第三部第三話:血戦の砂浜、牙剥く捕虜
第三部第三話:血戦の砂浜、牙剥く捕虜
引潮の引き際に合わせ、白泡の立つ波打ち際から「それ」は一斉に姿を現した。
一体、二体……いや、数十、数百。
青黒い粘液に濡れた肉体を蠢かせ、ウツボの頭部を持つモレイ族の戦士たちが、手にした三叉槍を掲げて次々と浅瀬を駆け上がってくる。
「放てェッ!」
断崖の上から、レイス軍の指揮官の怒号が響く。
と同時に、陽光を遮るほどの無数の矢が雨となってモレイ族の頭上に降り注いだ。
魚人の皮膚を貫く鈍い音が砂浜に響き渡る。だが、モレイ族は意外にも陸上での足が驚くほど速かった。
ぬめりのある強靭な下半身で砂を蹴り、蛇のように身体をくねらせながら、幾千もの矢の嵐を掻い潜ってくる。
たとえ矢の包囲を抜けて本陣に辿り着いたとしても、待ち受けるのは、大曲刀を構えたラクダ族の屈強な戦士たちや、人間の重装歩兵たちであった。
彼らの容赦のない一撃により、先行したモレイ族の首は次々と撥ね飛ばされ、砂浜はたちまち異臭を放つ青黒い血で染まっていく。
しかし、戦況が優勢であるにもかかわらず、地王族の兵士たちの間にじわじわと「恐怖」が伝染し始めていた。
モレイ族には、およそ通常の生物が持つ「死への恐怖」というものが欠落していた。仲間がどれほど肉を裂かれ、首を落とされようとも、濁った狡猾な眼をぎらつかせ、血に飢えた牙を剥き出しにして突撃を止めない。
やがて、用意していた矢が底を突き始めると、接近戦を挑んでくるモレイ族の数が爆発的に増加した。
乱戦、すなわち個の武力がぶつかり合う局面になると、モレイ族単体の強靭さが一気に際立ち始める。
彼らの三叉槍は人間の鎧を容易く貫き、その凄まじい顎は兵士の肉をごっそりと噛み千切った。
だが、この苛烈な突撃こそが、レイスの描いた「嵌め手」であった。
モレイ族の狙いがハミッシュの持つ「海王玉」一点であることは、最初から見抜いていた。
それゆえにレイスは、あえてハミッシュを本陣の最も目立つ位置に配置し、彼を「美味な餌」とする広大な包囲陣形を敷いていたのだ。
いまや海洋はマーマン族の精鋭軍に完全に包囲されている。
退路を断たれたモレイ族がこの絶望的な戦況をひっくり返すには、ハミッシュを殺して海王玉を奪い、その絶対的な水の魔力でマーマン族を消し飛ばすしか道はなかった。
「ハミッシュ、そこを動くなよ!」
レイスが吼える。
彼の胸元の地王玉が黄金色の光を放ち、周囲の砂浜を鋼のように硬化させ、モレイ族の足場を奪う。
同時にハミッシュが木の杖を掲げると、激しい潮風が刃となって魚人たちの肉を正確に削ぎ落としていった。
二人の王玉の保持者による神速の連動。陸に上がったモレイ族を包囲し、なぶり殺しにするこの戦略により、地王族の「勝利」は誰の目にも容易に思えた。
獰猛極まりない怪物相手の肉弾戦は、一歩間違えれば命を落とす命懸けの苦行であったが、レイスの背中を見る兵士たちは勇猛果敢に武器を振るい続けた。
しかし、モレイ族もただ無様に壊滅を待つだけの木偶ではなかった。
戦場を揺るがす地響きのような鬨の声が止み、にわかに波打ち際が騒がしくなる。
モレイ族の群れが左右に割れ、海水に腰まで浸かった一頭の巨大な魚人が進み出てきた。
モレイ族の地上指揮官――ボッズである。
ボッズの身体は、他の兵卒よりも一回り大きく、その青黒い皮膚には無数の戦いによる傷跡が白く刻まれていた。
ウツボの頭部には邪悪な知性の光が宿り、その長く裂けた口元から、不快な金属音のような声で「停戦」を申し入れてきた。
「地王族の人間ども、手を止めろ! ――おい、これを見てもまだ戦いを続けるか!」
ボッズが太い腕で力任せに海中から引き揚げたのは、信じられないほどに美しい、一人の人魚の少女であった。
彼女こそ、海洋でモレイ族の本隊と戦っていたはずの、マーマン族の気高き皇女――ネーメア王女であった。
濡れた金色の髪が陽光にきらめき、エメラルドグリーンの美しい鱗を持つ下半身が、浅瀬の荒波に揺れている。
しかし、その白い首筋には、ボッズの鋭利な爪が深く食い込んでおり、今すぐにでもその命を奪わんばかりであった。
「マーマン族のネーメア王女と引き換えに、その海王玉をこちらに寄越せ!」
ボッズはネーメアを背後から羽交い締めにし、下卑た笑みを浮かべて脅迫を突きつけてきた。
その異常事態に、レイスとハミッシュは砂浜を歩み、海岸線の波際まで近づいてボッズを冷酷に睨みつけた。
「ふん、そのマーメイドを殺してみろ。お前らウツボ野郎は、一頭残らずここで肉片にして海の藻屑にしてやるがな。……それが、俺たちとの『交渉』になり得るとでも思ってんのか?」
レイスは漆黒の剣の先をボッズの眉間に向け、地を這うような声で恫喝した。
身を包む地王力の殺気が、周囲の海水をチリチリと蒸発させる。
「くっ……! ハミッシュ殿、地王様、私に構わず、決して海王玉を渡してはなりません……! 奴らの手にあの玉が渡れば、この美しい海洋はすべて……殺戮の血で赤く染まるでしょう……!」
ネーメアは首を絞められ、苦痛に顔を歪めながらも、凛とした、鈴を転がすような声を振り絞って叫んだ。
王族としての、決して曲げられぬ誇りがその瞳に宿っている。
「黙れ、肉塊が!」
ボッズが爪に力を込め、ネーメアの首筋から一筋の赤い血が流れる。
「野郎……!」
レイスの足元から、爆発的な砂嵐が巻き起こる。
一瞬で間合いを詰め、ボッズの首を撥ね飛ばそうと突進しかけた、その時だった。
「待ってください、レイスさん!」
ハミッシュが青ざめた顔でレイスの前に立ち塞がり、その突進を遮った。
「美しい女性が目の前で傷つけられ、苦しむのを、私は黙って見ていることはできません。……交渉に応じましょう」
「チッ、おいハミッシュ、正気かよ!」
レイスが忌々しげに剣を引き戻す。
ハミッシュの精霊使いとしての悪癖――生命に対する過剰な優しさが、この決定的な瞬間に仇となった形だった。
それを見たボッズは、勝ち誇ったようにウツボの口を大きく裂いて笑った。
「話が早くて助かるな、精霊使い! ――ならば、明日まで待ってやる。明日、ここから南にある『オルムの岩礁』まで、その海王玉を持って来い。……いいか、一人で来い。小細工をすれば、この女の首は二度と胴体には戻らんと思え!」
ボッズはネーメアを拘束したまま、激しい飛沫を上げて海中へと深く潜っていった。
陸上のモレイ族の残党たちも、それに合わせるように次々と海へと退却していく。
後方の海洋を固めていたマーマン族の精鋭軍も、自国の姫君の命を人質に取られては、やむを得ず包囲網を解いて道を開け、モレイ族の敗残兵たちを逃してやるしかなかった。
静まり返った海岸線に、波の音だけが虚しく響く。
レイスは血に濡れた剣を乱暴に鞘へと収め、オルムの岩礁が位置する南の海原を、忌々しげに、そして鋭い眼光で見つめ続けるのだった。




