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第三部第十九話:背徳の母子、境界の礎

第三部第十九話:背徳の母子、境界の礎


崩落した漆黒の塔の最深部――そこは、天上の光も大地のぬくもりも一切届かぬ、湿った絶望の底であった。

重なり合う巨大な岩塊の隙間で、ねっとりとした熱い吐息が、まるで生き物のようによどんだ空気を揺らしている。

その音は、呼吸の乱れから次第に高まり、肉体を苛む官能の喘ぎ声へと変質していった。

「――っ、は……あ、あ……ッ」

暗闇の中で、魔王ネヴェルは全身を貫く狂おしい肉体の疼きとともに、無理やり意識を浮上させられた。

死んだはずだった。

魂の片半身とも言える聖女リディアを大天使セレシオンに惨殺され、己の憎悪のすべてを魔王玉に注ぎ込んで自爆の呪文を放ったのだ。

あの時、確かに塔の崩落とともに肉体は引き裂かれ、意識は深い闇の底へ沈んだはずだった。

しかし、彼の命は、悍ましい執念によってこの現世へと繋ぎ止められていた。

視界がわずかに闇に慣れるにつれ、自らの上に跨り、妖しく、そして滑らかに腰をくねらせている存在の不気味な輪郭が浮かび上がる。

漆黒の長い髪をだらしなく垂らし、陶酔しきった瞳でネヴェルを見下ろしているその女――ネヴェルを死の淵から強引に引きずり戻し、引き裂かれた四肢の傷口をどす黒い魔力で縫い合わせたのは、他でもない、彼の生みの親である魔王母メルフェレーンであった。

ミュロンの肉体から離脱した彼女の魂は、崩壊する塔の底で、実の息子であるネヴェルの極上の肉体を「苗床」として貪っていたのだ。

背徳の交尾の真っ最中、ネヴェルの手足は、彼女の影から伸びる強大な魔王力の触手に幾重にも縛り付けられ、指一本動かすことも叶わない。

肉体が強制的に快楽を貪らされる屈辱の中、ネヴェルは声を枯らして絶叫した。

「やめろ――! やめてくれ、母上……ッ! 離せ、私を殺せ……ッ!!」

しかし、メルフェレーンは悶える息子を見下ろしながら、三日月の形に目を細め、底知れぬ慈愛と狂気を孕んだ笑みを浮かべるだけだった。

彼女は白磁のように滑らかな手のひらの上で、瓦礫から回収した「魔王玉」を転がした。

かつてネヴェルの憎悪を吸って肥大化したその深い紫の宝玉を、まるで愛しい赤子を愛撫するように、濡れた舌で妖しく、ねっとりと舐めてみせる。

「ふふ、愛しい我が息子……。お前が世界をどう弄ぼうと、神を呪おうと、結局は私の手の平の上なのよ。さあ、もっと私の中で鳴きなさい……」

ネヴェルは、光の一筋すら見えぬ絶望の淵へと叩き落とされた。

真に愛し、その最期を看取ることも叶わなかったリディアの気高い面影は無残に引き裂かれ、自らの肉体と最悪の至宝は、永遠に逃れられぬ母の呪縛へと繋がれてしまったのだ。

かくして、地王界の大地からは他の王玉が取り除かれ、それぞれの世界(領域)が確立されることとなった。


魔王族の支配が突如として霧散し、静まり返ったテルセイ魔導帝国の国境線を、真っ先に整然たる隊列で包囲したのはミレトー王国の精鋭軍であった。


その軍の先頭に立ち、白銀の甲冑に身を包んで凛とした佇まいを見せるのは、総指揮官の座に就いた王女ミレースである。

彼女は、戦後処理のために前線へとやってきた兄、大地王レイスの姿を認めると、引き締まった顔をわずかに和らげ、しかし誇らしげに微笑んだ。

「お忘れなく、お兄様。私もあなたと同じく、この身に気高き『地王力』を宿し、扱えますのよ! 留守を守るだけの王女だと思われては困りますわ」

彼女はただの可憐な深窓の令嬢ではなかった。

戦況を冷徹に見極め、数万の軍隊を完璧にコントロールする、並外れた軍事的天才の片鱗をこのテルセイの地で見事に開花させていた。

ネヴェルの芝居とリディアの極光によって魔王力を使えなくなり、同時に拠り所としていた魔王族の加護を失ったテルセイの人民は、大きな混乱を起こすこともなく、ミレースが率いるミレトーの秩序ある統治を容易く受け入れた。

かつて旅の途中で長くテルセイの街に暮らし、民草の気質を知っていたレイス、正気を取り戻したミュロン、戦士バルトの三人もまた、戦後の混乱に怯える民衆をまとめ、暴動を防ぐために協力を惜しまなかった。

「あの異形の化物どもが、本当にいなくなったのか……?」

「ああ、もう怯える必要はない。お前たちは自由だ」

衣服の破れたミュロンが優しく声をかけ、バルトがその頑強な体で荷運びを手伝う姿は、民衆の心を大いに安らがせた。

中には、魔王族の庇護の元で甘い汁を吸い、特権を得ていた一部の特権階級の人間たちがレイスを呪い、恨みの視線を向けることもあったが、圧倒的多数の一般市民は、長年にわたる魔王族の恐怖と奴隷のような支配から解放されたことを、涙を流して喜んだ。

実際には、ネヴェルとリディアが自らの命と引き換えにするようにして魔王族を誘い出し、滅ぼしたのだが、真実を知らぬ民の目は、地王玉を掲げて塔へと突入したレイスへと向けられた。

民衆は熱狂し、彼を「解放王・大地王グランバード・レイス」と称え、その名を大陸全土に轟かせた。

また、同時に亜人たちはゴビンゴに対し、敬意を込めて「ロード・オブ・ゴブリン」の名を叫び、称えた。

だが、英雄と祭り上げられたレイスの心境は複雑だった。

彼はこれ以上の無駄な血が流れること、そして報復の殺戮が続くことを激しく拒んでいた。

テルセイの有力な指導者たちとの度重なる討議の結果、レイスはミレトーによる完全な武力支配ではなく、テルセイの生え抜きの魔導士たちに暫定政府の舵取りを任せるという寛大な決断を下した。

ただし、これまでの悪習であった「魔王族との契約」は今後全面的に禁止とし、術の源泉は魔王の闇ではなく、自らの生命力である「地王力」のみに制限することを絶対の条約として約束させた。

しかし、一見平和裏に進む戦後処理の裏で、不穏な影は消えていなかった。

テルセイの魔導界を裏から牛耳っていた最高位の七人の大魔導士たちが、終戦と同時に煙のようにどこかへ姿を眩ましてしまったのだ。

そして何より、あの最悪の根源――魔王母メルフェレーンは、傷一つ負うことなくこの世界のどこかで確実に生き延びている。

この事実が、レイスたちの心の奥底に、いつまでも晴れることのない霧のような、冷たい不安を植え付けていた。

とはいえ、地獄のような戦場だったテルセイに、ようやく安息の日々が訪れたのは紛れもない事実であったかつて禍々しい魔王力の障壁によって万年暗雲が立ち込めていたテルセイの空に、何年ぶりか分からぬほど鮮やかな、突き抜けるような青空が蘇った。

人々はその光を見上げ、安堵の息を漏らすのだった。


――だが、その優しく穏やかな光が降り注ぐ新都から、遠く、気の遠くなるほど遠く離れた、砂塵の舞う遥かなる西の荒野。

一人の男が、終わりのない熱砂の海の中を、まるで陽炎に揺れる影ぼうしのように、ただ一人で彷徨っていた。

魔王ネヴェル。

メルフェレーンの呪わしい交尾の苗床とされ、変わり果てた姿で解放された彼の手には、もはや国も、軍勢も、自らを飾る贅沢な装飾品も、何一つとして残されてはいなかった。

そのボロボロに引き裂かれた漆黒の外套を風に靡かせ、足を引きずりながら歩く彼の胸中は、完全に凍りついていた。

そこには、かつて宿していた傲慢な自尊心も、同胞への復讐心も、そして夢の中で育んだリディアへの狂おしい愛すらも、すべてが焼き尽くされた後の灰となって消えていた。

誰も愛さず、誰からも愛されず、ただただ底知れぬ虚無の闇だけを背負って歩くその枯れ果てた背中は、かつてすべてを失い、世界の境界の向こうへと消えていった彼の父、「無王ネヴェラード」の生き写しそのものであった。

ザザ……と、乾いた砂が彼の足元で音を立てる。

ネヴェルはふと立ち止まり、自らの手のひらを見つめた。

そこには、母によって奪われた、不気味に明滅する魔王玉の残滓が、黒い脈動を刻んでいる。

彼の心に、消えたはずの冷たい火が、ぽつりと灯った。

すべてを奪った天王界への、神々への、そしてこの理不尽な世界そのものへの復讐の旅が、今、人知れず再び始まろうとしていた。

その孤独な復讐者が、やがて再び世界の表舞台に現れたとき――大地王レイスの前に立ち塞がる絶対の「敵」となるのか、それとも共に天を衝く「味方」となるのかは、未だ誰にも、神にすらもわからない。

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