酒屋のうわばみ
最近、よく行くようになった店がある。川下屋という居酒屋で、文字通り橋の下にある小さな店だ。経営者はかわうそ。経営者が妖怪であることとリーズナブルな値段から、この辺りの妖怪たちのたまり場になっている。
うちのにゃんぱちとて例外ではなく、よく通う。だが、こいつは労働をしておらず、財布を持っていない。必然として、同居していて金を持っている偉大な人物を頼ることとなる。つまり、この私だ。以前は小遣いを与えていたが、どうにも使いっぷりが荒いし酷い時には財布から抜き出すことまである。無論、そうした時には折檻を与えてやるのだが、盗られた金は返ってこないし手間だ。だから最近、にゃんぱちが飲みに行く時は、私も一緒に行っていることが多い。結果、妖怪のよく行く飲み屋に私も行くことが増え、普通の人間よりは妖怪に出会う機会が増えている。
ともあれ、その川下屋に行った時のことである。工事帰りと思しき数人の鬼が入ってきて、にぎやかに一杯やり始めた。
別にそれはいい。いいのだが、悪いことに、タバコをプーカーやり始めたのである。無論、嫌煙の今の御時世とはいえ、居酒屋でタバコを吸うぐらいは本来大しておかしなことでもない。だが、川下屋ではある事情で、禁煙席と喫煙席の区分けが非常に厳密なのである。自殺志願者でもない限り、禁煙席のそばでタバコを吸う常連はいなかった。そしてもちろん、この時鬼たちがタバコをふかしていたのは禁煙席だったのである。
まずいなあ、と思いながら見ていると、店主のかわうそが、おどけながら鬼たちに近づいて、言った。
「お客さん、あのですな、うちはタバコの方はあっちの席でお願いしてるんで」
これですめばよかったのだが、悪いことに鬼たちには酒が回り始めていたようだ。
「別にいいじゃねえか。酒屋で禁煙席だなんざ、ケチくさい」
「しかしねえ、あっしとしてもお客さんは五体満足でお帰り願いたいもんで、はい」
「おいおい。かわうそ風情が地獄の拷問吏にケンカ売ろうってのかい」
「いえ、あっしはお客さんに手出しなんかしませんよ、ただ……」
かわうそ店主がそこまで言ったところで、店の中を、ぐるりという太く長く大きい影が覆った。当然、鬼たちは振り向き、そちらを見る。
そこには、一匹の巨大な蛇の姿があった。うわばみである。
「俺は千年前からの嫌煙論者でな」
低い声でそうつぶやきながら、うわばみは鬼たちを舐めまわすように見た。鬼たちは一瞬で、酔いが覚めたような形相になる。そして、リーダー格の一人が、
「ま、ルールはルールだ。動こうや」
といい、全員がそれに続いた。かわうそ店主は、心底ほっとした顔で、胸をなでおろしていた。
「危ういところだったわね」
私が言った。
「全くですよ、甚六の旦那に暴れられたら店ごと建て直しですからね」
甚六というのは、うわばみの名である。
「危ない常連さんだにゃー」
「とはいえ旦那がいるからやってけるのも事実ですからねえ。うわばみというだけあってえらい飲みっぷりですよ、毎晩」
そう言ってかわうそ店主は、厨房の奥に戻っていった。
騒動が収まったところで、一人、私の顔見知りが店に入ってきた。死神の卓造さんである。
「もっと早く来てくれればよかったのに」
と、私は言った。こう言ったのには理由があるのだが……まあ、説明するほどのこともない。
「おや、京子さんににゃんぱちさん、おいでですか。……えっと」
「甚六さんならいつもの奥の席にゃ」
と、にゃんぱちが尻尾で指した。そこでは、一匹の大蛇、すなわち大うわばみの甚六氏が、ちびりちびりと日本酒を飲んでいる。
卓造さんは、
「やあやあ、甚六くん、ごきげんいかがかな」
と朗らかに言い、甚六の元へと歩いていく。
「まあまあさ、先生」
甚六は先ほどと同じく低い、しかし機嫌のよさそうな調子の声を返した。そして、
「今日も相手をしてくれるかい?」
と、続ける。
「いいとも。ブラックジャック? それともテキサス・ホールデム」
卓造さんはそう言いながらカバンからトランプ一式を持ち出す。
「ホールデムだ」
この二人は昔からのトランプ仲間(日本へのトランプ伝来の前はまた違った遊びだったらしいが、なにしろ数百年も前のことなので双方覚えてもいない)であり、無二の親友なのである。卓造さんがいる時なら、甚六氏もそうそう簡単には怒らず、機嫌よくしている。また一方の卓造さんも、普段のしょぼくれはどこへやら、あの皆から恐れられている甚六氏の前で、いつにないリラックスしたいい調子を見せる。人の、いや妖怪の心をビリヤードの玉のように考えるならこの二人の仲がいいのは理屈にあわない気もするが、私だってそんな単純でないことぐらいは知っている。
私は、目の前で酒を舐めているにゃんぱちをちらりと見た。私とこいつが一緒にいるのだって、傍から見てしっかりした理屈をつけるのは難しかろう。つまりは、まあ――そういうもんなのだろう。




