レゾリューション ——第 2 部——
すべてを白く染め上げる、強烈な光。その中心で、俺の意識は頼りなく揺れ、そして──劇的なスピードで急速に引き戻された。
コンクリートに打ち付けられたはずの全身の激痛がない。鼻を突いていた消毒液の臭いも、いつの間にか消え失せている。代わりに俺の鼻腔をくすぐったのは、春の柔らかな風の匂いだった。
「ふふ、見てまさし。キラキラしてて、すっごく綺麗」
鈴の鳴るような、愛おしい声が鼓膜に届く。ハッと目を開けると、すぐ目の前に星野翠が立っていた。お気に入りの手作りの桜の髪留めを揺らし、150センチの小さな身体をさらに縮めるようにして、繋いでいない方の手を太陽にかざしている。彼女の右手の薬指には、確かにシルバーのリングがはめられ、春の陽光を浴びて眩しくきらめいていた。
(……戻った、のか……?)
俺は混乱しながらも、自分の右手を見た。そこには、翠とお揃いのシンプルなリングがしっかりと収まっている。病院で味わったあの絶望、俺を知らない翠、外部の人間でありながら余裕のある青年、武志の姿──。あれは全部、階段から落ちた俺が見た、質の悪い白昼夢だったのだろうか。これが俺の知る、俺を愛してくれている翠がいる「元の世界」だ。
「どうしたの? さっきからなんか、気持ちが別世界に行っちゃってるみたいだけど」
不意に差し込まれた翠の言葉に、俺の心臓がドクリと跳ねた。別世界──。
あまりにも今の俺の状況にリンクしたそのワードに、背中に冷たいものが走る。けれど、せっかく戻れた幸せな空気を壊したくなくて、俺はとっさに笑みを作ってごまかした。
「……あ、ごめん。なんかさ、翠とのこの時間が幸せすぎるから、気持ちがフワフワしちゃって」
「もう、大げさだなあ。でも……ありがと」
翠は少し照れたように頬を染め、繋いだ手にきゅっと力を込めてきた。その手の温もりは間違いなく本物で、俺の胸にじんわりと広がっていく。だけど、あのリアルすぎる病院での体験は何だったんだという不思議な違和感は、どうしても頭の片隅から消えてくれなかった。
本当に夢だったのだろうか。俺は歩きながら、何度も、何度も、お互いの指に光るリングを確認してしまった。その度に翠は嬉しそうに微笑み返してくれる。
デートは、俺の記憶にある通りに、1分の狂いもなく進んでいった。楽しい時間は一瞬で、世界はあっという間にオレンジ色の夕暮れに染まっていく。
そして──俺たちの足は、あの忌まわしい交差点へと近づいていった。
遠くに見える横断歩道。その景色が目に入った瞬間、脳裏にあの鮮明にはねられた場面が、強烈な不快感とともにフラッシュバックした。金属音、急ブレーキ、宙を舞う身体、指先から滑り落ちる翠の手。
身体が恐怖でガタガタと震え出す。あのトラックが来る。このまま進めば、間違いなくあの悪夢が現実になる。
「ねえ、まさし? 次の信号を渡れば、もうすぐ駅だね」
「……待って、翠」
俺は立ち止まり、翠の手を強く握りしめた。
「翠、ごめん。もう一箇所だけ、どうしても行きたい所があるんだ」
「え? 今から? どこに行くの?」
「いいから、こっち」
あの交差点に絶対に近づかないよう、俺は別のルートへ向けて翠の手を引いた。大きく迂回する、遠回りの道だ。翠はそんな俺の強引な態度に「どうしたの? 急に」と不思議そうな声を上げながらも、何も言わずに大人しくついてきてくれた。
住宅街の細い路地を抜け、あの交差点からかなり遠ざかった。ここまで来れば、あのトラックに巻き込まれるはずがない。
「……ふぅ」
俺の口から、張り詰めていた安堵の息が漏れた。これで翠を救えた。事故は回避できたんだ。そう、ほんの少し安心した、その瞬間だった。
繋がれていた翠の手が、生き物のようにスルリと俺の指先から抜け落ちた。
「え……?」
見ると、翠は夕日を背に浴びながら、歩道から車道のほうへ向かって、フラフラと力なく歩き出していた。まるで、何かに吸い寄せられるかのように。
刹那、俺の視界の端に、猛烈なスピードで走ってくる影が映った。あの大型トラックだった。
(えっ……? なんで!?)
意味がわからない。場所もルートも変えたはずなのに、なぜあのトラックがここにいる? なぜ翠は道路へ飛び出そうとしている?
脳が理解を拒絶する。しかし、この後に何が起こるのかだけは、はっきりと分かってしまう気がした。
「翠────っ!!」
俺は引き裂かれそうな声で彼女の名前を叫んだ。がむしゃらに腕を伸ばし、翠の手を引っ張って歩道側に戻そうと、必死に身体を投げ出す。
世界が、またあの奇妙なスローモーションに変わる。突っ込んでくるトラックの轟音が鼓膜を圧迫する中、俺の指先が、ようやく翠の手に届いた。
グッと力を込め、彼女の身体を引き戻そうとした、その瞬間。
翠が、ゆっくりと俺のほうを振り向いた。
夕暮れの光の中、彼女の口元に浮かんでいたのは、やはりあの時の──何も気づいていないようでもあり、すべてを知っているようでもある、あの不気味なほど綺麗な微かな笑みだった。
「あ──」
直後、鼓膜を破壊するような衝撃が2人の身体を襲った。
衝撃のままに、世界がグシャグシャに歪む。身体が宙を舞い、視界が上下に激しく回転する。薄れゆく景色と、急速に遠ざかっていく意識の中で、俺の脳裏にはただ1つの感情だけが、濁流のように渦巻いていた。
(なんで……? なんでなんだよ……!?)
ルートを変えても、結果は変わらない。答えの出ない絶望的な問いを抱えたまま、俺は再び、深い暗黒の底へと意識を失っていった──。
(つづく)




