第三部第十三話:極光の竜転生、新しき神話の鱗
第三部第十三話:極光の竜転生、新しき神話の鱗
カシュー海――海と名付けられてはいるものの、その本質は荒涼とした大地に横たわる果てなき大塩湖である。
その南岸に位置する石造りの街デュラン。
いまから四年前、この潮の香りと熱砂が混ざり合う境界の地で、半竜王族の血を引く若き戦士アストレイアは、この地を長年棲家としてきた聖なるドラゴン・マドゥールとの間で、秘宝「竜王玉」を竜王界へ還すための厳粛な契約を結んでいた。
北を眺めれば、カシュー海の向こうには巨大な竜たちが支配する絶対の領域「竜王界」が広がっている。
引き渡しの儀式は、厳格な格式を重んじる竜巫女たちの手によって、厳かに、そして遅々として執り行われようとしていた。
――だが、その「すんでのところ」で、最悪の邪魔が入ったのだ。
「グルゥゥゥアァァッ!」
空間を引き裂くような咆哮とともに、天から飛来したのは真紅の鱗を持つ邪竜、ドラゴン・アスタレスであった。竜王族は、調和を重んじる「聖竜」と、破壊を貪る「邪竜」の二つに大きく引き裂かれている。
マドゥールが気高き聖竜であるならば、アスタレスは純然たる邪悪の化身であった。
アスタレスの狙いは、ただ一つ。儀式の最中に無防備となる竜王玉の強奪。
聖竜マドゥールは自らの巨体を盾にして王玉を守り抜いたものの、邪竜の不意打ちと、毒を孕んだ鋭い爪によって深く裂かれ、ついに命を落としてしまった。
「――バカバカしい! 強い格式や無駄な儀式なんぞにこだわっているから、こんなことになるんだよッ!」
アストレイアは、焦燥と怒りに燃えるような赤い瞳をぎらつかせ、形式ばかりを気にして逃げ惑う竜巫女たちの長老連中に向かって、激しく吐き捨てた。
それより四年、アスタレスとの激しい攻防が続いていた。
事態は一刻を争っていた。レイスはアストレイアの救援要請を受け、すぐさま自軍の精鋭を率い、竜王玉を狙ってデュランの周辺に居座るアスタレスの退治へと向かったが、地王族の武器や並の魔力では、限界まで肥大化した邪竜の分厚い逆鱗に傷一つ付けることすら叶わなかった。
まさに、刃が立たぬとはこのことであった。
アスタレスは人間の放つ矢を嘲笑うように撥ね退け、傲慢に宣言した。
「我が手へ竜王玉が渡るその時まで、この地の人間どもを毎日一人ずつ、貪り食い尽くしてくれようぞ!」
追い詰められたレイス、ブルド、そしてアストレイアの三人は、デュランの陣営で竜王玉をどう扱うべきか、幾度も激しい議論を戦わせた。
新たに竜王界から別の聖竜を呼び込み、王玉を託すか? ――いや、それでは気性の凶暴なアスタレスに各個撃破され、いたずらに生贄を増やすだけに思えた。
ならば、こちらから竜王界へと直接乗り込み、信頼に足る聖竜の勢力を探すか? ――それも、道中で他の好戦的な邪竜たちに見つかれば、王玉を奪われて一巻の終わりであるため、有効な策とは言えなかった。
暗礁に乗り上げた盤面の中、アストレイアはふっと拳を握りしめ、覚悟を決めたように顔を上げた。
「……最後の手段だ。いや、最初からこうするべきだったんだよ」
アストレイアの燃えるような赤い瞳が、文字通り狂おしいほどの竜の波動を帯びて燃え上がった。
彼女の内に眠る、半分だけの不完全な竜の血が、本能の覚醒を求めて激しく脈動し始めていた。
再び、デュランの街の外れに位置する、カシュー海を見下ろす荒涼とした岩山の祭壇。
アストレイアは祭壇の中央に竜王玉を据え、自らの血を触媒とした禁忌の儀式を開始した。
周囲の空間から猛烈な竜王力が竜王玉へと文字通り泥流のようになだれ込み、王玉は目も眩むような黄金と極彩色の光を放ち始める。
「キシャァァァッ! 愚かな虫ケラどもが、二度も同じ真似をォッ!」
その光を感知した邪竜アスタレスが、待ってましたとばかりに雲を割り、天空から猛烈な速度で急襲を仕掛けてきた。
その巨大な顎が開かれ、全てを灰燼に帰す灼熱のドラゴン・ブレスが祭壇目がけて吹き付けられる。
「――させるかよッ!」
レイスが前に飛び出た。全身の地王力を極限まで滾らせ、漆黒の剣を大地へと突き立てる。
瞬時に強固な大地の結界が展開され、襲い来る烈火の息をギリギリのところで受け止める。
凄まじい熱風がレイスの漆黒の外套を焦がし、その武骨な顔に大粒の汗が流れるが、レイスは歯を食いしばり、地王玉の輝きを増幅させて結界を維持し続けた。
何があっても、アスタレスを背後のアストレイアに近づけさせるわけにはいかなかった。
だが、敵はアスタレス一頭ではなかった。祭壇の周囲の地平からは、アスタレスの邪悪な魔力に支配されたトカゲの亜人「リザートマン」の軍勢が、武器を鳴らして包囲網を縮めてきたのだ。
本来ならば、正統なる竜王玉の力を用いれば、リザートマンのような下位の竜種など一瞬でひれ伏させ、支配下に置くことができるはずであった。
しかし、今のアストレイアには儀式の制御だけに全精力を注ぎ込まねばならず、周囲の雑兵を退ける余力など微塵も残されていなかった。
ガキィィィンッ!
ついにアスタレスの凶悪な質量が、レイスの張った大地の結界を力任せに食い破った。
爆風とともにレイスが撥ね飛ばされ、邪竜の巨大な顎が、祭壇ごとレイスを丸飲みにせんと迫る。
レイスがその巨大な口腔に呑み込まれそうになった、まさにその絶体絶命の刹那――。
横合いから凄まじい衝撃が走り、巨躯を誇るアスタレスの身体が、ドゴォォォンと派手に横ざまへと弾き飛ばされた。
「……な、何奴だッ!?」
アスタレスが苦悶の声をあげて睨みつけた先にいたのは、信じられない存在であった。
数年前に命を落としたはずの、あの聖竜マドゥールであった。
だが、その美しいはずの白銀の鱗は泥に汚れ、瞳には生命の光がなく、虚ろな闇が広がっている。――マドゥールの巨躯の頭上。そこには、錫杖を握り締め、凄まじい瘴気を放ちながら激しく念仏を唱え続ける、半冥王族のブルドの姿があった。
「南無……幽世の骸よ、現世の不条理を討つ牙となれ!」
ブルドは冥王玉の力を暴走一歩手前まで引き出し、マドゥールの「屍」を人形のように操っていたのだ。
死してなお戦場へ引きずり出されたマドゥールの屍竜は、ブルドの命令に従い、アスタレスの首元へと容赦なく噛み付いた。生者と死者、邪竜と屍竜の激しい肉弾戦が巻き起こる。最初は五分の戦いに見えた。しかし、どれほど冥王力で強化されていようとも、所詮は動きの鈍い死体である。次第にマドゥールは生きたアスタレスの猛攻に押され気味になり、最後はアスタレスが至近距離から放った最大出力の爆炎によって、その肉体を木っ端微塵に爆砕されてしまった。
ブルドは間一髪で後方へと飛び退いたが、屍竜という最大の盾を失い、アスタレスの凶眼が再び祭壇へと向けられる。
だが、マドゥールとブルドが稼いだそのわずかな時間は、奇跡を起こすに十分な時間であった。
「――アァァァァァァァァァッ!!!」
祭壇の中央で、竜王玉がこれまでにない、世界の終わりを告げるかのような極光を放った。その光の渦の中心で、アストレイアが絶叫をあげる。
激しい音を立てて、彼女の繊細な人間の皮膚が、内側からメリメリと引き裂かれていった。だが、そこから流れたのは赤い血ではなく、目が眩むほど純粋な、黄金の竜王力の奔流であった。
皮膚の裂け目から、硬質な、しかし美しい紅蓮色の鱗が次々と這い出てくる。
アストレイアは、己の半分の人間の肉体を捨て、魂ごと正真正銘の竜王族へと生まれ変わる禁忌の術――「竜転生」を完成させたのだ。
彼女の身体は、光を吸い込みながらみるみるうちに巨大化していった。十メートル、三十メートル、四十メートル……。やがて光が弾け飛んだとき、そこに君臨していたのは、目の前のアスタレスすらをも遥かに見下ろす、最大級の偉容を誇る超巨大なドラゴンであった。
その全身から放たれる竜王力は圧倒的であり、周囲の空気の圧力が変わるほどであった。
「……バ、馬鹿な……! 半端者の小娘が、真の竜の姿に……う、グオォッ!?」
アスタレスはその圧倒的な格の違い、生物としての絶対的な位階の差に完全に気圧された。紅蓮の巨竜がただ一睨みしただけで、アスタレスの巨体が恐怖で小さく震える。勝てぬと悟った邪竜アスタレスは、恥も外聞もなく翼を広げると、配下のリザートマンどもを置き去りにして、這う這うの体で北の空へと退散していった。
静寂が戻った祭壇。
レイスは、かつて小柄な人間の少女であったはずの、目の前にそびえ立つ紅蓮の巨竜を見上げ、喉を鳴らした。
アストレイアの纏う波動には、マドゥールのような過剰な「聖」の光もなく、アスタレスのような不快な「邪」の澱みもなかった。
彼女は、聖にも邪にも与しない、ただ己の絶対的な意思のみで動く「ニュートラル・ドラゴン(不偏の竜)」として新生したのだ。
それは、偏った二つの属性で血を流し合ってきた竜王族の歴史にとって、全く新しい時代の始まりを告げるものであった。
「……アストレイア。本当に、これで良かったのか?」
レイスは、首を痛めるほどに見上げる巨躯に向かって、どこか寂しさを孕んだ素朴な疑問を投げかけた。人間としての彼女は、もう二度と戻ってこないのだ。
『――もちろんさ! 人間だの竜だの、どっちつかずの半端な存在でいるより、よっぽどせいせいするよッ!』
巨大なアストレイアの口から放たれた声は、大地を震わせ、大気を激しく震動させた。しかしその音の響きには、かつてレイスたちと共に旅をした、あの気の強い少女の面影が確かに残っていた。
『じゃあね、レイス。私は私の領域へ行くよ。……王玉の真の使い道を、あいつらに教えてやらなきゃならないからね!』
紅蓮の巨竜は力強く地を蹴ると、一振りの羽ばたきで暴風を巻き起こし、カシュー海の彼方、竜王界の天へと向かって矢のように飛び去っていった。
その後――竜王玉と、新たに現れたニュートラル・ドラゴンを巡り、北の竜王界では、全土を巻き込む空前絶後の大戦争が幕を開けることになる。だが、去り行く彼女の背中を見つめるレイスの胸には、彼女なら必ずその混沌すらも捩じ伏せるだろうという、確かな信頼が刻まれていた。




