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欄干の学生

 居酒屋・川下屋で飲んだ後、卓造さんとにゃんぱちと一緒に帰路につこうと店から出ると、橋の上(川下屋は橋の下にあるのだ)から、こんな声がした。

「ああ、ぼくの人生はもう絶望的だ。これならこんな人生には区切りをつけて、さっさと亡者としての第二の生を生きるのが身のためではあるまいか」

 などという説明的な嘆き台詞だ。声の方を見てみると、案の定というか、一人の若者が橋の欄干から今しも川に飛び込もうとしているところである。大して急な川でもないが、泳ぎの才能がなく、酔っていれば溺れ死ぬのは容易だろう。流石に放ってはおけないので、私たちはあわてて階段を登り、橋の上に出た。

「ちょっとちょっと、自殺なんてやめときなさいよ」

 と、私は声をかけた。

「放っておいてください。どうせぼくの人生には楽しいことなんかなにもないんだ」

「にゃにか嫌なことでもあったにゃ?」

「特に今嫌というほどではないのですが、お先が非常に真っ暗なのです。大学はろくなところに入れず、就職もろくなところに決まりそうもなく、顔もよくなく美女といいことも出来ない。もはやこの世に生きていても生き地獄。これならばいっそ、」

「亡者になった方が幸せってこと?」

「たしかにそうかもにゃー」

 にゃんぱちが余計なことをいうので蹴り飛ばした。

「ぎゃん」

 そんな私たちをよそに、卓造さんが若者に言った。

「君、自殺はよしなさい。バカらしいです」

「しかし、今言ったように生きていても大した甲斐もないのです」

「だが自殺しても簡単に亡者にはなれませんぞ」

 と、この人には珍しく断定的な口調で言った。若者はきょとんとして、

「しかし死神にあの世に連れて行かれて亡者になるなどというのは、昭和後半の「霊世界情報解放令」辺りからこの世でも常識じゃありませんか」

 と言った。

「その死神だから申しますが、実のところ死神もすべての霊を回収できているわけではないのです」

 そう言われて、若者は、卓造さんの風体に気づいたようだった。相手が間違いなく死神であることが分かったようで、真剣に卓造さんに向かい合う。

「そうなのですか?」

「病気や事故などで亡くなる方は運命としてあの世でも把握できるのですぐに魂を回収できるのですが、自殺によって自ら運命を絶たれたような方は、把握できないのですよ」

 そういや、中学辺りの頃の自殺防止教育でそんな話を習ったことがあるなあ、と私は思い出した。今はあの世があるので簡単に自殺する若者が増加傾向ですが、自殺では死神に見つけてもらえず簡単にあの世に行けないのでやめておきなさい、云々。

 話を若者に戻そう。

「しかし、今の場合はあなたがいるじゃありませんか」

「私はプライベートですから実のところ今あなたに自殺されても魂を回収する義務はないのですが、まあ良心の問題で回収するでしょうね」

「その前に自殺をやめさせた方がいいんじゃにゃいか」

 こう言ったのはにゃんぱちである。が、卓造さんは、

「ええ、そのためにこのお話をしてるのです。学生くん。あの世にも魂を亡者の肉体に宿らせるための事務手続きやら、そもそも亡者の肉体を製造するための製造工程があるのです」

「はあ」

「それらの手続きや工程は運命通りに死んだ方の分だけでいっぱいいっぱいなのです。彼らを差し置いて自殺者に優先的に回すわけにはいきません」

「そうなると、自殺者はすぐに亡者にはなれないのですか」

「大変に待たされます。そうなるとふわふわとした重く暗い気持ちの幽霊のままで何年も何十年も待たされることになります」

「うーむ」

 と、学生は悩み顔をする。

「私も一介の公僕ですから人生の下らなさへの絶望は分かりますがね、なに、人間の方は所詮は百年も生きれば死にます。そうなれば亡者としてひと休みできるわけですから、辛いことしかないのが分かっている幽霊生活よりも、楽しいこともある現世をなんとか生きた方がよろしいのではないですか」

「はあ、そうします」

 と、学生はあっさり言うと、普通の足取りで去っていった。

「自殺をやめさせるなんてやるじゃない」

「マニュアル通りのことを言ったまでですよ。実際、現世に自殺者が増えて浮遊霊があふれるようだと地獄の者が神様や仏様や、最近ではこちらの政府筋からも怒られて大変なのです」

「とことん責められる立場だにゃあ」

「左様です。しかもそれに終わりがないと来ていますから、我々こそ人生地獄の最大の犠牲者ですよ」

 こりゃさんざん悩んだり銀杏坊主にだまされるわけだ、と私は思った。

「ま、いいこともあるわよ。元気出して」

 と、私は卓造さんの肩を叩いた。

「はい」

 と、言いながらも卓造さんはため息をつく。学生と話しているうちに、己の身の上を慮って彼の方の気が暗くなったようである。

「……飲み直そうか」

 と、私は提案した。卓造さんは、うなずく。

 私たちは、まだ灯がついている川下屋に向かうため、橋の階段を降りていった。

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