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第三部第七話:幽世(かくりよ)の仕分け人、生と死の輪舞

第三部第七話:幽世(かくりよ)の仕分け人、生と死の輪舞


ミレトー王国の南東に佇む、厳かな冥王教会の寺院。

そこでは連日、厳しい戒律のもとで僧侶たちが座禅を組み、己の肉体を痛めつける苦行に励んでいた。

半冥王族のブルドもまた、その薄暗い本堂の片隅で、微動だにせず瞑想に明け暮れる修行僧の一人……と思われていた。

しかしある朝、高僧たちの前で、ブルドはあっさりと胡坐を解き、立ち上がった。

その精悍ながらもどこか虚無を宿した瞳で周囲を見回し、ボソリと言い放ったのだ。

「――修行など、なんの役にも立たんのう」

本堂の空気が凍りついた。

色めき立つ僧侶たちは、苦行の果てにこそ「悟り」があると信じ、何年も泥水を啜るような生活に耐えてきたのだ。

だが、ブルドは違った。

彼の手元で鈍い輝きを放つ「冥王玉」は、現世の肉体を介さず、魂そのものに直接、宇宙の深淵たる真理を叩き込んできた。

彼は修行によってではなく、王玉の知識に触れたその瞬間に、彼らが一生をかけても届かない「悟りの境地」へと強制的に到達させられていたのである。

「苦行でも何でも、やりたければ勝手にやればよい。じゃが、それでは絶対に悟りは開けんぞ」

信心深い僧侶たちの激しい反感と罵声を背中で受け流しながら、ブルドは寺院を後にした。

それからの彼の行動は、まさに「破戒僧」そのものであった。

王都の賑やかな市街へと繰り出したブルドは、教義で禁じられているはずの強い酒を煽り、艶やかな女の肩を抱き、騒がしい賭場に身を置いてサイコロの目に一喜一憂した。

「うむ……やはり、虚しいものよのう」

昼下がり、賑やかな街道の茶屋の軒先。

ブルドは縁側にゴロンと無造作に寝転がり、手にした団子の串をぶっきらぼうに咥えながら、青い空を見上げて呟いた。

生きるとは、どこまでも虚しい。

どれほど権力を握ろうが、どれほど金を積もうが、死ぬ時は誰もが等しく肉体を失い、ただの魂魄(こんぱく)となって無へと還る。

いや、冥王玉の知識を得たブルドだからこそ知っている。

本当の「生」の価値とは、死後にいかに生きるかという一点にこそあるのだ。

現世に一切の未練がなければ、魂は清らかに昇華され、宇宙の理たる「無」へと至る。

だが、もしその魂がドロドロとした欲望や未練に満ちていれば、死後は冥王界の底を彷徨い、飢えた冥王族の餌になるか、あるいは自らも悍ましき妖魔と化して永遠の苦痛を味わうことになる。

さらに真理へ近づけば、幽世(かくりよ)を統べる超越者にもなれる。

どの道へ進むかを決めるのは、神の審判ではなく、現世での「生き方」そのものなのだ。

欲に溺れず、かと言って過剰に禁欲せず、ただ「人らしく、懸命に生きる」こと。それを受け入れることこそが、真の悟りであった。


そんな破戒の日々を送りながらも、いつしかブルドが寝起きする小さな庵の前には、毎日、信じられないほど長い行列ができるようになっていた。

ただし、その行列に並ぶ者たちに「足」はなかった。

生者の目には映らない、青白い透き通った肉体を持った無数の「霊体」――死者たちの行列である。

ブルドはそこで、冥王玉の力を借りて、黙々と魂の仕分け(審判)を行っていた。

現世に未練のない善良な魂には引導を渡して成仏させ、未練のある者にはその心の凝りを解きほぐしてやり、他者に害をなす凶悪な悪霊は、文字通り冥王力でこの世から完全に消滅させてやった。

ある日の暮れ方、一人の女性の霊がブルドの前にやってきた。

生前はさぞ美しかったであろうその顔は死人のように青白く、怨念によって激しく歪んでいる。

聞けば、病床にある自分を捨て、他の女と不倫に走った夫を呪って自ら命を絶ったのだという。

ブルドは静かに立ち上がると、その女の霊を伴い、夜の帳が下りた王都の酒場へと足を向けた。

酒場の片隅で、下卑た笑い声をあげながら、若い女の腰を引き寄せて浴びるように酒を飲んでいる一人の男がいた。

その男こそ、女を裏切った元夫であった。

「お主が、あの女房が病床で苦しんでおるというのに、賭け事や他の女にうつつを抜かしておったという大馬鹿者じゃな?」

ブルドが錫杖(しゃくじょう)をコツンと床に突き、男の前に立った。

「あぁん? 誰だてめえは! 縁起でもねえ坊主頭が、人が気持ちよく飲んでるところに口を挟んでんじゃねえよ!」

赤ら顔の男が酒臭い息を吐きながら怒鳴る。

「ふむ。誰が言ったか気になるか? ……ほれ、お前のすぐ後ろにおるではないか」

ブルドが静かに指をさした瞬間、男の背後の空間がグニャリと歪んだ。

次の瞬間、男の首元に、あの女の霊が文字通り這い出てきたのだ。

氷のように冷たい両腕が男の太い首をがっしりと抱きしめ、女の歪んだ顔が男の耳元で「見ぃつけた……」と 呪わしく囁く。

「ひ、ひぎぃっ……あ、あ、あああ……っ!」

男は声にならない悲鳴をあげ、椅子から転げ落ちた。

目の前の空間には、死んだはずの妻の怨念が、凄まじい瘴気を放ってへばりついている。

「そうかそうか。それほど酷い目に遭わされてもなお、お主と共にあの世へ行きたいと、これほど深い愛執で抱きついておるのか」

ブルドは感心したように、どこか他人の事のように頷いた。

「だ、誰か助けてくれ……! 悪かった、俺が悪かったんだ!」

男は涙と鼻水で顔を汚し、床を這いずりながら必死に懇願した。

「うむ。お主が少しでも女房の声に耳を傾け、悔い改める心を持っておったなら、助けてやらんでもなかったのじゃがのう。……手遅れじゃ」

男がどれほど悲鳴をあげようとも、女の霊は冷酷に男の首を締め上げ続けた。

やがて、男の顔がどす黒く鬱血し、その瞳から光が消える。

ガクリと肉体が崩れ落ちた瞬間、その胸元から、男の形をした半透明の魂が引きずり出された。

女の霊はその魂を掴むと、そのまま「あちらの世界」の深淵へと連れ去ってしまった。

現世の肉体を離れた男の魂は、冥王界の闇に飲まれ、二度と戻ることはない。

――だが、怨念の連鎖はそれだけでは終わらなかった。

夫の魂を道連れにしたはずの女の霊は、未だ成仏しきれず、今度は男の傍らで腰を抜かしていた浮気相手の女へと、その血走った憎悪の眼を向けたのだ。

女の爪が、生きている人間の喉元へ向かって引き裂かんと伸びる。

「……そこまでにしなされ。それ以上はいかんよ」

ブルドの鋭い眼光が女の霊を射抜いた。

彼は懐から漆黒の「冥王玉」を取り出すと、静かに目を閉じ、低く響く念仏を唱え始めた。

王玉から放たれるのは、魂を縛る鎖ではなく、すべての執着を優しく包み込んで消し去る、静寂なる夜の光。

「南無……」

光に包まれた女の霊は、一瞬だけハッとしたように我に返り、やがてその顔から怨念の歪みが消え、穏やかな表情を取り戻していった。

彼女の身体は光の粒子となって霧散し、今度こそ静かに成仏していった。


「うむうむ……。どれほど愚かであろうとも、未練あってこその『人』というものじゃな」

ブルドは静かに手を合わせ、騒然とする酒場を後にした。

「じゃが、それにしてもキリがないのう。生きる者がおる限り、死ぬ者の怨みもまた、尽きることがない」

ブルドは肩に担いだ錫杖をシャン、シャンと鳴らしながら、月明かりに照らされた寂しい街道をトボトボと歩いて行った。

彼の後ろには、酒場で救いを求めて集まってきた新たな霊たちが、ゾロゾロと一列になってついていく。

だが、夜の街を歩く生者たちには、ブルドの姿がただの「少し風変わりな若き旅僧」にしか見えず、その背後に続く死者たちの長い影には、誰一人として気づく者はなかった。

生と死の境界線を歩く半冥王族の仕分け人は、今夜もまた、人間の業をその背中に背負いながら、幽世の理を執行し続けるのだった。

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