! 今、そこの扉から、南高の制服姿の女の子が入っていかなかった……!?」
「ううん、私いま出てきたんだけど、誰ともすれ違わなかったよ? それより君、大丈夫? 起きれる? 誰か呼んでこようか?」
ええと、整理しよう。目の前にいるのは翠。なんだけど、やっぱりこの世界線の翠だ。じゃあ、さっき見たのは……俺の知っている、南高の制服を着た翠だ、と思ったのは、気のせいだったんだろうか。あぁ、自分でもだんだん自信がなくなってきた。翠に会いたすぎる俺の脳が作り出した幻影なのか、どうだったのか。もはや確かめる術はない。
床に転がったまま、ブツブツと必死に記憶の整理をしている俺を見て、この世界線の翠は気味悪がることもなく、クスッと笑った。
「……君、面白いね。でも困ったなぁ、私じゃ起こせそうにないや」
こんな翠の優しさ、やっぱり俺の知っている元の世界線の翠と全く同じだ。泣きそうになる。
その時、カサカサとビニール袋の擦れる音と、近づいてくる足音が聞こえてきた。
(あぁ、多分これ、武志だ……)
もうね、俺には分かっちゃうんだなぁ。
「翠、どうしたの?」
重い扉を開けて入ってきたのは、予想通り、両手にコンビニの袋を下げたあの青年だった。ほらー、やっぱり。ここまで来るともはや笑えてくる。
「なんかねぇ、転んじゃって立てないみたい。どうしよう?」
「えっ、大丈夫かい? ちょっとごめんね」
情けない姿で這いつくばっている俺を、武志は嫌な顔ひとつせず、それどころか俺の体を気遣いながら、ゆっくりとベンチへと座らせてくれた。
あぁ武志、お前ってやつは、どれだけ人間ができているんだ。敵ながらあっぱれというか、もはやリスペクトすら湧いてくる。
そのまま3人でベンチに座り、お互いに自己紹介をし合うことになった。あぁ、やっぱりこの流れなんだな、と心の中でクエストの進行状況を確認する。
だが、会話の中で、俺の脳にパチリと小さな違和感が弾けた。
翠と武志は俺と同じ高校3年生。そして、2人とも「東高」の生徒らしい。
(ん……? 東高? 南高じゃなくて……?)
そう、元の世界線での俺と翠は、2人揃って「南高」に通う生徒だった。だけどこの世界線の翠と武志は、東高の生徒なのだという。
やはり、この世界線は元の世界線とは別の、明確にズレた世界なのだと確信する。
その後、3人でのちょっと楽しい時間が過ぎていった。同じ年齢の3人だ、話が合うのは当然と言えた。1周目のように武志の存在にショックを受けることもないため、純粋に同世代の雑談として心地いい。
やがて空が本格的に暗くなり始め、そろそろ病室に戻る頃合いとなった。
「翠は退屈してるみたいだからさ、もしよかったら、たまに話でも聞きに来てあげてよ」
あぁ、武志、やっぱりそのセリフを言うのね。予定ではこの後、俺が1人で廊下に出て、エレベーターが止まっていて、力なく向かった階段で足を踏み外してタイムリープする流れか……。次こそは痛くないように落ちる方法を考えなきゃな、なんて頭の隅で考えていると、武志が「ちょっと待ってて」と言って屋上を後にした。
数分後、武志が戻ってきた。その手には病院の車いすが握られていた。
「僕が病室まで送っていくから、これに乗ってよ」
……え? 武志の人の良さは何なの? 神様なの? 俺は武志の押す車いすに揺られ、階段に近づくことすらなく、あっけなく自分の病室にたどり着いてしまった。
商売道具である優しさの極みのように、武志は俺に「部屋で飲んでね」とあの冷たい緑茶を手渡して、爽やかに帰っていった。
ベッドに取り残された俺の手には、1本の緑茶。タイムリープの引き金である「階段からの転落」を、武志の圧倒的な善意によって完璧に潰されてしまったのだ。
(つづく)




