レゾリューション ——第 1 部——
作品の舞台は千葉市
将の自宅は千葉市中央区
翠と武志の自宅は千葉市稲毛区
病院は千葉大学病院
「東高」は千葉東高校そのまま
「南高」は千葉南高校ですが、この作品内では千葉明徳高校の場所に位置するものとして設定しております
激しい金属音と、鼓膜を震わせる急ブレーキの音が、世界を真っ黒に塗りつぶした。それが、俺の記憶の最後だった。
「……う、…く……」
ひどくかすれた声が自分の口から漏れた。視界に飛び込んできたのは、見慣れない白い天井と、鼻を突く消毒液の臭い。ゆっくりと首を動かすと、点滴のチューブが腕に繋がれているのが見えた。
秋元将、17歳。全身を襲う、きしむような鈍い痛みに顔をしかめながら、俺は自分が病院のベッドの上にいることを理解した。体に走る激痛をこらえながら、ぼんやりとする頭で必死に記憶の糸をたぐる。
(そうだ……俺は、翠と……)
記憶の扉が開くと同時に、あの日──4月4日の鮮やかな光景が、津波のように脳裏に蘇ってきた。
あの日、俺は星野翠の18歳の誕生日を祝うために、2人で街へ出かけていた。150センチと小柄な翠は、お気に入りの手作りの桜の髪留めを揺らしながら、180センチある俺の隣を本当に嬉しそうに歩いていた。歩幅を合わせようと少し内股気味になる彼女が愛おしくてたまらない。あのはにかんだような、だけど心から幸せそうな笑顔。どこにでもいる、ごく普通の高校生カップルの、いつものデートより、ちょっぴり特別な日のデートだった。
翠の誕生日プレゼントを買いに、とあるアクセサリーショップに入ったときのことだ。ガラスケースに並ぶきらびやかな指輪を前に、翠はまるで宝物を見つけた子供のように目を輝かせていた。てっきり可愛らしい小物を探すのだと思っていた俺に、翠は少し頬を染めながら、1つの棚を指差した。
「ねえ、まさし。これがいいな」
「ねえ、将。これ、すっごく綺麗……!」
彼女が欲しがったのは、シルバー製のシンプルなペアリングだった。けれど、俺は少し首を傾げた。
「ペアリング? 翠の誕生日プレゼントなのに、お揃いのやつでいいの? もっと翠が1人で身につける、いいネックレスとかあると思うんだけど……」
「うーん、これがいいの。2人で一緒に着けられるものがいい」
「そっか。じゃあさ、左手の薬指のサイズ、測ってもらおうか」
俺がそう言うと、翠は慌てて首を横に振った。
「ダメだよ、左手の薬指なんて、私たちがつけるようなものではないもの。だから……右手の薬指用、ね?」
少し背伸びをするようにして、真剣な目を向けてくる翠。なぜそこまでペアリング、しかも右手の薬指にこだわるのか、俺には少し疑問だった。だけど、彼女の強い希望を無下にできるはずもない。
「…わかった。じゃあ、これにしよう」
購入したリングを、その場でお互いの右手の薬指にはめた。店を出た後、繋いだ手のひらの中で、小さなシルバーの輪が確かに存在を主張していた。窓から差し込む太陽の光に透かすように、翠は繋いでいない方の手を時折太陽にかざし、キラキラと反射するリングの光を眺めては、まるで未来の約束を交わすみたいに無邪気に、言葉にならないほど嬉しそうな笑みを浮かべていた。
その笑顔をずっと守りたいと、俺は心から思ったんだ。それを見るだけで、俺の胸の奥も温かい幸福感で満たされていった。
幸せな時間は、あっという間に夕暮れに染まる。この後は翠のお母さんから誕生日のホームパーティーに招待されており、自宅にお邪魔することになっていた。
「手、冷たくなっちゃったね」
なんて言いながら、俺たちはしっかりと手を繋いだまま、駅前の交差点の横断歩道の前に立った。信号が青になり、一歩を踏み出した、その瞬間だった。
──ゴォォォーーーーーーーーッ!!!
地鳴りのような不気味な駆動音と、アスファルトを震わせる凄まじい走行音が鼓膜を刺す。視界の端から、猛烈なスピードで突っ込んでくる巨大な影。赤信号を完全に無視し、ノーブレーキのまま交差点になだれ込んできた、大型トラックだった。
その時、世界が奇妙なほど引き延ばされたスローモーションに変わった。避ける間も、声をあげる暇すらない。網膜に焼き付いたのは、ヘッドライトの凶暴な白い光と、俺の手を握ったまま、なぜか怯えもせず穏やかに微笑むような笑みを浮かべていた、翠の横顔だった──。
何も気づかずに幸せの余韻に浸っているようでもあり、あるいは、これから起こる悲劇を最初からすべて知っていたようでもある──そんな、酷く曖昧な微笑み。それが、俺の網膜に焼き付いた、事故前の最後の翠の姿だった。
直後、身体が衝撃で宙に弾き飛ばされる。繋いでいた翠の手が、生き物のように俺の指先から滑り落ちていった──。
「……翠!」
ガバッと身体を起こそうとして、全身の打撲痕に激痛が走り、無機質な黒いアスファルトの地面に激しく倒れ込んだ。そうだ、俺たちはトラックにはねられたんだ。視界が急速に真っ黒になり、俺の意識はそこで完全に途絶えた。
「あ、あの……誰か……!」
ナースコールを押すと、すぐに看護師が部屋に駆け込んできた。俺は必死に声を振り絞る。
「あの、翠は……星野翠は!? 一緒に事故に遭った、髪の長い女の子はどこですか! 無事なんですか!?」
しかし、看護師は困惑した表情で俺を見つめるだけだった。
「秋元さん、落ち着いてください。……星野さん? いいえ、あの事故でこの病院に搬送されてきたのは、あなた1人だけですよ」
「そんなわけありません! 僕たちは手を繋いで歩いていて、一緒に跳ねられたんです!」
色めき立つ俺の様子に、病院側は色をなした。事故の衝撃による一時的な記憶障害や混乱が疑われ、俺はすぐさま脳の精密検査へと回されることになった。だが、結果は「脳に異常なし」。医師からは、事故の強い精神的ショックが見せた、記憶の混濁だろうと結論づけられてしまった。
「嘘だ……そんなはずない……」
俺の右手には、あのシルバーのリングがない。それどころか、最初から何もはめていなかったかのように、指先は冷え切っている。
翠との日々は、あの指輪は、全部俺の妄想だったというのか。
力なく、フラフラと病室を出て、病院の廊下を彷徨った。頭の中がグチャグチャで、現実と夢の境界線がわからなくなる。その時だった。通りかかった、半開きになった病室の扉。その隙間から見えた横顔に、俺の心臓は跳ね上がった。
「翠……!」
体の痛みも忘れ、俺は病室へ飛び込んだ。ベッドの上に座っていたのは、間違いなく翠だった。さらりとした髪も、あの愛らしい顔立ちも、俺の記憶にある星野翠その人だ。
「翠! 良かった、生きていたんだね……!」
「え……?」
駆け寄る俺を見て、翠はパチパチと瞬きをした。その瞳に映っているのは、恋人に向ける愛おしさではなく、見知らぬ不審者を見るそれだった。怯えたように、わずかに身体が強張る。
「あの……誰、ですか?」
「何言ってるんだよ、まさしだよ! 秋元将! 忘れちゃったの?」
「あきもと……さん? ごめんなさい、私、あなたのこと知らないです」
いや……嘘だろ……。何が起きているのか全く理解できない。俺は、どうにか自分を納得させるための理由を必死に紐づけていく。
そうか! 翠のほうこそ事故のショックで記憶の混濁が起こっているんだ!
「いい、落ち着いて聞いてね。俺と2人でトラックにはねられたの!」
「……トラック……?」
翠は明らかに怯え、ベッドの柵を握る手にぐっと力を込めた。ナースコールを押すべきか迷うように、視線が一瞬だけ手元に泳ぐ。だが、目の前で錯乱している(ように見える)大男を刺激してはまずいと察したのだろう。彼女は引きつった笑みを浮かべ、必死に話を合わせるように小さく頷いた。
「……はい……」
まったく身に覚えがないようであるが、俺はそんな彼女の様子にも気づかず、まくしたてるように続ける。
「それで、一緒にこの病院に運ばれてきたんだよ!」
「あ……」
俺の言葉を聞いた瞬間、翠の表情に、恐怖とは別の「腑に落ちた」ような色が交じった。この男は狂っているわけではなく、自分と同じ交通事故のショックで頭が混乱しているかわいそうな人(=記憶の混濁)なのだ、と彼女の中で合点がいったのだ。
相手の素性が「不審者」から「哀れな同病の患者」に変わったことで、翠の警戒心がわずかに解け、少しだけお姉さんぶるような、柔らかい声音が戻ってきた。
「……あ、でも、君も交通事故? 私もなの、まいっちゃうよね。イテテ……」
翠が苦笑いしながら、痛む足をそっとさすったその時だった。ガラガラと病室のドアが静かに開き、カサカサと買い物袋の音を響かせて、1人の男子高校生が入ってきた。
「お待たせ翠。売店がちょっと混んでてさ、ゼリー買うの遅くなっ……おや?」
入ってきた男──相葉武志は、ベッドの脇で血相を変えて立ち尽くしている俺の姿を見て、ピタリと足を止めた。その落ち着いた視線が、俺の着ている入院着と、ベッドの上で少し身を縮めている翠の間を素早く往復する。
一瞬で状況を察したのだろう。武志はあからさまに敵意を示すような真似はせず、だけどごく自然な動作で俺と翠の間に一歩踏み込み、彼女を背中に隠すようにして立った。
「あ、えっと……お隣の病室の人、かな? どうしたの、どこか体調悪い?」
武志は、180センチある俺の体格に気圧される様子もなく、むしろ相手を安心させるような、驚くほど穏やかで優しい声をかけてきた。その目は「警戒」というより、「心配」に満ちている。この男もまた、俺のことを『事故のショックでパニックになっている、同じ病院の患者』だと判断したのだ。
「ちがう、俺は……! 翠と、星野翠と一緒にトラックに……」
なおも食い下がろうとする俺の言葉を、武志は「なるほど、そういうことね」と、大きな手のひらをこちらに向けて優しく遮った。
「落ち着いて、大丈夫だから。強い衝撃を受けるとさ、脳が一時的に混乱して、記憶が少しごちゃ混ぜになっちゃうことってあるらしいんだ。だから、焦らなくて大丈夫だよ」
武志はそう言って、こちらの心をそっと解きほぐすような、柔らかな微笑みを浮かべた。俺の言葉を否定せず、ただ静かに諭すような彼のトーンには、他人の興奮をすうっと鎮めるような、不思議な包容力があった。
「ここは病院だから、もう安心。まずはゆっくり深呼吸しよう。あ、申し遅れました。僕は相葉武志。で、こっちのベッドにいるのが、星野翠。同じく交通事故の仲間なんだ」
武志は丁寧にそう名乗ると、親指で後ろの翠を優しく示した。背中に隠されていた翠も、武志の安心感のある佇まいにホッとしたのか、ひょこっと顔を覗かせて小さく微笑んだ。
「まだ頭の中の整理がついていないとは思うけど……これも何かの縁だしさ。もしよかったら、君の名前も教えてくれない?」
向けられた武志のまっすぐな視線には、一切の悪意も、不審者を見るような冷たさもなかった。ただ純粋に、同じ病院で苦しむ『仲間』として俺を優しく迎え入れようとしてくれる、圧倒的な善意だけがあった。
そのあまりにスマートで温かい対応に、俺の頭の中に渦巻いていたパニックが、急速に冷まされていくのを感じていた。
「お、俺は……秋元……将……」
「将くん、ね。よし、覚えた。よろしく、将くん」
武志はそう言って、今度は親しみやすさを込めてニッと笑った。こうして、歪んで狂ってしまった世界の中で、俺と武志、あるいは翠との、奇妙で、だけどどこか救われるような「初対面」が果たされたのだった。
「じゃあ……また……」
俺はそれだけを言い残し、逃げるように翠の病室を飛び出そうとした。そんな俺を引き留めるように、武志が慌ててコンビニ袋からペットボトルを1本、取り出した。
「あ、秋元くん。よかったら、これ。まだ冷えてるから、部屋で飲んでよ」
差し出された緑茶のボトル。どこまでも親切な彼の態度が、今の俺には鋭い刃のように突き刺さる。
「……あ、ありがとうございます……」
「それとさ──翠も一日中ベッドの上で、ちょっと退屈してるみたいなんだよね。もしよかったら、またたまに話でも聞きに来てあげてよ」
武志はそう言うと、隣の翠と顔を見合わせて柔らかく微笑んだ。どこまでも真っ直ぐで悪意のないその言葉が、今の俺にはたまらなく残酷だった。
「……あ、はい……」
俺は蚊の鳴くような声でそれを受け取り、今度こそ病室を出た。背後から、「気を付けなよぉ、またきてねぇ」という、どこまでも他人行儀で、だけど呑気な翠の声が追いかけてくる。それが一層、俺の心をズタズタに引き裂いた。
フラフラと廊下を歩く。手の中のボトルだけが冷たかった。翠と付き合っていた記憶が、全部俺の都合のいい夢だったのか。それとも、この「俺を知らない翠がいる現在」の方が悪い夢なのか。
何もわからない。とにかく自分の病室に戻って、この狂った状況を整理しなければ、頭がおかしくなってしまう。
翠の病室は、俺の病室の1つ上のフロアだった。下りるためにエレベーターのボタンを押そうとしたが、そこには「メンテナンス中」の黄色い看板が立てかけられていた。
「えぇぇ…………」
ついていない。本当に、何もかも。俺は力なく、近くにある非常階段の重い扉を開けた。手すりに掴まり、下を向いて階段を一段下りようとした、その瞬間。
身体のバランスが、奇妙なほどあっさりと崩れた。全身の打撲のせいで、足に力が入らなかったのだ。
「うわあぁぁっ!?」
自分の叫び声が、狭い階段室に木霊した。視界が上下に激しく回転し、身体がコンクリートの段差に何度も打ち付けられる。
あ、死ぬ。そう思った瞬間、俺の視界は、すべてを覆い尽くすような強烈な白い光に包まれた──。
(つづく)




