第三部第八話:時の迷子、そして王都への凱旋
第三部第八話:時の迷子、そして王都への凱旋
ミレトー王国を流れる大河の河原。
乾いた夕風が吹き抜ける中、レイスは愛刀の漆黒の剣を天高く、上段へと構えていた。
その全身から放たれる殺気は凄まじく、周囲の空気さえもビリビリと細かく震わせている。
その剥き出しの刃の真下。
河原の平らな岩の上で、粗末な法衣を纏ったブルドが、物言わぬ地蔵のように胡坐をかいて静かに瞑想していた。
レイスの腕がしなる。
風を裂く音すら置き去りにするような神速の一撃が、ブルドの脳天を目がけて真っ直ぐに振り下ろされた。
――だが、刃がその黒髪を掠めるよりも早く、ブルドの両手が音もなく跳ね上がった。
パシィィィンッ!
乾いた打撃音が響く。
ブルドは目を開けることすらしないまま、鋭い剣の刃を自らの両掌の肉だけで寸分の狂いもなく挟み込んでいた。
見事なまでの「白羽取り」であった。
「流石だな! 鈍っちゃいねえか確かめてやったが、無駄な心配だったらしい」
レイスはニヤリと戦鬼の笑みを浮かべ、剣を引き抜いて器用に鞘へと収めた。
その武骨な顔には、過酷な南部の遠征を生き抜いた男ならではの、深い風格と確固たる自信が刻まれている。
「なんのこれしき。……お主の放つ殺気はあまりに巨大ゆえ、その『流れ』を読めば、目を瞑っていても造作もないことじゃよ」
ブルドはゆっくりと目を開けた。
その理知的な切れ長の瞳は、かつてないほどに深く、まるで全てを見通すかのような底知れぬ静寂を湛えている。
「……お前、随分と雰囲気が変わったな。何というか、中身がすっかり枯れた老人のようだぜ」
レイスの言葉に、ブルドは己の顎を細い指先で撫で、どこか遠い世界を思い起こすように視線を彷徨わせた。
「うむ。無理もないかもしれん。拙僧の意識は、『冥王玉』の深淵の中で、死者たちの記憶を辿りながら幾千年も幽世を旅していたようじゃった。……じゃが、気がついて現世に目を戻してみれば、実際には一刻(約二時間)も経っておらなんだがのう」
「くくっ、口調まで年寄り臭くなってやがる。自覚はねえのか?」
レイスが呆れたように笑う。ブルドはすっかり老成した語り口になっていることに、自分自身では全く気がついていなかった。
彼はこれほど達観していながら、肉体の年齢としては未だ二十歳にさえ届いていない若者なのだ。
しかし今の彼は、この世界のどんな大寺院の老高僧よりも、生と死の「真理」の近くに到達していた。
「まぁいいさ。俺は久しぶりにミレトーへ戻ってきたところだからな。早く教会のリーヴィスや、我が息子の顔が見たくて堪らないのさ」
レイスの瞳に、戦士の冷徹さとは異なる、父親としての温かい光が宿る。
「……アレス殿下も、随分と大きくなられましたぞ。お主の面影を色濃く残した、誠に凛々しい若君じゃ」
「ほう、そうか! そりゃあ楽しみだ。あのちっぽけだった赤ん坊が、どれほど生意気になってるか、この目で確かめてやらねえとな」
レイスは相好を崩し、本当に嬉しそうに声を弾ませた。
「ならば、このような河原で拙僧などに構っておらんで、一刻も早く教会へ直行すれば良かろうに」
「なに、ここを通りかかったら、河原で涼んでるお前さんの坊主頭が見えたんでな。つい、からかってやろうと立ち止まっただけさ」
レイスは快活に笑うと、近くの木に繋いでいた愛馬の手綱を解き、その逞しい背へと再び跨がった。
蹄の音を響かせ、王都の南端にそびえる大教会を目指して、ゆっくりと馬を歩かせ始める。
「ふむ……。それでは拙僧も、久しぶりにリーヴィス殿の顔でも拝みに行くとしようかのう」
ブルドは立ち上がり、衣服についた砂を軽く払うと、愛用の錫杖をシャン、と鳴らしてレイスの馬の後をのんびりと歩き出した。
彼の背後には、やはり生者には見えない霊たちが数体、影のように静かについてきていた。
かつて、地王界の南部に蔓延り、人間や亜人を家畜のように貪っていた魔王族の軍勢は、この数年におよぶレイスの過酷な遠征によって、今やあらかた討伐され尽くしていた。
奪還された南部の土地が、そのままミレトー王国の完全な支配下(領土)になったわけではない。
しかし、そこに生きる人間やゴブリン、そして新しく陸の住人となったモレイ族にいたるまで、戦後を統治する彼らの心は一つだった。
誰もが、絶対的な強さと寛大さを併せ持つ「大地王グランバード・レイス」という一人の男に、絶対の忠誠を誓っていたのだ。
また、精霊使いハミッシュとマーマン族のネーメア王女の仲介により、海王族との間にも強固な不可侵条約が結ばれていた。
大波が打ち寄せる海岸線を境界として、地王界と海王界の縄張りは明確に別たれ、不毛な血の衝突は完全に過去のものとなっていた。
激動の時代は緩やかに収束し、世界には確かな平穏の風が吹き抜けている。
――地王暦、五年のことである。
第六の王族として覚醒した地王族は、いま最も輝かしい繁栄の絶頂を迎えていた。しかし、この平穏の裏で、世界の歪みは静かに、より深く進行していることを、帰還した二人の英雄はまだ知る由もなかった。




