第三部第十二話話:幽世(かくりよ)の骸、新たなる冥王
第三部第十二話話:幽世の骸、新たなる冥王
大陸を東西に引き裂く大河、イルディーン河。
その濁った水流が激しく岩を噛む河畔のただ中に、精悍な若き破戒僧ブルドは、微動だにせず胡坐をかいて瞑想していた。
彼の眼前、対岸の地平を埋め尽くしていたのは、この世のものとは思えぬ悍ましき光景――総数数万を超える、死霊、悪霊、そして腐臭を撒き散らす生ける屍の大軍勢であった。
その死の軍勢が左右に割れ、不気味な太鼓の音とともに現れたのは、豪奢な法衣を纏った一体の「ミイラ」を乗せた、巨大な神輿であった。
干からびた褐色の皮膚が骨に張り付き、眼窩には漆黒の闇だけが広がるその怪異こそ、四百年以上の時を生きる冥王族の長、シャルカナ王である。
彼は生前、極限の苦行の果てに自らを即身仏と化しながらも、執念で現世に留まり続けていた。
肉体は枯れ果てているが、現世の欲は捨てておらず、食事も摂れば、夜には女を抱くという歪んだ生命の塊。
そうして生まれた不義の子の一人が、目の前にいるブルドであった。
「我が弟ブルドよ! 父、シャルカナ王のために『冥王玉』を手に入れたこと、大儀であった。褒めてつかわすぞ!」
神輿の傍らに立つ、異様な妖気を放つ高僧――ブルドの異母兄であるクウジャが、歪んだ薄笑いを浮かべて声を張り上げた。
その周囲には、同じくどす黒い冥王族の血を引くブルドの兄たちが、貪欲な眼をぎらつかせて並んでいる。
ズシン、と神輿が大地に下ろされ、シャルカナ王の干からびた唇が、不気味にミリミリと音を立てて僅かに動いた。
「では……約束通り、冥王玉をこれへ」
クウジャが、骸骨のようなシャルカナ王の意思を代弁するように、傲慢に手を差し出す。
しかし、河原の岩に座すブルドは、一向に動こうとしなかった。その切れ長の瞳は完全に閉じられ、耳を打つ数万の死者の囁きすら、意に介していないようであった。
「――おい、どうしたブルド! まさか、冥王玉の絶大な力に目が眩み、独占しようなどと考えておるのではなかろうな!」
クウジャの鋭い叱責に、周囲を取り囲む青白い肌の僧兵たちが、一斉に三叉槍を構えてざわめき立つ。
「……おいたわしや、父上……」
不意に、ブルドの唇からぽつりと、掠れた老成の声が漏れた。
彼は静かに目を開けると、衣服の懐から、底知れぬ幽世の闇を凝縮したような暗灰色の至宝「冥王玉」を取り出した。
王玉が放つ圧倒的な死の波動に、クウジャをはじめとする兄たちは一瞬で声を失い、本能的な恐怖に身を震わせた。
ブルドは冥王玉を静かにかざしながら、無数の死霊がひしめく陣中を、平然とした足取りでシャルカナ王の神輿へと近づいていく。王玉の放つ絶対的な冥王力に気圧され、最強の護衛たちも、クウジャすらも、指一本動かすことができなかった。
神輿の直前に達したブルドは、干からびた父の顔をじっと見つめた。
「――御免!」
鋭い破邪の一喝。
それと同時に、ブルドの細くもしなやかな腕が閃き、愛用の錫杖を、シャルカナ王の胸の中心――その動かぬはずの心臓の真っ芯へと、容赦なく突き立てた。
ドスッ、という鈍い音が響き、ミイラの胸から、どす黒い冥王力の霧が噴き出す。
「き、貴様ァッ! 何という大逆不道を! 」
我に返ったクウジャが、怒髪天を突く勢いで激昂し、術を放とうと手を掲げた。
『――良い。静まるがよい、クウジャ。ブルドは、我がために最善を尽くしたのじゃ』
その声は、大地からではなく、遥か高き天空、いや、空間そのものから、鈴の音のように透き通って響き渡った。
一同が息を呑んで見上げる中、錫杖を突き立てられたミイラの肉体から、眩いばかりの純白の霊気が溢れ出し、一人の男の姿を形作っていった。
現れたのは、醜いミイラでも、老いた骸骨でもなかった。
それは、四百年前にシャルカナ王が最も若々しく、最も美しく、強大であった全盛期の「生前」の姿の霊体であった。
透き通るような白銀の髪をなびかせ、その双眸には、幽世の全てを統べる至高の覇気が宿っている。
「ブルドは、余を四百年もの間縛り付け、現世の欲に塗れさせていた『肉体』という名の醜い檻から、ようやく解き放ってくれたのじゃ」
新しく生まれ変わった父を見上げ、ブルドは静かに手を合わせた。
「左様にございます、父上。死してなお現世の肉体に執着するは無様。それこそが、真に冥王玉を持つ者に相応しい、幽世の絶対者のお姿にございます」
「うむ、大義であった。我が不義の息子よ」
シャルカナ王が美しき手を差し伸べると、ブルドの手元にあった冥王玉が呼応するように浮き上がり、王の掌の上を、まるで生き物のように舞うように美しい弧を描いて収まった。
王玉を手にしたシャルカナ王の霊体は、現世のあらゆる物質を超越した、真の「冥王」へと覚醒したのだ。
「これより、このイルディーン河を東西の境界とし、西を地王界、東を冥王界と分かつことに合意しよう。我ら冥王族は、二度とこの河を越えて生者の領域を侵さぬ」
新たなる冥王と、その息子ブルドとの間で、静かに盟約が交わされた。
シャルカナ王が不敵な笑みを浮かべて袖を振ると、数万の死霊の軍勢は、立ち込める川霧に溶けるようにして、静かに幽世へと帰還していった。
軍勢が完全に消え去り、静寂が戻ったイルディーン河畔。
本陣で戦況を見守っていたレイスは、愛馬を降り、一人で戻ってきたブルドの元へと歩み寄った。
「……おいおい、凄まじい度胸だな、お前さん。実の親の心臓に迷わず杖を突き立てるとはな」
レイスは呆れたように笑いながらも、その深緑の瞳にはブルドへの深い敬意が光っていた。
「ときにブルド。お前さんは、実の父親や兄貴たちと一緒に、『冥王界』に帰らなくて良かったのか? お前にもその血が流れているんだろう」
「なんのなんの」
ブルドは錫杖を肩に担ぎ、咥えていた団子の串をペッと吐き捨てると、いつものように豪快に笑った。その顔には、先ほどまでの冷徹な仕分け人の気配はなく、ただの生を愉しむ若者の表情があった。
「冥王界というところは、死者ばかりで実につまらん、退屈極まりない場所でござる。拙僧は、まだまだこの美味い酒と美味い飯、そして面白い人間が満ちた『地王界』で、生を謳歌したいのじゃ。……冥王界に帰るなど、現世を生ききって、本当に死んだ後で十分に遅くはないわい」
「くくっ、違いない。お前らしいや」
レイスは、この若き破戒僧の、底の知れない度胸と「生」への執着に、心底から感服せざるを得なかった。
他王族の長たちが王玉の力に呑まれ、あるいは肉体の限界に絶望していく中で、ブルドは誰よりも冷徹に死を見つめ、誰よりも力強く「今」を生きていた。
地王界を分かつ大河の向こうに、朝日が薄紅と共に昇る。
二人の英雄は、それぞれの覚悟を胸に、並んで歩き出すのだった。




