第三部第十八話:魔王の終焉、そして新たな嵐の予兆
第三部第十八話:魔王の終焉、そして新たな嵐の予兆
ゴビンゴの猛烈な一撃によって背を深く引き裂かれたネヴェルは、床に膝を突き、激しく血を吐き出した。
その背中からは、かつて傲慢に広がっていた蝙蝠の翼が力なく垂れ下がっている。
彼の周囲を渦巻いていた禍々しい魔王力の嵐は急激に霧散し、最上階には不気味なほどの静寂が戻っていた。
「ネヴェル……ネヴェル……!」
レイスは剣を収め、息を荒くしながら倒れ伏す若き魔王に歩み寄り、その肩を抱き起こした。
「私は……一体、何を……」
ネヴェルの切れ長の瞳からは狂気の赤みが引き、元の深い漆黒へと戻っていた。
しかし、その顔色には生気がなく、死の色が確実に忍び寄っているのが見て取れた。
「今、癒しの術をかけます! 持ちこたえて!」
リーヴィスが必死の面持ちで両手をかざし、清らかな地王力の呪文を唱えようとした。
だが、ネヴェルは残された僅かな力で彼女の手を優雅に押し留め、微かに首を振った。
「……もう、いい。愛するリディアを失い、我が復讐の狂宴も、これで終わった」
ネヴェルの掠れた声には、諦念と深い哀しみが満ちていた。
彼は遥か西の空を見つめ、大天使セレシオンという天上の絶対者には、今の己の呪いも刃も届かないことを、残酷なほど冷静に悟っていた。
「だが……私を蔑み、利用しようとした魔王族どもに、この『魔王玉』は決して渡さん。我が肉体とともに、永遠に闇の底へ葬り去ってやる……」
ネヴェルは最期の力を振り絞り、微かに指先を動かして禁忌の自爆呪文を発動させた。
その瞬間、漆黒の塔の根幹を成す魔力の楔が弾け飛び、グラグラと大地を揺るがす地鳴りとともに、巨塔が内側から崩壊を始めた。
天井から巨大な岩塊が次々と降り注ぐ。
「私のことは置いて……さあ、早く脱出せよ、大地王……」
それがネヴェルの最期の言葉だった。
彼は静かに瞼を閉じ、二度と動かなくなった。
真に愛した女の後を追うように、その魂は崩落する闇の中へと消えていった。
「くそっ……! みんな、俺の手を掴め!」
レイス、リーヴィス、ブルド、そして未だ憑依の解けぬミュロンが互いに手を結び、ブルドの冥王力とリーヴィスの地王力を合わせた緊急移動の術を展開する。
「うわあああッ! 置いてくなぁ!」と叫ぶゴビンゴが慌ててレイスの腰にしがみついた直後、視界は真っ白な閃光に包まれた。
一瞬の浮遊感の後、レイスたちが現れたのは、轟音を立てて完全に瓦解していく漆黒の塔のすぐ側であった。
数瞬遅れて、もうもうと立ち込める赤黒い土煙の中から、一騎の軍馬が駆けてくるのが見えた。
「おーい! 置いていくなんて、ちっとばかし酷いでやんすよ!」
アクセルの背に跨り、自慢の髭を煤で汚したバルトが、手を振りながらやってきた。
「まったく、世話の焼ける大将たちだぜ! 殿を任せるなら、帰りの足のことも考えてほしかったもんだ!」
魔王族化し、青白い炎を蹄から散らすアクセルが、呆れたように、しかし愉快そうにいなないた。
バルトは塔の入り口を最後まで守り抜き、アクセルと共に包囲を突破していたのだ。
一同が安堵したのも束の間、レイスの隣でミュロンが糸の切れた人形のように急に地面へと崩れ落ちた。
「おい、ミュロン! どうした!」
レイスが慌てて駆け寄り、彼女の華奢な肩を揺さぶる。
やがて、ミュロンはうっすらと目をあけ、自分の頭を押さえながら、どこか抜けたような声をあげた。
「あれ……? あたし、どうしてこんなところにいるの? ――っていうか、レイス? バルトもゴビンゴも、みんなしてあたしの顔を覗き込んじゃって、どうしたのさ」
その瞳には、あの魔王母メルフェレーンの妖艶で残虐な光は微塵もなかった。
あるのは、かつて共に旅をした、懐かしい少女の純朴な輝きそのものであった。
どうやら、肉体を縛っていた魔王母の魂が消失し、ミュロン自身はここ数年の記憶が完全に飛んでしまっているようだった。
危機を脱した一行は、ひとまず腰を落ち着け、これまでの経緯――レイスが「大地王」となり、そしてリーヴィスと結ばれて結婚したこと――をミュロンに説明した。
「……なんだってぇーーーッ!? 二人が、け、結婚した、だとぉぉぉ!?」
全てを聞いたミュロンは、顔を真っ赤にして飛び上がり、漫画のようにたじろいだ。レイスとリーヴィスの結婚という衝撃の事実に、ただただ驚きを隠せない様子だった。
しかし、ミュロンはあちこち破れた自分の衣服や、いつの間にかすっかり女性らしく発育した自分の胸元を交互に見つめ、ふう、と大きなため息をつくと、開き直ったように不敵な笑みを浮かべた。
「……ま、あたしが数年間も記憶喪失になってる間にそんなことになってたなんて驚きだけど……。じゃあ、しょうがないね。あたしは第二婦人でいいや!」
「まあ、そういうことなら……」
レイスが少し鼻の下を伸ばしかけた、その瞬間だった。
「――よくありませんッ!!」
いつもは慈愛に満ちた聖女であるリーヴィスが、見たこともないような剣幕でイキリ立ち、二人の間に割って入った。
そのエメラルドグリーンの瞳は、嫉妬と怒りで爛々と輝いている。
「地王教においては、厳格なる『一夫一婦制』が絶対の教義です! 重婚はいかなる理由があろうとも、最大級の重罪とします! レイス様、鼻の下を伸ばしている場合ではありませんわよ!」
「えーっ! ケチくさいこと言うなよ、リーヴィス姉さん!」
ミュロンが不満の声をあげるが、リーヴィスはレイスの腕をがっちりと掴み、ミュロンから引き離すようにして自らの背後に隠した。
「そういうことらしい……。すまんミュロン、俺はリーヴィスの言うことには逆らえんのだ」
レイスは苦笑いしながら、妻の圧倒的な正論と気迫に完全に降伏するしかなかった。ゴビンゴとバルト、ブルドは、その様子を見てゲラゲラと声をあげて笑い転げていた。
笑い声が響く中、レイスは静かに、崩壊した漆黒の塔の残骸へと視線を戻した。
いま、ようやく地王界の地上から、混沌を招く他の王玉たちが去っていかった。
海王玉、冥王玉、竜王玉……それぞれがふさわしい王の元へと還り、別世界へと去った。
そして、この世界の崩壊の引き金となった魔王玉は、いま、悲劇の魔王ネヴェルの遺体とともに、この深い瓦礫の下、大地の奥底で眠りについている。
一見すれば、地王界には平和が戻ったかのように思えた。
だが、レイスの胸中にある嵐は、未だ寸分も過ぎ去ってはいない。
空を見上げれば、雲の隙間から、どこまでも冷酷で圧倒的な天上の光が世界を照らしている。
天王玉を手に入れ、聖母リディアを虫ケラのように切り捨てた、あの大天使セレシオン。彼ら天王界の超越者たちが、次にこの地王界をどう歪めようとしてくるか、想像に難くなかった。
魔王族という「盾」を失った人間社会は、今や彼らにとって絶好の支配対象でしかないのだ。
「まだ……終わっちゃいない」
レイスは腰の漆黒の剣の柄にそっと手を置き、次の、そして真の最終決戦の舞台を静かに見据えていた。
大地王としての本当の戦いは、天上の神々を相手に、ここから始まるのだ。




