第三部第四話:海岸の解放者、泥濘の統率
第三部第四話:海岸の解放者、泥濘の統率
レイスたちが海岸線でボッズと対峙していた頃、その周辺の湾岸線に点在する漁村や小さな交易都市は、狂暴なモレイ族の敗残兵や別動隊によって無残に蹂躙されていた。
潮の香りに混じる焦熱の煙、引き裂かれた網、そして逃げ惑う住人たち。
そこへ、砂塵を巻き上げて突入する、
予想だにしない「解放軍」が現れた。――ゴビンゴ率いる、ゴブリン族の軍団である。
「一頭たりとも逃すな! 異形の魚人どもを地の底へ叩き落とせ!」
褐色の肌を血と泥で汚し、前線で巨大な戦斧をがむしゃらに振り回すゴビンゴの姿は、まさに戦鬼そのものであった。
モレイ族は単体の肉体強度や牙の鋭さにおいてはゴブリン族を遥かに凌駕していた。しかし、ここは海の中ではない。
干上がった陸上という決定的な「地の利の欠如」、そして何より、ゴビンゴが統率する圧倒的な「数の不利」がモレイ族の退路を断った。
ゴブリンたちは泥臭く地を這い、集団でウツボの頭部を叩き潰し、瞬く間に湾岸の村々を奪還していった。
本来、野生のゴブリンという種族であれば、敵を追い払った直後、今度は自らが「新たな略奪者」として街を襲い、財貨を奪い、女子供を脅かすのが常であった。
しかし、ゴビンゴの軍勢は違った。彼らは血に飢えた武器をピタリと収め、整然と隊列を組んで佇んでいた。
この異様なまでの統率力は、かつてミレトーで見た覇王アレクサンダーの軍隊の威光を、ゴビンゴが自らの軍に叩き込んだ成果であった。
しかし、最初から彼らが従順だったわけではない。
これまでの進軍の過程で、古い習性に抗えず人間の財産を略奪しようとした同胞を、ゴビンゴは自らの手で容赦なく、見せしめとして即座に処刑した。
当然、それに反感を持った獰猛なゴブリンたちが夜陰に乗じて反逆を企てたことも一度や二度ではない。
その都度、ゴビンゴは体内から湧き出る「地王力」を爆発させ、反逆者たちを冷酷に、そして完璧に粛清し尽くした。
「俺たちはただの野良ゴブリンじゃねえ。地王族の戦士だ!」
恐怖と実力、そして大地の力によって刻まれた鉄の秩序。
その苛烈な教育を経て、今や多くのゴブリンがゴビンゴの、そしてその上に立つレイスの提示した「新時代のやり方」に本能で従うようになっていた。
これこそが、聖と邪のどちらにも傾かない、新世界「地王界」ならではの奇跡的な光景であった。
「ひっ……、ご、ゴブリンたちが……」
最初は「支配者がウツボの化け物から、褐色の悪魔に変わっただけだ」と絶望し、家の隅でガタガタと震えていた人間の住人たちも、彼らが一切の手出しをせず、むしろ村の瓦礫を片付け始めるのを見て、徐々にその認識を改め始めた。
一人の老いた村長が、震える足でゴビンゴの前に進み出で、恐る恐る深く頭を下げて感謝の言葉を述べた。
「あ、ありがとうございます、ゴブリンの長殿……。我ら一同、この御恩は生涯忘れません……」
「フン、感謝などいらん。そんなもの、俺の性分には合わねえよ。どうしても礼を言いたいってなら、俺の頭目であるレイスにくれてやれ!」
ゴビンゴは大きな戦斧を肩に担ぎ直し、鼻を鳴らしてぶっきらぼうに返事を返した。
「だがな、もしそこの倉庫に余ってる酒と肉があるってなら、ありがたくいただく。戦った野郎どもの腹を満たしてやらなきゃならねえからな!」
不器用ながらも、そこには確かな理性が宿っていた。
ゴビンゴは人間から供出された食糧を受け取ると、村の中に留まることはせず、あえて村の外れにある荒涼とした丘に野営地を設置するよう部下たちに命じた。
いかに統率が取れているとはいえ、人間が自分たちゴブリンを本能的に恐れていることを、ゴビンゴは誰よりも冷徹に理解していた。
その「配慮」こそが、かつての怪物ゴビンゴが、真の将帥へと脱皮した証拠でもあった。
焚き火の爆ぜる音を聞きながら、ゴビンゴは群青に染まる南の海を睨み据えた。
彼の真の目的は、この海岸線の平定ではない。
その先にある、かつて同胞を狂わせ、世界を裏から操ろうとした「テルセイ魔導帝国」、そしてあの憎むべきネヴェルの打倒であった。
そのためには、人間の大国であるミレトー王国の軍事力が、どうしても必要不可欠となる。
「黒い死神」であり、今やミレトーの正統なる王子となったレイスと、かつて泥に塗れて共闘した親交があることは、ゴビンゴにとって最大の好都合であった。
(レイス……お前はいずれ、あのネヴェルと真っ向から対峙することになる。
その時は、俺の斧をお前の盾にしてやるぜ)
翌朝、夜明けとともにゴビンゴ率いるゴブリン軍団は、さらなるモレイ族の占領地へと向けて進軍を開始した。
しかし、次に襲撃する予定だった海岸沿いの大規模な砦に突入した時、そこには奇妙な静寂だけが広がっていた。
見張り台にも、兵舎にも、モレイ族の姿は一切なかった。
残されていたのは、急いで撤収したような壊れた武具と、干からびた魚の死骸だけ。
モレイ族は、背後の海をマーマン族に、地上をレイスの本隊に包囲され、いよいよ決戦に向けて全戦力を「オルムの岩礁」へと集結させていたのだ。
そのため、周辺の占領地は完全に「もぬけの殻」となっていた。
「フン、小賢しいウツボ野郎どもめ。俺たちの勢いに恐れをなして逃げ出したか!」
ゴビンゴは無人の砦の壇上に立ち、戦斧を掲げて吼えた。
敵のいない海岸沿いを、彼の軍勢は悠々と、しかし確実な足取りで進軍していく。行く先々の村々が、戦わずして次々と解放されていった。
この時、ひたすら前だけを見て進み続けるゴビンゴ自身は、まだ何も知らなかった。
この数日後、彼がこの南の海岸線を完全に恐怖と支配から救い出し、歴史の書物に『海岸の解放者――ロード・オブ・ゴブリン・ゴビンゴ』という、亜人として破格の、そして最大級の畏敬を込めた二つ名で刻まれることになる未来を、彼はまだ、全く知る由もなかったのである。




