第三部第五話:オルムの岩礁、崩壊の潮流
第三部第五話:オルムの岩礁、崩壊の潮流
海面から突き出たその異形は、まるで深海から這い出てきた禍々しい巨城のようであった。
「オルムの岩礁」――オルム地方の最東端、岬から少し離れた荒海の中に孤立するその巨岩は、無数の空洞が迷宮のように絡み合う自然の要塞である。
長年、凶暴なモレイ族の棲家として周辺の海を恐怖に陥れてきた絶対の防衛陣地。
そこへ、約束の刻限通りに現れたのは、精霊使いハミッシュであった。
彼は大気中の風の精霊を操り、まるで鳥のように軽やかに、波飛沫の吹き荒れる岩礁の足場へと降り立った。
「キシャァァァッ!」
ハミッシュの姿を認めるや否や、岩陰から三叉槍を構えたモレイ族の兵士たちが、粘液を撒き散らしながら一斉に押し寄せた。細身の、しかも武器も持たぬ人間の若者など、一瞬で八つ裂きにできると確信しての暴挙。
だが、ハミッシュが懐の「海王玉」にそっと指先を触れさせた瞬間、空間そのものが固着した。
キィィィィンッ!
激しい金属音のような摩擦音が響き、モレイ族の兵士たちは、ハミッシュの手前わずか数歩の空間で、目に見えない強固な障壁に激突して撥ね返された。
ハミッシュは眉一つ動かさず、ただ静かに、冷徹な切れ長の瞳で彼らを見つめている。
海王玉が放つ絶対的な水の拒絶。
ウツボの頭部を持つ怪物たちは、ハミッシュに一定の距離以上近づくことすら叶わず、ただ威嚇の牙を剥くことしかできなかった。
観念したモレイ族の案内により、ハミッシュは岩礁の内部、潮の香りが濃く立ち込める広大な空洞へと足を進めた。
そこは天井から滴る海水が、大理石のような岩肌を濡らす不気味な謁見の間であった。
最奥に位置する自然の岩の玉座の前。
そこには、邪悪な知性を琥珀色の瞳に宿した指揮官ボッズと、鎖に繋がれながらも凛とした美しさを失わない、マーマン族のネーメア王女の姿があった。
「ケケケ……よくぞ一人で来たな、精霊使い! さあ、約束通りその『海王玉』をこちらに寄越せ!」
ボッズはウツボの口を裂けんばかりに大きく開き、強欲に塗れた太い手を差し出してきた。
「――ネーメア王女の安全が先です。奴隷のように鎖に繋がれた彼女を、今すぐ解放しなさい」
ハミッシュはそう告げると、手元にあった壁際の平らな岩の突起へと、おもむろに蒼く輝く海王玉を置いた。
あえて自らの手から秘宝を離してみせたのだ。
「良かろう! 融通の利く男は嫌いではないぞ!」
ボッズは下卑た笑声をあげると、ネーメアの細い腕を掴んでいた鎖を乱暴に引きちぎり、彼女の身体をハミッシュの方へと力任せに突き飛ばした。
「王女……!」
ハミッシュはすぐさま駆け寄り、よろめいたネーメアのしなやかな身体を、その細い両腕でしっかりと受け止め、自らの胸元へと抱き寄せた。
「お怪我はありませんか、ネーメア王女」
「ハミッシュ殿……私は大丈夫です。ですが、あの玉を奴らに……っ」
ネーメアのエメラルドグリーンの瞳が、焦燥に揺れる。
濡れた金髪がハミッシュの頬を掠め、潮の香りと彼女自身の気高き香気がハミッシュの鼻腔を突いた。
ボッズがネーメアを突き飛ばしたのは、純粋な取引のためではなかった。
彼女を投げ出したまさにその一瞬、ボッズの巨体は弾丸のような猛ダッシュを仕掛けていた。
ハミッシュが人魚の姫に気を取られている隙に、岩の突起に置かれた海王玉を強奪し、そのまま二人を血祭りにあげようという、狡猾な算段であった。
ボッズの鋭利な爪が、蒼く輝く王玉の表面に届く、まさにその刹那。
――オルムの岩礁全体が、悲鳴を上げるような「異常事態」に見舞われた。
ゴゴゴゴゴゴゴゴォォォッ!!!
突如として、内耳を破壊するような重低音とともに、岩礁を根底から揺るがす凄まじい大地震が巻き起こったのだ。
自然の要塞であるはずの巨岩が、まるで生き物のように激しくのたうち回る。
「ぬ、おおぉっ!?」
完璧なタイミングで跳躍したはずのボッズは、足元の大地が激しく爆砕したことで完全にバランスを崩し、無様に大理石の床へと叩きつけられた。
その爪は、わずか数寸のところで海王玉に触れることができなかった。
「な、何が起きた……!? なぜこれほどの大地動が……っ」
狼狽するボッズを見下ろしながら、ハミッシュは衣服の懐から、もう一つの隠された秘宝を取り出していた。――黄金色の光を放ち、狂ったように脈動する「地王玉」を。
「……忘れないでいただきたい。私の血の半分には、現世の大地を支配する『地王族』の血が流れているということをね」
ハミッシュの静かな声が、洞窟内に響き渡る。
彼はレイスから、この作戦のために「ある仕掛け」を託されていたのだ。
ハミッシュは地王玉のエネルギーをあえて制御せず、体内の人間の血を暴走させるようにして、オルムの岩礁の「地脈」へと一気に叩き込んだ。
大地の怒りが、海の中の要塞を直撃する。
メリメリ、と不吉な亀裂が天井を走り、次の瞬間、何十トンもの巨岩が雨のように降り注ぐ大落盤が発生した。
「ギャァァァッ!」
「助け……っ!」
退路を塞がれ、逃げ惑うモレイ族の兵士たちが、次々と巨大な岩石の犠牲となり、圧殺されていく。
衝撃で床が傾き、突起から転がり落ちた蒼い海王玉は、まるで意志を持っているかのように、ハミッシュの足元へと吸い寄せられるように転がってきた。
ハミッシュはそれを素早く拾い上げると、腕の中のネーメアを見つめた。
「王女、お手を。あなたに流れる、純血の海王の力を、この私に貸してください!」
「はい……! 我が海の同胞たちのために!」
ネーメアは迷うことなく、ハミッシュの持つ海王玉の上へと、自らの白く繊細な手を重ね合わせた。
地王族の血を持つハミッシュの魔力と、海王族の正統なる血統であるネーメアの生命力。二つの因果が交わった瞬間、海王玉はかつてないほどの激しい群青の閃光を放った。
光が弾けた次の瞬間、オルムの岩礁は「水没」した。
いや、それは自然の沈没ではない。ハミッシュとネーメアが解放した海王力
に応呼するように、周囲の海面が一気に数十メートルも「隆起」し、津波となって岩礁の内部へと収縮、濁流となって襲いかかったのだ。
轟々と音を立てて激流が空洞を埋め尽くしていく。
「ボ、ボゴッ……がはっ!」
陸上での戦闘を想定して洞窟に集結していたモレイ族たちは、突然の凄まじい濁流と渦潮に巻き込まれ、上下の感覚すら失ったまま、成す術もなく外の荒海へと押し流されていった。
正式に外の海原には、すでに勝機を確信したマーマン族の精鋭軍が、三叉槍を構えて完全に網を張っていた。
「逆賊モレイ族を、一頭たりとも逃すな! 姫様をお救いするのだ!」
渦潮から命からがら這い出てきたウツボの魚人たちは、水を得たマーマン族の戦士たちによって、次々と正確に心臓を貫かれ、狩られていった。
ボッズもまた、激流の中でマーマン族の将軍たちの集中攻撃を受け、その野望とともに深海の底へと沈んでいった。
激しい水の乱舞が収まり、岩礁の頂点で波飛沫を浴びながら、ハミッシュとネーメアは静かに佇んでいた。
「……ありがとうございます、ハミッシュ殿。あなたの機転と、その勇気のおかげで、我が身も、そして海の調和も守られました」
ネーメア王女は、ハミッシュの胸元にしがみついたまま、潤んだ瞳で彼を見上げ、心からの感謝を述べた。
その美しい顔には、死線を共に潜り抜けた者だけが抱く、深い信頼と仄かな情愛が赤くにじんでいる。
ハミッシュは、手の中にある冷たい海王玉の感触を確かめ、もう片方の手でネーメアの柔らかな手を優しく、しかし決して離さぬように強く握りしめた。
彼はいつもの冷徹な仮面を外し、まるで一人の騎士のように、その端正な顔に誠実な微笑みを浮かべた。
「恐れ入ります、ネーメア王女。あなたのような気高く、美しい女性をお救いするためであるならば……このハミッシュ、我が命など、いささかも惜しくはございません。この海王玉、私の力、すべてをあなたに捧げましょう」
ハミッシュはネーメアの手の甲にそっと唇を寄せ、まるで神聖な契約を交わすかのように忠誠を誓った。
ネーメアは頬を林檎のように染め、しかし溢れんばかりの幸福な笑顔を湛えて、若き精霊使いの瞳をじっと見つめ返していた。
群青の海が、二人の門出を祝うように、穏やかな波音へと変わっていくのだった。




