第三部第十四話:魔王母の罠、テルセイへの針路
第三部第十四話:魔王母の罠、テルセイへの針路
北方の竜王界でアストレイアの「竜転生」を見届けたレイスは、再びミレトー王国の大教会へと戻っていた。
夜、一人静まり返った寝室のベッドに身を横たえながら、レイスはこれからの世界をどう導くべきか、重い思考を巡らせていた。
東方では冥王族がシャルカナ王の元へ退き、カシュー海ではアストレイアがニュートラル・ドラゴンとして竜王界へ旅立った。
これで地王、海王、冥王、竜王の四つの玉の行方は定まりつつある。
だが、最大の問題は依然として西の「テルセイ魔導帝国」にあった。
魔王ネヴェルも、彼に対抗するイスキスのリディアも、決して王玉を手放そうとはしない。
本来の道筋を正すには、いかにしてネヴェルから魔王玉を奪い、それを相応しい魔王族へと「帰す」か。
それが成されなければ、均衡の要である天王玉を手放すことも叶わないのだ。
深く息を吐き、いつしか微睡みの中へ落ちていったレイスだったが、しばらくして、己の肉体に妙な「重み」を感じて意識を浮上させた。
(……リーヴィスが、アレスを寝かしつけてから潜り込んできたか)
そう思い、レイスは薄っすらと眠い眼を開けた。
だが、視界に飛び込んできたのは、最愛の妻の白銀の髪ではなかった。
ベッドの上でレイスに跨っていたのは、かつて共に旅をした仲間のミュロンであった。
「――うおおッ!? ミ、ミュロン、なぜお前がここにいる!」
レイスは跳ね起きるようにして身体を引いた。
驚愕するレイスの目の前にいるのは、確かにミュロンの顔立ちであった。しかし、その雰囲気は明らかにレイスの知る彼女とは別物だった。
レイスの記憶にあるミュロンは、中性的な少年体型に近い、どこか幼さを残した少女だったはずだ。だが、今そこにいる彼女は、薄暗い月光の中で異様なほど妖艶な光を放ち、肉感的な、いかにも「女」らしい肉体をくねらせていた。
数年の間に大人になったと言い張るには、あまりに毒々しく、見る者を狂わせるような肉欲の魅力に満ち満ちていた。
「貴様……! 何者だ!」
レイスが低く凄むと、ミュロンの顔をしたその女はクスクスと不気味に笑い、答えの代わりに自らの衣服に手をかけ、引き裂き始めた。
「何事ですか、レイス!」
ただならぬ騒ぎを察知し、寝室の扉を激しく押し開けてリーヴィスが飛び込んできた。
「――いやぁぁぁ! 助けて、乱暴されるわぁ!」
その瞬間、ミュロンの身体がベッドの上にうずくまり、可憐な悲鳴をあげて涙を流した。
そのあまりにも白々しい芝居に、レイスは「いや、待て! 違うんだ、リーヴィス!」と激しく動揺してみせる。
だが、リーヴィスは夫を疑うような愚かな真似はしなかった。
彼女は口元に手を当て、鋭い眼差しでうずくまるミュロンを一瞥した。
「あなたは確か……レイス様のお仲間だった……いえ、違いますね。あなたは何者です? ――その体から放たれているのは、禍々しい『魔王力』ですわ!」
リーヴィスのエメラルドグリーンの瞳が、激しい拒絶の光を放った。
「なーんだ。つまらない。すぐにバレちゃうのね」
さっきまでの泣き叫ぶ芝居が嘘のように、ケロッとした顔でミュロンが立ち上がった。
その立ち居振る舞い、指先の動かし方一つとっても、かつての純朴なミュロンのそれではない。
「私はメルフェレーン。魔王族の始祖の一人、魔王母メルフェレーン。――大地王レイス、貴方と『取引』をしに、わざわざこの肉体を借りて逢いに来てあげたのよ」
「取引だと……?」
レイスはベッドから降り、腰の漆黒の剣に手をかけた。
「そう。貴方が、我が息子のネヴェルから『魔王玉』を奪い、この私のために手に入れなさい。そうすれば、この娘の身体は生きたまま、元の持ち主に返してあげてもいいわ」
「なんだと……」
仲間の肉体を人質に取られた形になり、レイスは一瞬、怯みを見せた。
「いけません、レイス! 魔王族との契約は、それ自体が魂を蝕む呪いと同じですわ!」
リーヴィスがレイスの盾になるように前に立ちはだかり、聖なる地王力を全身から立ち昇らせた。
「あら、拒絶してもいいのかしら? 言うことを聞かないなら、この可愛いエルフの身体……そこらの狂暴なゴブリン共の住処に放り込んで、一生の慰みものにしてやってもいいのだけれど?」
メルフェレーンは妖しく目を細めると、自身の憑依しているミュロンの豊かな胸を、自らの指先で愛撫するように弄ってみせた。
ミュロンの純潔を踏みにじるような卑劣な脅しに、レイスの額に青筋が浮かぶ。
「――よせッ! 魔王玉は俺が手に入れてやる! だから、ミュロンの身体にそれ以上傷を付けるな。必ず返せ!」
レイスの怒気を含んだ決断に、メルフェレーンは歓喜の表情を浮かべた。
「いいでしょう。なら、契約の証に――今すぐここで、私と交尾いましょう!」
ミュロンの肉体が、獣のような俊敏さでレイスへと飛びかかる。
「いけませんッ!」
刹那、リーヴィスの手から放たれた強烈な地王力の衝撃波が、メルフェレーンの身体を容赦なく吹き飛ばし、壁へと叩きつけた。
「メルフェレーンといえば、かつてテルセイを血の海に変えた、史上最悪と謳われる残虐な魔王です! 惑わされてはいけません、レイス!」
リーヴィスはレイスの前に完全に立ちはだかり、普段の慈愛の表情を一変させ、まるで我が子を守るために牙を剥いて威嚇する「親猫」のような烈々たる気迫を見せた。
「ああ、分かっているさ、リーヴィス。だが……だからこそ、あのネヴェルから奪い取った魔王玉を『託す』には、これ以上ないほど相応しい相手とも言える」
レイスはリーヴィスの震える肩に優しく手を置き、その荒い呼吸を落ち着かせるように静かに諭した。王玉を欲する最悪の魔王。ネヴェルを討ち、彼女に王玉を渡して地王界から退去させる――それこそが、レイスの目指すべき最短の盤面であった。
「ふふ、素直でいい子ね、大地王。約束通り、魔王玉を私に手に入れた暁には、私の率いる魔王族は、地王界と『対等』に接することを約束してあげるわ」
ミュロンの身体を借りたメルフェレーンは、壁に背を預けたまま、勝ち誇ったようにそう嘯いた。
翌朝、ミレトー王国の城門前には、早朝の冷たい霧の中に数人の影が集まっていた。
漆黒の外套を纏い、覚悟を決めた眼光を放つ大地王レイス。
夫の決意を支えるべく、その傍らに寄り添う地王母リーヴィス。
錫杖をシャンと鳴らし、どこか退屈そうにしながらも死線を楽しむ半冥王族のブルド。
さらに、南方の戦線からレイスの呼びかけに応じて駆けつけたゴブリンの戦士ゴビンゴと、巨大な戦斧を担いだ元レイスの傭兵団の将バルト。
そして、その中心には、未だ魔王母メルフェレーンの意識に肉体を支配され、妖艶な笑みを浮かべるミュロンの姿があった。
「フン、ウツボどもの相手よりは、テルセイの化け物どもをブチ殺す方が、この俺の性に合ってるからな!」
ゴビンゴがギラついた目で笑う。
「お嬢をあのような魔王から救い出すためでやす。地の果てまでお供しやす」
バルトが頑丈な斧の柄を叩いた。
仲間たちの絆と、それぞれの思惑を孕みながら、地王界の命運を賭けた一行は、魔王ネヴェルが支配する最終決戦の地、西の「テルセイ魔導帝国」に向かって、力強く旅立つのであった。




