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第三部第十五話:蝕まれる純白、天王力の陥落

第三部第十五話:蝕まれる純白、天王力の陥落


「――美しい、私のリディアよ……」

毎夜、決まってその声は訪れた。

天王界の残照を宿すイスキス地方の聖域、その最も奥深き神殿の寝所で、聖女リディアは寝汗に濡れながら、幾度も激しく身悶えしていた。

透き通るような白磁の肌には、びっしりと冷たい汗の粒が浮き上がり、純白の寝衣がその豊かな胸の膨らみにぴったりと張り付いている。

「失せろ……! 下衆め……ッ!」

リディアは悲鳴のような叫び声をあげて、跳ね起きるように目を覚ます。

激しく上下する胸を押さえ、金糸のような美しい髪を掻きむしりながら、彼女は暗闇を見つめて荒い息を吐き出した。

呼び声の主が誰であるかなど、問うまでもない。

テルセイ魔導帝国を統べる傲慢なる魔王、ネヴェルであった。

イスキスの全域には、天王玉の放つ神聖な光の結界が幾重にも張り巡らされている。本来であれば、邪悪な魔王族の意志など一寸たりとも侵入できるはずのない絶対の聖域。

それにもかかわらず、リディアの防壁を容易くすり抜け、その精神の、さらに奥底の「夢」へと直接呪いを届かせる不気味な声。

それは、ネヴェルの魔王力が今や完全に天王玉の出力を凌駕し、圧倒している事実に他ならなかった。

このような精神の陵辱が、すでに五年もの間、片時も途切れることなく続いていた。

しかも、その精神攻撃は日を追うごとに巧妙さを増し、単なる脅迫から、見るに耐えないほど淫らで甘美な「悪夢」へと変質していっていた。

「なぜ、このような真似を……っ。私は聖女、貴様ら魔王族とは決して交わらぬ!」

夢の闇の中で、リディアは必死に自身の聖なる光を灯し、彼を拒絶しようと抗ってみせる。しかし、漆黒の帳の向こうから現れるネヴェルの姿は、どこまでも美しく、そして残酷だった。

「――理由など決まっている。我が美しい聖女よ。私は心から、貴女を愛しているからですよ」

ネヴェルは滑らかな声で囁きながら、影のようにリディアの背後へと滑り込み、その細い首筋に冷たい唇を寄せた。

「……嘘。信じられ...ません……」

リディアの声が微かに震える。

拒絶しようとする意志とは裏腹に、彼女の肉体はネヴェルの放つ濃厚な魔王のフェロモンに気圧され、次第に指先の一本の自由すら奪われていった。

さすがは史上最悪の魔王母メルフェレーンの血を引く息子であった。

人間の理性を狂わせ、本能の奴隷へと堕としめる淫靡な呪いにかけては、ネヴェルの右に出る者はいない。


ネヴェルによる誘惑は、単一の暴力ではなかった。

ある夜の夢の中では、彼は飢えた「狼」のように強引にリディアの服を剥ぎ取り、その圧倒的な力で彼女の四肢を組み伏せ、抗えぬ快楽の沼へと力任せに引きずり込んだ。

リディアの気高いプライドは踏みにじられ、その絶望が彼女の精神をじわじわと摩耗させていく。

かと思えば、また別の夜には、彼はまるで傷ついた「子犬」のような、ひどく寂しげで無垢な瞳をしてリディアの膝元に縋りついてくるのだった。

「私を救ってほしい、リディア。この孤独な闇から、貴女の清らかな光で私を包んでほしい」と、まるで純真な恋人のように甘えてみせるのだ。

この極端な揺さぶりこそが、リディアの心を致命的に蝕んでいった。

戦士として、そして聖者として張り詰めていた彼女の心の隙間に、ネヴェルの愛執が毒水のように染み込んでいく。

そして恐ろしいことに、五年の歳月が流れた頃には、ネヴェルが夢に現れない夜があると、リディアの胸の奥には、言い知れぬ寂しさと、彼を焦がれ求めるような狂おしい渇きさえ芽生え始めていた。

そして――。

ある嵐の夜の夢の中で、リディアはついに、自らネヴェルの漆黒の外套を引き寄せ、その唇を受け入れてしまった。

夢の中の彼女は、快楽に蕩けた瞳で涙を流しながら、魔王の愛撫を貪るように自らの身体を差し出していた。精神の防壁は完全に崩壊し、彼女の魂はネヴェルの色に染まり果てていた。

「美しいリディア……。さあ、私と一緒に、この退屈な地王界のすべてを、私たちの愛で満たし、統治しましょう……」

耳元で、蕩けるようなネヴェルの囁きが響く。リディアが夢恍惚の中で、その誘いに「はい……」と首を縦に振り、完全に屈服しようとしたその瞬間だった。


――パツン、と世界の糸が切れるような音がした。

「あ……っ!?」

リディアは現実のベッドの上で、凄まじい衝撃と共に目を開けた。

次の瞬間、彼女の胸の奥で、これまで世界を支えていた強大な「天王力」の源泉が、煙のように一瞬で霧散して消え去るのを感じた。

ネヴェルへの精神的な屈服が引き金となり、彼女と天王玉との霊的な同調が完全に切断されてしまったのだ。

イスキス地方の空を覆っていた、あの神聖な白銀の結界が、ガラスが割れるように脆く崩れ去っていく。

「――今だ! 聖なる光は消えた! 愚かな人間どもを食い尽くせッ!」

結界の消失と同時に、テルセイの国境線に潜んでいた魔王デルージャをはじめとする、数千、数万の凶悪な魔王族の軍勢が、狂喜の咆哮をあげてイスキス地方へと津波のように放たれた。

それだけではない。

これまで人間の街に紛れ込み、ただの商人や旅人として肉体を隠れ蓑にしていた潜伏中の魔王族たちが、一斉にその醜悪な正体を現し、無防備な民衆へと牙を剥き始めたのだ。

悲鳴と怒号が、かつての聖域を一瞬にして地獄絵図へと変えていく。

その頃、テルセイ魔導帝国の中心にそびえ立つ、魔王玉の鎮座する漆黒の魔塔。

その最上階の玉座で、妖艶な漆黒の美貌を持つ魔王ネヴェルは、手元で怪しく脈動する魔王玉の、かつてないほどに巨大化した出力を全身に浴びていた。

彼の魔王力は、聖女を墜としたことで天をも貫く頂点へと達していた。

「――ハハハハハ! かかったな、哀れで愚かなものどもよ!」

ネヴェルの冷酷で、底意地の悪い笑い声が、漆黒の塔の壁に反響して不気味に響き渡る。

すべては、地王界のパワーバランスを完全に崩壊させるための、五年をかけたネヴェルの壮大な罠であった。

天王の光が失われ、魔王の闇が世界を包み込もうとする絶望の盤面。

その混沌の渦中へと、何も知らぬレイスたち一行は、今まさに足を踏み入れようとしていた。

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