第三部第十一話:血脈の愛憎、揺らぐ切っ先
第三部第十一話:血脈の愛憎、揺らぐ切っ先
父親であるアレクサンダーとの、あの腹を探り合うような軍事的・政治的な対話も、レイスにとっては十分に息の詰まるものであった。
だが、彼にとってそれ以上に胃の腑を痛め、扱いが厄介極まりない存在こそが、母親であるレイミアであった。
「レイス! 私の可愛いレイス! ――あぁ、やっと無事に戻っていらしたのね!」
豪華絢爛な私室の扉を開けるや否や、甘い百合のような香水が鼻腔を突き、絹のような滑らかな肢体がレイスの胸へと飛び込んできた。
かつては他国を震え上がらせた「邪王族」の末裔であり、現在はミレトー王妃であるレイミア。
彼女は、戦場を支配し数万の兵を率いる「大地王」となった我が子を、まるで五歳の幼児をあやすかのように、その豊かな胸に抱きしめ、両手で彼の武骨な頬を包み込んで何度も撫で回した。
「は、母上……ご機嫌麗しゅう。……どうか少し離れていただけませんか、これでも俺は旅帰りで泥臭い身ですので」
さしものレイスも、この猛烈な母親の愛情の前には借りてきた猫のようになり、タジタジとして顔を赤らめるしかなかった。
ふと見つめると、レイミアは歳を重ねるごとに、その容艶さに一層の磨きがかかっているように思えた。
白磁のような肌には皺一つなく、妖しく濡れた紫色の瞳は、見る者を惑わせる底知れぬ魔力を放っている。
しかし、夫であるアレクサンダーと長年連れ添い、地王界の地脈に深く根を下ろした結果なのだろう。
かつて彼女の内に渦巻いていた残虐な「邪王力」は、見違えるほど穏やかに弱まっていた。
以前のギラついた彼女であれば、この広大な地王界全土を、アレクサンダーにねだって自分の「所有物」として囲い込み、他種族を蹂躙して楽しんでいたに違いない。
だが、今のレイミアの表情には、どこか満ち足りた、静かな大人の余裕が漂っていた。
欲に溺れず、ただ愛する家族に囲まれている現状に、彼女の魂は救われていたのかもしれない。
「いいのよ、どんなに泥に塗れていようと、貴方は私の誇り高き息子ですもの。さあ、南方での武勇伝を聞かせてちょうだい」
リーヴィスが無限の慈愛を説く聖者であるならば、レイミアはその対極に位置していた。
彼女は血湧き肉躍るような「残酷な武勇伝」を何よりも好んだ。
それゆえに、レイスが南方の地獄で繰り広げてきた凄惨な戦いの記録は、彼女にとって最高の娯楽であり、二人の間で話題が尽きることはなかった。
「――これが、南部地域の部族長からいただいた手土産です。母上の肌をさらに引き立てる珍しい魔獣の毛皮と、極彩色の宝石です」
「まぁ、素晴らしいわ! さすが私のレイス、目の付け所が良いこと!」
レイミアは子供のように目を輝かせ、豪奢な手土産を喜んで受け取った。
同じように手土産を贈った際、リーヴィスももちろん喜んでくれはしたが、彼女の関心は終始「レイスが傷を負わずに無事であったこと」そのものに尽きていた。手土産の希少価値そのものを純粋に楽しんでくれる母親のこの毒々しさは、ある意味でレイスの戦士としての心を妙に気楽にさせるものでもあった。
しかし、母の部屋を辞した後に待ち受けていた、もう一人の身内――妹のミレースとの対面こそが、レイスを最も深く困惑させることとなった。
ミレースは、かつてレイスの手によってその命を奪われた魔王族の将、ガーヴィの恋人であった。
妹の愛した男を自らの漆黒の剣で屠ったという事実は、レイスの胸の奥に、消えない暗い棘として突き刺さったままであった。
だが、再会したミレースは、兄のそんな重苦しい懸念を、綺麗さっぱり裏切ってみせた。
彼女は現在、あの質実剛健な将軍ロシェの息子であり、若くして民議会の議員を務める新進気鋭の青年、ブランと熱烈な恋仲にあるのだという。
「お兄様、そんなに暗い顔をなさらないで? 私、この間ね、ブルド様にお願いして、ガーヴィ様のことを『霊視』していただいたの」
王宮の中庭、美しく咲き誇る薔薇の垣根の前で、ミレースは軽やかにドレスの裾を揺らしながら言った。
「……それで、どうなったんだ?」
ミレースの口から出た亡き恋人の名に、レイスは思わず肝を冷やし、腰の剣の柄に置いた手に微かな力がこもった。妹の口から恨み言が飛び出すのではないか、と身構えたのだ。
「ふふ、あっけないものですわ。彼、とっくの昔に清々しく成仏していらしたの。なんの未練も、この現世に残していなかったようですわ。……今にして思えば、魔王族という長寿な生き物にとって、私たち人間との愛なんて、ほんの一時の退屈しのぎの戯れに過ぎなかったのかも知れませんわね。だとしたら、私だっていつまでも昔の男に囚われて泣いているなんて損というものですわ」
あっけらかんと、何一つ曇りのない笑顔で言い放つミレース。
その姿を見つめながら、レイスは胸の奥で、言い知れぬ違和感と割り切れなさを覚えていた。
(果たして……本当にそうだろうか?)
レイスは、あの戦場で刃を交えたガーヴィの、最期の眼光を今でも鮮明に覚えている。
あの男は、決して退屈しのぎでミレースの傍にいたわけではない。
魔王族としての誇りも立場もすべて投げ打ち、文字通り「命懸け」でミレースを愛し、彼女を守るために俺の前に立ち塞がったのではなかったか。
未練がなかったのではない。
あまりにも純粋に彼女の幸福を願ったからこそ、魂に澱みを残さず、静かに逝ったのではないだろうか。
だが――ガーヴィのその命懸けの愛は、今や生き残ったミレースの中で「一時の戯れ」として都合よく解釈され、新たな男との恋によって綺麗に上書きされてしまっている。
「……そうか。お前が前を向いて生きているなら、それでいい」
ミレースがそう割り切って笑ってくれる分、確かにレイスの心の肩の荷は下り、随分と楽にはなった。
だが、それと同時に、胃の奥に冷たい塊が居座るような、割り切れない虚しさが残った。
魔王族と、真の意味で分かり合える日など、果たして本当に来るのだろうか?
命を懸けた愛の記憶すら、生きる人間の都合で変質していく。
相容れない種族同士が、地王玉の力による強制的な統治ではなく、心から手を取り合う共存の世界など、ただの理想郷の絵空事ではないのか。
「お兄様?」
怪訝そうに覗き込んでくるミレースの顔に、レイスは「なんでもない」と短く答え、無理に笑みを作ってみせた。
未だ見つからぬ、答えのない問い。
だが、確かなことは一つだけあった。まもなく、西方からは再びネヴェルの意思を受けた魔王族の主力、そして東方より冥王族の影がこのミレトーへ迫ってくる。
もし、この不条理な現実に絆され、妹や家族を守るべき己の「剣」がほんの一寸でも鈍れば、その瞬間にミレトーは、そして地王界の全ての民は、他王族の凶刃によって一瞬で蹂躙され、食い尽くされるだろう。
(綺麗事は、すべてを終わらせてからだ……)
レイスは漆黒の剣の柄を、皮手袋が軋むほどに強く握りしめた。
哀愁も、迷いも、すべてを鉄の意志で抑え込み、大地王グランバード・レイスは、迫り来る次なる激戦へと向けて、その刃をさらに冷酷に、鋭く研ぎ澄ましていくのだった。




