第5話 受肉する幽霊
テレビの電源を引き抜き、完全な沈黙に包まれた六畳間で、私は泥のように眠り続けた。
どれだけの時間が経過したのか、判然としない。薄っぺらい遮光カーテンの隙間から差し込む光の角度が変わるのを見て、昼と夜が入れ替わっていることだけが辛うじて理解できた。
胃の奥底が自己主張するように痙攣し、鋭い痛みを脳に送り続けていたが、もはや起き上がって水道の蛇口を捻る気力すら残されていなかった。全財産である数枚の千円札は、財布の中で手付かずのまま眠っている。スーパーやコンビニに行くためには、この万年床から這い出し、服を着替え、他人の目に晒される外の世界へと踏み出さなければならない。
社会から完全に弾き出された今の私にとって、あのドアの向こう側に広がる世界は、私を拒絶し、嘲笑する巨大な敵そのものだった。
枕元に転がっているスマートフォンの画面は、とうの昔に真っ黒に沈黙している。
充電ケーブルを挿すという単純な動作すら、鉛のように重い腕が拒絶した。電源を入れれば、そこには私が起こした革命が完全に鎮火し、NONELが何事もなかったかのように光り輝いている現実と、私を見捨てて散っていく有象無象の嘲笑が待っているだけだ。
ネットの世界の玉座も、現実世界の居場所も、すべてが幻のように消え失せた。
私はこの澱んだ空気が充満する密室で、誰にも気づかれることなく、緩やかに餓死していくのを待つだけの、ただの腐りかけの肉の塊だった。
その時だった。
ジリリリリリリリッ!
突然、耳をつんざくような、旧式のインターホンのベルが鳴り響いた。
静寂に慣れきっていた私の鼓膜を、暴力的な電子音が容赦なく劈く。
ビクッ、と全身の筋肉が硬直した。
心臓が肋骨を突き破らんばかりの勢いで暴れ出し、冷や汗がどっと全身から噴き出す。
休日の昼下がり。こんな底辺のアパートを訪ねてくる人間など、一人しかいない。
二ヶ月分の家賃を滞納している、一階に住む大家の老人だ。毎日かかってきていた着信を私が完全に無視し続けているため、ついに直接取り立てにきたのだ。
息を潜めろ。居留守を使えば、そのうち諦めて帰るはずだ。
私は毛布を頭から被り、ガタガタと震える身体を小さく丸めた。
しかし、扉の向こうの訪問者は、私が居留守を使っていることなど見透かしているかのように、二度、三度と執拗にベルを鳴らし続けた。さらには、ドンドンと錆びた鉄のドアを直接叩く音まで響いてくる。
「……鬱陶しい」
私は毛布の中で舌打ちをした。
このままでは、大家が合鍵を使って部屋に押し入ってくるかもしれない。そうなれば、このゴミ溜めのような部屋と、惨めに餓死しかかっている私の姿を直接見られ、あまつさえ説教を食らうことになる。それだけは、私の残された僅かな自尊心が絶対に許さなかった。
私は鉛のように重い身体を引きずって万年床から這い出し、冷え切ったフローリングを踏みしめた。
防犯チェーンをかけたまま、錆びついたドアを数センチだけ開ける。
「……はい、なんですか。今、お金の持ち合わせは」
「あ、郵便局です。書留のお届けに上がりました。サインかハンコをお願いします」
チェーンの隙間から見えたのは、大家の怒り顔ではなく、赤いロゴの入ったヘルメットを被った郵便局員の、ひどく事務的な顔だった。
書留。
その単語を聞いて、私の思考は一瞬フリーズした。
この私に、書留?
親族とは十年以上も絶縁状態で、友人と呼べる人間も一人もいない。クレジットカードはチケット代で限度額に達しているが、その請求書は普通郵便で届くはずだ。手渡しとサインを要求されるような重要な書類が、この社会から切り離された私の元に届く理由が、全く思い当たらなかった。
不審に思いながらも、私は玄関の隅に転がっていた百円均一の安っぽい三文判を掴み、ドアの隙間から差し出された細い受領印の紙にハンコを押し付けた。
朱肉が掠れ、私の名字が不鮮明に紙に付着する。
局員から手渡されたのは、分厚く、真っ白な角形二号の封筒だった。
中身が透けないように裏地が加工された、いかにも公的で重要な書類を入れるための封筒。
私は無言でドアを閉め、鍵とチェーンを厳重にかけ直した。
薄暗い部屋の中心に戻り、手の中にあるその封筒に視線を落とす。
差出人の欄には、私が契約しているインターネットプロバイダの会社名が、無機質なゴシック体で印字されていた。
プロバイダからの書留。
料金の未払いだろうか。いや、それならば利用停止の通知が普通郵便やメールで来るのが先のはずだ。わざわざ高い金を出して、書留で分厚い書類を送ってくるなど、通常の顧客対応としては明らかに異常である。
封筒の重みが、ひどく不吉な質量を持って私の掌にのしかかってきた。
脳の奥底で、けたたましい警鐘が鳴り響いている。開けるな。それを見てしまえば、お前はもう二度と、元の安全な世界には戻れなくなるぞ。生存本能がそう叫んでいた。
だが、私の右手は無意識のうちに机の上のハサミを掴み、封筒の端に刃を入れていた。
ジョキッ、ジョキッ、と、分厚い紙を切り裂く鈍い音が部屋に響く。
中には、無骨なクリップで留められた十数枚のA4用紙が、ずっしりとした束になって入っていた。
一枚目の書類を引き抜いた瞬間。
私の視線は、その最上部に書かれた太字のタイトルに、太い釘で打ち付けられたように固定された。
『発信者情報開示に係る意見照会書』
……は?
脳内で、何かがショートするような、鈍く不快な音がした。
眼球が、乾いた音を立てるように活字の上を滑っていく。
『プロバイダ責任制限法の規定に基づき……』
『以下の侵害情報について、発信者情報の開示請求がありましたので……』
『貴殿の情報の開示に同意するか否か……』
喉の奥が、砂を噛んだようにカラカラに乾いていくのがわかった。
震える指で二枚目のページをめくると、そこに添付されていたのは、私が見慣れた画面のスクリーンショットだった。
黒いノイズのアイコン。
Ghost In the Roomという、私が神として君臨していた名前。
そして、私がNONELの緋月と柚煌のパワーハラスメントを告発し、スポンサー企業への抗議を扇動した、あの会心のポストの文面が、白黒印刷で無惨に焼き付けられていた。私が彼らのドーム公演に潜入し、口パクや差別を告発したあの長文ポストのスクリーンショットまでもが、ご丁寧に何枚も添付されている。
開示請求者の欄には、NONELが所属する大手芸能事務所の正式名称と、代理人である日本有数の巨大法律事務所の名前、そして数名の弁護士の連名が、黒々としたインクで暴力的に印字されていた。
「……冗談、でしょ」
私の口からこぼれ落ちた声は、ひどく掠れ、老婆のように震えていた。
書類を持つ両手が、いや、指先だけでなく、肩から背中にかけての筋肉全体が、コントロールを失ったように小刻みに痙攣している。
部屋の空気は淀んで生暖かいはずなのに、内臓の奥底から大量の氷水を直接流し込まれたような、猛烈な悪寒が全身の血管を駆け巡った。
名誉毀損。偽計業務妨害。プライバシーの侵害。
書類には、私の書き込みがいかにして企業の利益を損ない、タレントの社会的評価を不当に低下させ、スポンサー契約に甚大な被害を及ぼしたかという法的な根拠が、一片の感情も交えない、冷徹かつ事務的な言葉で羅列されていた。
これは、警告ではない。
すでに照準は私にピタリと合わされており、引き金を引くための最後の手続きなのだ。
私は、自分が安全な部屋の外から、ガラス越しに石を投げている幽霊だと信じ込んでいた。物理的な打撃を受けることなど絶対にない、無敵の存在だと。黒曜が訴えられた時も、自分だけは高尚な批評家だから絶対に安全だと、根拠のない特権意識で自分を慰めていた。
しかし、現実は違った。
インターネットという透明なマントは、権力と法律という名の強力なライトに照らされれば、いとも簡単に透けてしまう薄布に過ぎなかったのだ。
IPアドレス、タイムスタンプ、プロバイダの契約者情報。
見えないはずの私の足跡は、電子の海に泥のようにべっとりとこびりついており、あの巨大な権力者たちは、数万という有象無象の匿名アカウントの中から、私という主犯の首根っこを正確に掴み取ったのだ。
そして、このカビ臭い六畳間のアパートのドアを、物理的な手紙でノックした。
お前は神でも幽霊でもない。
ただの三十代の無職の女であり、これから莫大な損害賠償を請求され、社会的に完全に抹殺される犯罪者なのだと。
紙の束が、バサリと音を立てて私の手から滑り落ちた。
床に散らばった白黒のスクリーンショットが、まるで私を処刑するためのギロチンの刃のように、暗い部屋の中で冷たく光っていた。
床に散らばった白黒のスクリーンショット。
私の目には、それが自身の死刑執行書のように見えた。
いや、違う。
私は首を激しく横に振り、床に散らばった紙の束から目を逸らした。
恐怖のどん底に突き落とされた私の脳髄は、自らの精神崩壊を防ぐために、猛烈な勢いで防衛本能を作動させ始めた。
恐怖は、数秒後にはドロドロとした黒い怒りと屈辱へと変換されていた。
「……ふざけるな」
掠れた声が、六畳間に響く。
言論弾圧だ。
巨大な資本と権力を持つ芸能事務所が、自分たちにとって都合の悪い真実――パワハラ、ファンへの搾取、傲慢な態度――を隠蔽するために、正義の告発者である私を、暴力的な法的措置で黙らせようとしているのだ。私が提示した比較の生贄である真面目な若者たちを日陰に追いやり、不正な手段で富を独占し続けるために。
彼らは、痛いところを突かれたからこそ、こうして狂犬のように牙を剥いてきたのだ。私の批評が完全に的を射ていたという、何よりの証明ではないか。
私は震える足でデスクに向かい、休眠状態になっていたノートパソコンの電源を叩きつけるように入れた。
起動するまでの数秒間が、永遠のように長く感じられる。
早く、早く立ち上がれ。
私には八万人の味方がいるのだ。私の言葉を神の啓示のように待ち望み、共にNONELという巨悪と戦ってきた、誇り高き正義の軍隊が。
この卑劣な脅迫状をタイムラインにさらし上げ、事務所が批判者を不当に訴えようとしている、真実を隠蔽しようとしていると告発すればいい。そうすれば、八万人のフォロワーたちが一斉に蜂起し、あの悪徳事務所やスポンサー企業に向けて、さらなる大炎上の渦を巻き起こしてくれるはずだ。彼らの抗議の電話やメールが殺到すれば、事務所側も炎上を恐れて、私への開示請求など取り下げるに違いない。
そうだ、私は一人ではない。
私は世論そのものなのだ。
画面が青白く光り、いつものようにブラウザが立ち上がる。
私はキーボードに両手を乗せ、荒い息を吐きながら、新しいポストの作成画面を開いた。
『速報。NONELの所属事務所から、信じられない言論弾圧の通知が届きました。彼らは自らのコンプライアンス違反やファンへの搾取を反省するどころか、問題提起をした一市民を法的に脅迫し、真実を闇に葬ろうとしています』
指先が、怒りと興奮でカタカタと震える。
『彼らが私に送りつけてきた開示請求の書類は、巨大な資本が個人の正当な批評を暴力で封殺しようとする、民主主義への重大な挑戦です。皆さん、どうか力を貸してください。このまま私が潰されれば、彼らの腐敗したシステムは永久に守られてしまいます。拡散をお願いします』
そこまで打ち込んだところで、私の指が、まるで石膏のように硬直して動かなくなった。
本当に、これを送信していいのか?
視界の端で、床に散らばった発信者情報開示に係る意見照会書の白い紙面が、ギロチンの刃のように冷たく光っている。
もしこれを投稿し、書類の写真をアップロードすれば、私は自らGhost In the Roomというアカウントの持ち主が、この書類を受け取った本人であることを大々的に認めることになる。それは、万が一裁判になった際、彼らにとってこれ以上ない決定的な証拠を与えてしまう行為なのではないか。
そして何より、私の脳裏に冷たく、絶対的な現実が閃いた。
八万人のフォロワーは、本当に私を助けてくれるのか?
数日前、四万人のフォロワーを持ち、私と同盟を結んでいたはずの黒曜が、開示請求に怯えて謝罪ポストを投稿した時の光景が、フラッシュバックのように蘇る。
彼の信者だったはずの連中は、彼を守るどころか、ダサすぎ、訴えられて人生終わればいいよと一斉に彼に石を投げ始めたのだ。
彼らは、ただの有象無象だ。
私が提供した正義という名の娯楽を、安全な匿名という名の客席から、ただ傍観し消費していただけの、顔のない群衆。
私が実際に訴訟の標的にされ、血を流していると知れば、彼らは助けようなどとは思わない。むしろ、教祖が権力に潰されるという新しい、より刺激的な娯楽として、嬉々として私を消費し尽くすのではないか。
私はただ見ていただけだ、あいつが勝手にやったことだと蜘蛛の子を散らすように逃げていき、最後には、焼け焦げた私の死体に向かって唾を吐きかけるに決まっている。
カチ、カチ、カチ。
壁掛け時計の秒針の音が、異様なほどの大きさで耳に響き始めた。
六畳間の澱んだ空気が、急に重力を増したように私の肩にのしかかってくる。
私は、ネットの海に隠れて、高みから愚民どもを操っている神のつもりでいた。
しかし、神の座から一歩でも現実の泥濘へと引きずり下ろされれば、私には彼らを統率するいかなる強制力も、権力も、金も存在しない。
ただの、無職で、家賃を滞納している、孤独な三十代の女だ。
プロバイダからの書類には、貴殿の情報の開示に同意するか否かという回答期限が記されていた。二週間だ。
二週間以内に、法的な根拠を持った回答書を提出しなければ、プロバイダは事務所側に私の氏名、住所、電話番号をすべて開示する。
そうなれば、どうなる?
内容証明郵便が届く。損害賠償請求。
アイドルグループのドームツアーに泥を塗り、スポンサー企業を動揺させた業務妨害の代償は、いくらになる?
数百万? いや、数千万かもしれない。
貯金残高が数千円しかない私が、どうやってそんな大金を払うのだ。
自己破産か? しかし、悪意のある不法行為による損害賠償は免責されないというネットの知識が、呪いのように脳裏をよぎる。
一生、死ぬまで、あの傲慢なアイドルたちのために、私は自分の労働力を搾取され続けるのか。
私はバックスペースキーを長押しし、打ちかけた告発の文章をすべて消去した。
文字が一つ、また一つと消えていくたびに、私の全能感が音を立てて崩れ落ちていく。
モニターの青白い光が、今はただ、私の惨めな肉体を残酷に照らし出すだけの、取調室のサーチライトのように感じられた。
私は両手で顔を覆い、胃の奥からせり上がってくる、重く、どす黒い現実への恐怖に、声もなく嘔吐するように震え続けた。
涙すら出なかった。ただ、カタカタと自分の奥歯が鳴る音だけが、部屋の中に虚しく響いていた。
結局、私はあの休日の午後、何時間も痙攣する指を無理やり動かして、ひとつの短いポストを投下した。
『巨大な資本と権力が、不都合な真実を語る個人の口を暴力的な手段で塞ごうとしている。私は決して屈しない』
具体的な開示請求の事実には一切触れず、しかし私の窮状を匂わせる、悲痛なSOSのつもりだった。
私が具体的に助けてと書かなくとも、八万人のフォロワーたちが私の危機を敏感に察知し、Ghost In the Roomを守れ、権力の弾圧を許すなと、あの事務所に向けて一斉に声を上げてくれるはずだ。彼らこそが、私が手塩にかけて育て上げた、無敵の軍隊なのだから。
私はその細い、クモの糸のような希望にすがりつきながら、右下の送信ボタンをクリックした。
カチッ。
それは、神が放った啓示などではなく、溺れかけた人間が水面から突き出した、惨めな一本の腕でしかなかった。
送信ボタンをクリックした直後、私は息を止め、モニターに張り付くようにして画面左端の通知アイコンを見つめた。
数秒の沈黙が、ひどく長く感じられた。
これまでなら、私が何かを呟けば、一瞬にして数十、数百といういいねやリポストが雪崩のように押し寄せてきた。私が提示する正義のシナリオに、彼らは飢えた獣のように飛びついてきたはずだ。
チカッ、と。
ベルのアイコンに、赤い通知マークが点灯した。
私は震える指でマウスを操作し、その通知を開いた。
最初についた一件の引用リポスト。それは、これまで私の軍隊としてNONELを共に攻撃していた、見覚えのあるアカウントからのものだった。
『なんか急にポエム? もしかして開示請求でもされた?w』
「……え?」
私の口から、間抜けな声が漏れた。
そのたった一文に込められた、凍りつくような冷笑。私を心配するでもなく、共に権力と戦おうと蜂起するでもなく、ただ純粋に、私の窮状を安全圏から指差して嘲笑う言葉。
ドクン、ドクン、と心臓の鼓動が急激に早まる。
そこからの連鎖は、かつての炎上がそうであったように、信じられない速度で私のタイムラインを埋め尽くしていった。しかし、今度の炎の標的は、アイドルではなく、このGhost In the Room自身だった。
『ざまぁ。前からこいつの叩き方、異常だと思ってたんだよな』
『黒曜さんが消えた直後にこれって、完全に答え合わせじゃん。逃げんなよ』
『正義面してたけど、ただの業務妨害じゃん。訴えられて当然。震えて眠れ』
『私は最初からやりすぎだと思ってました。ファンとして一緒にされたくないです』
画面をスクロールするたびに、私の網膜を冷酷なテキストが次々と突き刺してくる。
嘘だ。
私は、カチカチと小刻みに震える手でマウスを握りしめながら、声にならない悲鳴を上げた。
お前たちは昨日まで、私の言葉を正論だ、よく言ってくれたと称賛し、私と一緒に石を投げて遊んでいたではないか。私が提示した比較の生贄に飛びつき、私が捏造したドーム公演のレポートを真実だと信じ込み、嬉々として群がって貪り食っていたのはお前たちだ。
それなのに、いざ法律という現実の刃がちらついた瞬間、彼らは蜘蛛の子を散らすように逃げ出し、あろうことか、これまで担ぎ上げていた私に向かって、一斉に石を投げ始めたのだ。
私は、信じたくない現実を突きつけられていた。
私は彼らにとって、社会を導く高潔な教祖でも、正義の代弁者でも何でもなかった。
ただの、無料の娯楽だったのだ。
他人が燃やされるのを見るのも楽しいが、火をつけた本人が延焼して泣き叫ぶ姿を見るのはもっと楽しい。誰かが破滅していく過程を、自分には絶対に火の粉が降りかからない安全な客席から、ポップコーンを食べながら眺める。それが、匿名という仮面を被った群衆の、醜悪で純粋な本性だった。
私が神の視点だと思い込んでいたものは、単に彼らが私を盤上で踊らせるために与えていた、安っぽいお立ち台に過ぎなかったのだ。
『はやく開示されて本名と顔晒されないかなー。どうせ引きこもりのオバサンでしょw』
その一文を見た瞬間、私の精神を辛うじて支えていた最後の糸がプツンと切れた。
彼らはもう、私が何者であるかすら見透かしている。私が構築した論理的で高尚な批評家という仮面は完全に剥がれ落ち、底辺を這いずる惨めな三十代の女という現実の姿が、電子の海に透けて見えているのだ。
画面右上に表示されているフォロワー数のカウンターが、視覚的な恐怖となって私を襲う。
八万人まで膨れ上がっていた数字が、一秒ごとに数十人、数百人という異常な単位で激減していく。パラパラと砂時計の砂が落ちるように、私から力が失われていく。
私はたまらずマウスを握る手を離し、両膝を抱えて万年床の上にうずくまった。
カタカタと、自分の奥歯が鳴る音が聞こえる。
寒い。部屋の空気は淀んで生暖かいのに、内臓の芯から完全に凍りついていくような感覚だった。
どうすればいい。どうすれば。
弁護士を雇わなければならない。開示を拒否する理由書を書かなければならない。
法律の専門家に相談し、あの巨大な芸能事務所の弁護団に対抗する手段を講じなければ、私は完全に社会的に抹殺される。
だが、金がない。
私の全財産は、擦り切れた通帳に記された三万円足らずの残高と、財布の中の数千円だけだ。無料の法律相談に出向いたところで、私を助けてくれる正義の味方などいるはずがない。
「これだけ悪質だと開示は免れない。相手の要求を飲んで、和解金を準備した方がいい」と、事務的で冷たい言葉を投げかけられるのがオチだろう。
和解金。
あのドームツアーを邪魔し、スポンサー企業を動揺させた代償。
数百万か、あるいは一千万か。
そんな大金、一生かかったって返せるはずがない。スーパーのレジ打ちも、物流倉庫の仕分けもクビになった私に、そんな金を稼ぐ能力などどこにもないのだ。
私は、社会を論評する気高い批評家などではなかった。
ただの、明日の家賃にも事欠き、電気代の支払いに怯える、惨めで孤独な三十代の非正規労働者だった。
その肉体的な事実が、インターネットの虚飾という薄皮を無残に突き破り、どす黒く、圧倒的な質量を持って、私を上から押し潰そうとしていた。
「ああ……あああ……っ!」
私は毛布を頭から被り、誰にも届かない悲鳴を上げながら、ガタガタと震え続けた。
床に散らばった開示請求の書類が、暗闇の中で、私を確実な死へと手招きしているように見えた。
毛布の中でどれほどの時間を震え過ごしただろうか。
寒さと飢えで感覚が麻痺し始めた頃、私は這うようにして万年床から抜け出し、床に散らばったままになっていた発信者情報開示に係る意見照会書を拾い集めた。
一枚、一枚と紙を重ねるたびに、指先がひどく冷たく、強張っていくのを感じる。
白黒で印刷された私のポストの数々。現場での捏造レポート、家族への誹謗中傷、口パクの断定。ネットの海で正義の鉄槌として振り下ろしたはずの言葉たちは、こうして無機質なA4用紙に印刷され、法的な証拠として突きつけられると、ただの悪意に満ちた醜悪な妄想にしか見えなかった。
私はすがるような思いで、スマートフォンの検索窓に震える指で単語を打ち込んだ。
『開示請求 無視』『開示請求 弁護士費用 払えない』。
画面に表示される法律事務所のコラムや、過去に同じような請求を受けた人間たちの体験談を、血走った目で貪り読む。しかし、そこに書かれている現実は、私をさらなる絶望の底へと突き落とすものばかりだった。
『意見照会書を無視、あるいは理由なく開示を拒否した場合、プロバイダはほぼ確実に情報を開示します』
『開示を防ぐための弁護士費用の相場は、着手金だけで数十万円。さらに損害賠償請求の裁判に発展した場合、数百万円の賠償金に加えて弁護士費用が重くのしかかります』
数十万円。数百万円。
画面越しのその無機質な数字が、私の喉元をギリギリと締め上げる。
私の現在の全財産は、財布の中に入っている三千円と、通帳に残された数千円だけだ。
着手金どころか、都心の法律事務所に無料相談へ行くための往復の電車賃すら、今の私にとっては命を削る出費なのだ。スーパーも物流倉庫もクビになり、来月の収入の見込みは完全にゼロ。
「どうして……どうして私が、こんな目に遭わなきゃいけないのよ……!」
私はスマートフォンを万年床に放り投げ、両手で髪を掻きむしった。
悪いのは彼らではないか。あの傲慢で、ファンを金蔓としか思っていないアイドルたち。彼らがテレビの向こう側で不当に莫大な富を貪り、私のような人間がスーパーのレジ打ちで理不尽に怒鳴られ、時給千円で使い捨てられている。この狂った世界の構造を正そうとしただけなのに。
彼らは何億円も稼いでいるくせに、どうして明日のパンを買う金すらない私から、さらに数百万もの金を毟り取ろうとするのだ。
論理のすり替えと、歪んだ被害妄想。
しかし、いくら頭の中で他責の念を燃やし、自分が正しいと叫んだところで、現実の法律は私のそんな個人的なルサンチマンなど一切考慮してくれない。資本主義の頂点に立つ彼らは、最も強力で冷徹な弁護士という暴力装置を金で雇い、私を完全に物理的にすり潰しにきているのだ。
ジリリリリリリッ!
再び、インターホンのベルが鳴り響いた。
今度はベルの音だけではない。ドンドン、と、ドアを蹴り破らんばかりの強い衝撃音が続く。
「おい! いるんだろ! 電気のメーター回ってんのわかってんだよ! いい加減に家賃払え!」
大家の怒鳴り声だった。
ネットの世界で巨大な芸能事務所から数百万の賠償金を請求されようとしているまさにその瞬間、現実世界では数万円の家賃を滞納して大家からドアを蹴られている。
なんという滑稽さだろうか。
数日前まで、自分は世界を動かす神だと思い込んでいた女の、これが真実の姿なのだ。
「……ひっ」
私は声を殺し、両手で口を強く塞いだまま、部屋の隅へと後ずさりした。
外の光が差し込まないように、カーテンの隙間をガムテープで塞ぎたい衝動に駆られる。この湿気とカビに侵された密室だけが、私の肉体を守る唯一の防空壕だった。だが、その防空壕のドアも、今まさに外からの物理的な暴力によって破られようとしている。
「警察呼ぶぞ! 不法占拠だかんな!」
大家の怒声が遠ざかり、階段をドスドスと下りていく音が聞こえた。
私は床にへたり込み、荒い息を繰り返した。
もう、逃げ場はない。
ネットの世界では、七万人に膨れ上がったフォロワーたちが私を血祭りにあげようと待ち構えている。現実の世界では、大家と弁護士が私の首に縄をかけようと迫ってきている。
私は、床に落ちていた意見照会書の同意欄を見つめた。
同意するに丸をつければ、私の個人情報はあの事務所に渡り、数週間後には莫大な賠償金を請求する内容証明郵便が届く。
同意しないに丸をつけても、私にはそれを法的に防御する金も知識もないため、結局はプロバイダが情報を開示し、結果は同じになる。
詰みだ。
将棋盤の上で、私の王将は完全に包囲され、どこへも逃げられない状態になっていた。
私は虚ろな目で、机の上のノートパソコンを見上げた。
画面はスリープ状態になり、真っ暗になっている。その黒い液晶画面に、髪を振り乱し、頬が痩せこけ、絶望に顔を歪ませた女の顔が反射していた。
これがGhost In the Roomの正体。
部屋に潜む幽霊が、法律という名の強烈な光を浴びせられ、惨めな肉体を持って受肉した姿。
私は立ち上がり、ふらつく足取りでパソコンの前に座った。
もう、私に残された道は一つしかなかった。
冷え切った指先で、ノートパソコンのトラックパッドをなぞる。
スリープ状態から復帰したモニターが、パッと青白い光を放ち、私の顔を無慈悲に照らし出した。画面に表示されたままになっていたのは、Ghost In the Roomのタイムラインだ。
私が床に這いつくばって絶望している間にも、ネットの時間は冷酷に進み続けている。通知のアイコンはまたしても新たな数字を積み上げていたが、そこに並んでいるのは、もはや私を称賛する信者たちの祈りではない。私を石で打ち据え、引きずり下ろそうとする暴徒たちの怒声と嘲笑の濁流だった。
『開示請求から逃げられると思うなよ』
『いまごろ部屋でガクブルしてるんだろうなー。飯ウマすぎる』
『はやく本名晒されて社会的に死んでほしい』
文字の羅列が、鋭利な刃物となって私の網膜を切り裂く。
数日前まで、私はこの場所で彼らを率いる神だった。私が指を差せば、彼らはNONELという偶像に向かって嬉々として火を放った。しかし、いざ私が権力という巨大な壁にぶつかり、血を流し始めた途端、彼らは手のひらを返し、今度は私を火あぶりにするための薪をくべ始めている。
彼らにとって、私は正義の代弁者などではなかった。
コロッセオで見世物にされる剣闘士と同じだ。猛獣を倒している間は歓声を送るが、いざ猛獣に喉笛を噛み千切られそうになれば、その流血を見てさらに熱狂し、親指を下に向ける。それが、匿名という安全圏から他人の人生を消費する大衆の、グロテスクで純粋な本性だった。
私は、もはやこの画面を見続けることに耐えられなかった。
私の築き上げた正義の玉座は、今や私自身を処刑するための断頭台へと変貌してしまったのだ。
震える手でマウスを動かし、画面右上の歯車のアイコンをクリックする。
アカウントの設定画面。一番下までスクロールすると、そこにアカウントを削除するという赤文字のリンクが、ひっそりと、しかし決定的な意味を持って表示されていた。
マウスポインタを、その赤文字の上に合わせる。
これを押せば、どうなるのか。
八万人のフォロワーも、私がこれまで紡ぎ出してきた数々の高尚な批評も、すべてが電子の海から完全に消え去る。私は再び、誰からも見向きもされない、透明で無価値な何者でもない女に戻る。
だが、アカウントを消したからといって、私の犯した罪が消えるわけではないことを、今の私は嫌というほど理解していた。
プロバイダのサーバーには、私がNONELのライブに潜入した日のIPアドレスも、家族を中傷した瞬間のタイムスタンプも、すべてが物理的なログとして強固に保存されている。私がこの画面上でどれだけデータの残骸を消し去ろうとも、あの巨大な法律事務所の弁護士たちは、すでに私の実名と、このカビ臭いアパートの住所を特定する手続きの最終段階に入っているのだ。
ネット上の幽霊を殺しても、現実の肉体は逃げられない。
それでも、私はもう、この狂乱の客席から投げつけられる石に耐えることができなかった。
承認欲求という甘い麻薬は完全に効果を失い、後には致死量の毒だけが全身に回っている。
「……さようなら」
乾ききった唇から、誰に向けるでもない掠れた声が漏れた。
私は目を強く閉じ、人差し指に力を込めてクリックした。
『本当にアカウントを削除しますか? この操作は取り消せません』
無機質な確認のポップアップが表示される。
躊躇いはなかった。私は再び、マウスをクリックした。
タァン。
乾いた音が六畳間に響いた直後、画面がフッと切り替わった。
ログイン画面の、のっぺりとした初期ページ。
八万人の熱狂も、数万件の呪詛も、私が世界を動かしているというあの万能感も、すべてが一瞬にしてブラックアウトした。
Ghost In the Roomという、私がこの世で唯一持っていた絶対的な輪郭は、電子の海の底へと完全に水没し、二度と浮上することのない無へと帰したのだ。
部屋には、パソコンのファンの低い回転音だけが残された。
私は背もたれに深く寄りかかり、天井のシミを見上げた。
終わったのだ。
いや、違う。ネットの虚構が終わっただけで、ここからが本当の地獄の始まりだった。
視線を床に落とすと、大家が蹴り飛ばしていったドアの振動で少し位置がずれた発信者情報開示に係る意見照会書が、依然としてそこに散らばっている。
これは幻ではない。私がどれだけ目を背けようとも、確実に私の人生を物理的に破壊しにくる、現実の紙の束だ。
家賃は払えない。仕事もない。全財産は数千円。
そして数週間後には、弁護士から莫大な損害賠償を請求される内容証明郵便が、このポストに投函される。
私は、ゆっくりと両膝を抱え、冷え切ったフローリングの上でうずくまった。
空腹で限界を超えた胃袋が、キュウウと惨めな音を立てる。
私は、自分が安全な部屋の中から、ガラス越しに石を投げている無敵の幽霊だと信じ込んでいた。だが、私が投げた石は巨大な権力の逆鱗に触れ、彼らはそのガラスをハンマーで粉々に叩き割って、私の脆弱な肉体をぐらりと引きずり出したのだ。
受肉した幽霊は、もはやネットの海を漂うことはできない。
ただ、剥き出しの現実という名の重力に押し潰され、呼吸困難に陥りながら、泥にまみれて這いつくばるしかない。
カタカタと、自分の奥歯が震える音が、静寂の六畳間にいつまでも虚しく響き続けていた。




