第三部第六話:融和の砂浜、清濁を呑む大地
第三部第六話:融和の砂浜、清濁を呑む大地
オルムの岩礁が轟音とともに崩壊し、泡立つ白波の中に消えていく様を、レイスは岬の最果てからじっと見つめていた。
大地の底を揺るがすような地響きが足元に伝わってきた時、さすがのレイスも内心では生きた心地がしなかったが、漆黒の外套を風に翻しながら、精霊使いの底力を信じてその場を動かずに待ち続けていた。
やがて、引いていく白波の向こうから、一人の男が悠然と姿を現した。
ずぶ濡れになりながらも、その足取りはどこか誇らしげで、切れ長の瞳には先ほどまでの激戦の余韻が残っている。
ハミッシュだった。
「――ありがとうございます、グランバード王。あなたから預かった『仕掛け』のおかげで、無事に大仕事を成し遂げられました」
ハミッシュは歩み寄り、差し出されたレイスの分厚い掌を強く握り返した。
互いの無事を確かめ合うような、硬く熱い握手。
レイスの端正な野伏の顔に、ようやく安堵の苦笑いが浮かぶ。
「なんのなんの……生きて戻りゃあ上等さ。無事で何よりだ」
「……不思議ですね。私が地王玉と海王玉、二つの至宝を持ったまま、そのまま深海へと持ち逃げするとは思わなかったのですか?」
ハミッシュが意地悪そうに微笑みながら問いかける。
だが、レイスは鼻を鳴らし、腰の漆黒の剣の柄に手を置いて海を見つめた。
「そんな大層な心配しちゃいねえよ。そうなればそうなった時、俺の手でお前を追いかけるだけさ。それに……お前さんは最初から、力そのものにゃ大して興味がなさそうだったからな」
「ええ……まぁ、確かに」
ハミッシュはそう呟くと、名残惜しそうに海へと振り返った。
きらめく群青の水面から、美しい金髪を濡らしたネーメア王女が、エメラルドグリーンの瞳を潤ませてこちらをじっと見つめている。
その表情には、陸に生きる風の精霊使いとの別れを惜しむ、切ない情愛がこれ以上ないほどに滲み出ていた。
「……私は、行かねばなりません。彼女と、海の同胞たちの元へ」
「おお、そうか。……行ってこいよ」
レイスはハミッシュの肩をポンと力強く叩き、背中を押した。
ハミッシュは一瞬だけ足を止め、レイスを振り返る。
「グランバード王。あなたが、あるいは地王界が真に困ったときは、海の果てからでもいつでも駆けつけますよ」
「ああ、そいつは心強い。頼りにしてるぜ、精霊使い」
ハミッシュは優雅に一礼すると、迷いのない足取りで波打ち際へと走り、そのまま群青の海へと飛び込んだ。
水飛沫の向こうで、ネーメア王女がハミッシュの細い身体を優しく抱きしめる。
二人の姿は、大きな渦を描きながら、静かに、深く、水の中に消えていった。
海王玉は、こうして正統なる海王族の元へと渡った。
これが世界に真の平穏をもたらすのか、あるいは新たなる災いの火種となるのかは、まだ誰にもわからない。
すべてはこれからの海王族の振る舞い次第であった。
レイスは、二人の消えた美しくも底知れぬ海をしばらくの間静かに眺めていたが、やがて鋭い眼光を取り戻すと、愛馬の手綱を翻して激しく駆け出した。
戦火の痕跡が残る、とある荒涼とした海岸。
白い砂浜の上に、一人の男が力なく座り込んでいた。
「よう。そんなところで、一体何をしてるんだ?」
背後からかけられた不敵な声に、男は怒りに任せてバッと振り返った。
そこにいたのは、激流に流されながらも一命を取り留め、陸へと這い上がってきたモレイ族の指揮官、ボッズであった。
ぬめり気のある青黒い皮膚は砂に汚れ、ウツボの頭部にある鋭い牙の隙間からは、苦痛の混じった荒い息が漏れている。
ボッズは目の前に立つレイスの顔を、ぎらついた狡猾な眼で激しく睨みつけた。
だが、今の自分に戦う力が残されていないことを悟ると、自嘲気味に鼻を鳴らし、再び海の方へと背中を向けた。
「……貴様か。フン、斬るなら今すぐ斬るがいい。要塞を失い、マーマン族に追われた俺たちは、もはや海に帰ることもできん。かと言って、この陸に俺たちの住む場所など、どこにもないのだからな」
ボッズはどかっと砂浜に座り込み、自らの運命を呪うように拳を握りしめた。
だが、レイスから返ってきたのは、予想もしない言葉だった。
「なら、ここに住めばいい。オルムの岩礁からこの沿岸一帯の地域を、お前たちの新たな領土として認めてやる。幸い、このあたりは荒地で人間も住んじゃいねえ。お前たちの『国』を、ここに作るがいいさ」
「……何だと? 貴様、何が狙いだ……!」
ボッズは弾かれたように立ち上がり、ウツボの顎を震わせてレイスを強く警戒した。人間の王が、自分たちのような狂暴な異形に無償で土地を与えるなど、到底信じられなかったのだ。
「別に何も望んじゃいねえよ。……ただ、これからは人間と仲良くしてくれ。漁でもして、人間に魚を売って生活しろ。もし漁民が時化で困ってたら、海に慣れたお前らの力で助けてやってくれ」
「まさか、馬鹿なことを言うな! 人間が、俺たちのような化け物を受け入れるはずがない!」
ボッズが吐き捨てるように叫ぶ。
その言葉は、虐げられてきた異形ゆえの悲痛な本音でもあった。
「ああ、最初は難しいだろうさ。だが、時代は変わろうとしてるんだ。……お前たちも、変わるんだよ」
レイスは静かに微笑むと、懐から燦然と輝く「地王玉」を取り出し、ボッズの胸元へと優しくかざした。
黄金色の光がボッズの青黒い身体を包み込む。
その瞬間、ボッズの肉体の奥底から、これまで感じたことのない温かくも強靭な生命力――「地王力」が、微かに、しかし確かに湧き上がってくるのを彼は感じていた。神や魔王の奴隷ではない、この大地に生きる権利を肯定する光。
「……フン! 勘違いするな、礼などは絶対に言わんぞ!」
ボッズは地王力のぬくもりに戸惑いながらも、プライドを守るようにそっぽを向いた。
「ああ、礼には及ばんさ。お前らの新しい生き様で見せてくれ」
レイスがそう言うと、波打ち際から、生き残った数十頭のモレイ族の兵士たちが、恐る恐る、次々と砂浜へと這い上がってきた。
彼らはレイスの圧倒的な地王王としての器と、提示された救いに心底から打たれたように、次々と砂浜に膝を突き、深々と平伏していった。
「では、ここいらの海岸の治安は、お前たちに任せたぞ。また会おう、ボッズ」
レイスは翻ると、愛馬の腹を蹴って自軍の陣営へと戻っていった。
「――フン! どこまでも甘いやつめ!」
自陣に戻ったレイスを出迎えたのは、つい先日までモレイ族と血を洗う死闘を繰り広げていたゴブリンの将、ゴビンゴであった。
ゴビンゴは巨大な戦斧を地面に突き立て、不満げに褐色の鼻を鳴らした。
「まあそう言うな、ゴビンゴ。争いの種が一つなくなれば、それでいいじゃないか。……というわけで、これからの海岸の警備はお前たちゴブリン軍に任せたぞ」
レイスは笑いながら、ゴビンゴの頑丈な肩を親しげにトンと叩いた。
「フン! あいつらウツボどもが、地王力の恩恵を忘れて少しでも暴れるような真似をしてみろ。その時は、この俺がその頭をすべて叩き割って、根こそぎ刈り取ってやるさ!」
ゴビンゴは不敵に笑い、ウツボたちのいる海岸線を鋭い眼光で睨み据えた。
口調こそ荒っぽいが、その瞳にはかつての獣のような凶暴さはなく、レイスの目指す新世界の秩序をしっかりと理解している「将」の理性が宿っていた。
レイスはそんなゴビンゴの横顔を見つめながら、静かに息を吐いた。
かつては世界から忌み嫌われ、駆逐されるだけだったゴブリンやモレイ族といった亜人たち。
しかし、彼らもまた、人間と同じようにこの大地の底から力を紡ぎ出す「地王族」なのだ。
血を流し合う歴史は終わらないかもしれない。
それでも、この同じ地王界の空の下、同じ大地の恩恵を受ける住人として、彼らは共に手を取り、共存していかねばならない。
レイスは自らの胸の奥でドクドクと鼓動する地王玉のぬくもりを感じながら、新たなる時代の胎動を、その身に深く刻み込むのだった。




