第五話
「あなたにできること、あるいはできると夢見ることがあるなら、始めなさい。
大胆さには、才気と力と魔法が宿っている。」——ゲーテ『ファウスト』に基づく言葉
私の人生は私のもので、私の人生は一度しかない。
*
羽田空港での北条親子の別れは、じつにあっさりとしたものだった。今生の別れというわけでもない。幼少時から海外旅行にもよく慣れ、短期の交換留学にも何度か参加したことがあるというルリだから、送り出す両親のほうも、そういう意味ではさほど心配していないのだろう。
実際、空港でのルリの様子を見ていても、危なっかしさがない。「一から十まで面倒を見てやらなければ」と思っていたカインが、拍子抜けするほどの余裕である。
『何かついている? 俺の顔に?』
搭乗待ちのラウンジで、二人はついに、ピアノもヴァイオリンもなく長い時間を過ごすはじめての機会を得た。これまではピアノとヴァイオリンが介在するか、あるいは別の人間がそこにいた。今、二人は本当に二人きりで、ここにいる。
『――空』
『空?』
『空に似ていると思って』
生来の気質のためか、あるいは育った環境のためか、ルリの纏う空気には卑屈さがない。最初は確かにあったはずの緊張も、わずかな時間でほどけ、ルリは物怖じせずにカインに話しかけるようになった。
『あなたの目が』
ほら、というようにルリが窓の外の青空を指さす。七月の終わり、夏らしい青い空が広がっていた。自分の眸が彼女にはこの空のように見えているというなら、なるほど悪くないなとカインは思った。
『すごくきれい』
彼女はにこにこしている。照れもなく、阿りもない、ただ感じたことをそのまま言葉にしたといったふうである。十五という歳のわりには少し美しすぎるといっていいような大人びた顔立ちだが、こうして笑っていると、じつに可愛らしい。さほど長い時間を持たずして、カインは、ピアノの前を離れたルリにもまた、好感をもった。
容姿、身分、経済力に権力――自分自身が持っているものの大きさを、カインはよく自覚している。媚び、へつらい、嫉妬、打算、そういったものと無縁ではいられずに生きてきたし、これからもそうだろう。だがルリはおそらく、カインのヴァイオリンをひたむきに求めているだけだ。カインの持つ身分など知りもしないだろうし、容姿に惑わされるような気配もない。
――快適だ。カインにとって、肌が触れるほど近くに置いてなおそう感じる相手は、ほとんどいない。
金銭感覚にあまり差がないというのも、嬉しい誤算だった。彼女はカインが思っていた以上に質のよいものに慣れているし、質のよいものを選ぶことにも慣れていた。かといって、金持ちのお嬢さま然としているわけでもない。
乗りこんだ飛行機のアッパーデッキでも、
『わあ、二階ははじめて!』
と目を輝かせる一方で、過度な遠慮も要求もせずにビジネスクラスのサービスを受け入れている。春の花が開いたような笑顔で、都度「ありがとう」と言うものだから、客室乗務員たちの笑顔も自然と増え、ルリをとりわけ気にかけてくれているような様子さえあった。この調子では、カインがすっかりルリから目を離したとしても、彼らが何くれとなくルリの世話をしてくれるに違いない。
『なに?』
というように、仔牛肉のソテーを口に運ぼうとしていたルリが、手をとめてこちらを見る。いいや、とカインは視線で食事を続けるように促した。先ほどから眺めているかぎり、テーブルマナーも文句なし。こういう場での振る舞いがきちんと身についている。
(この調子なら)
と、カインは考えを巡らせはじめた。
カインは多忙な音楽家であるが、大学の夏期休暇にあわせて、毎年仕事の量を抑えることにしている。イングランドの家族とともに、あるいはそこに婚約者の家族も加えて、一週間程度のバカンスを過ごすためである。今年はさすがにそれを見送らねばならないだろうと思っていたが――。
(これなら彼女も連れていっていいんじゃないか?)
ロウェル家といえば、イングランドに古くから続く侯爵家である。当然ながら婚約者もそれに見合った家柄の娘で、そんな貴族の両家が集まる場に、日本から来たばかりの十五歳の少女を放りこむわけにはいかないと思っていた。
言葉に出してこそいないが、ルリがこれからいく道は、けっして歩きよいものではない。英国貴族でもある有名ヴァイオリニストが見初めてドイツへ連れてきた、アジア人の少女。彼女の持つ、ピアニストとしての並外れた天賦の才。もしルリがこのままドイツへの進学を決断すれば、醜い嫉妬と憎悪と差別とが、彼女を取り囲み、そして容赦なく攻撃するだろう。じつはカインには、そうと知っていながらルリを誘惑したという小さな罪悪感がある。できることなら、自分以外にも彼女を守ることのできる、確実な何かがあればいい。そう考えていたところだった。しかもありがたいことに、ロウェル家には貴族にしてはめずらしく差別意識の薄い人たちが多い。一定の品位を保ってさえいれば、「次男坊が惚れこんで連れてきた音楽家」をむげに排除することはないだろう。英国でも屈指の名門侯爵家であるロウェル家の人々に「庇護すべき存在である」「慈しむべき存在である」と認められれば、カインとしてもこれほど心強いことはない。
『美味しい?』
ルリはやはりにこにこしながら、「うん」と言う。見る人の心が穏やかになるような笑顔だ。オリヴァーが言ったとおり、この子の無垢な心と暮らしを何としても守らなければならないとカインは思った。
*
ヴァイオリンを持たないカイン・ロウェルの魅力というものを、流麗ははじめて知った。流麗は、カインの空のような双眸をすぐに好きになった。
彼はいろいろな話をしてくれた。東京公演の曲目の中で、いちばん好きなのはエルンストだったとか。あるいは日本に来るといつも楽しみなのは、神田で食べる蕎麦だとか。『松田楽器店』でルリのピアノを聴いたあの瞬間から、ずっとドイツに連れて帰りたいと思っていたとか。ドイツに帰ったら、一緒にフランクのヴァイオリン・ソナタを弾いてみたいとか。低く柔らかいカインの声は耳に心地よく、どれだけ話していても飽きることがなかった。
二人はフランクフルトまでの十四時間を、よく食べ、よく語り、よく眠って過ごした。
――ともかく、ドイツは遠かった。フランクフルトで乗り継いで、ようやくベルリンに到着したときには、すでに二十二時を過ぎていた。到着ロビーを出ると、日本の夏とはまるで違うひんやりとした夜気が、流麗の肌を撫でた。
『もうすぐ迎えが来るよ』
遠かったね、疲れただろう、とカインが微笑んでいる。右手に自分の小さなスーツケース、左手に流麗の大きなスーツケース。きっとカインも疲れているに違いない。
迎えにやってきたのは、ロウェル邸を管理しているというトーマス・ベネットである。六十になるかならないかというくらいの、白髪混じりの優しげな男性である。トーマスは穏やかに微笑んで、『Welcome to Berlin, Miss HOJO』、そう言ってから、てきぱきと荷物を車に積みこんでくれた。
『よろしくお願いします、トーマスさん』
もともとはイングランドのロウェル邸で庭師として働いていたが、カインがドイツへ生活拠点を移すことになったときに、邸宅の管理と生活全般の世話のため、彼に従ってドイツへやってきたのだという。雇用主はカインではなく、現在のロウェル家当主――つまりカインの父親であるらしい。
車はしばらく高速道路を走っていた。もう二十三時になるというのに、西の空にはうっすらと群青色のゆらめきが残っている。中学生のころに語学研修で訪れたイングランドの夏も、こんなふうだった。
(あそこがカインの故郷だったんだなあ)
あのころはまだ、何も知らなかった流麗である。
『もうすぐ着くよ』
しばらくして、カインが言った。窓の外をあらためて見ると、いよいよ道は暗く、木々が増えて森のようになっている。
『何もない場所だが、景色はきれいなんだ。明日は、のんびり散歩でもしようか』
石造りの門柱と、そのあいだを閉ざす黒い鉄柵の門が、ヘッドライトの中にぼんやりと浮かびあがる。トーマスが小さなリモコンのようなものを操作すると、その門が左右に開いた。門の先にもまだ道が続いている。やがて長く続いた木立が途切れ、その向こうにおそらくは二階建てと思われる大きな家が現れた。落ち着いたオークブラウンの外壁、縦に長い窓が規則正しく並び、あたたかなオレンジ色の灯かりがともっているのが分かる。おとぎ話に出てきそうなこのロウェル邸を、流麗は一目で気に入った。
そうして車は、左右対称の端正なファサードの前で静かに停まった。
玄関ホールに入ると、コンサートホールで見るような赤い絨毯張りの大階段が目に飛びこんでくる。二人の部屋はどちらも二階、小さく半円を描くようにしてその大階段を上がったホールの右手にカインの部屋が、左手に流麗の部屋が位置していた。
『もうこんな時間だけど、よければ寝る前にハーブティーでも飲もうか』
カインがそう言ったのは、流麗が機内でぐっすり眠ることができたのを知っているからだろう。流麗は頷いた。
『じゃあとりあえず楽な服装に着替えたら、降りておいて。寝間着でもかまわないよ』
『では私がルリ様をお連れしましょうね』
と言ったのは、マーガレット・ベネット。トーマスの妻で、ロウェル邸の家政全般を任されているという年配の女性である。『さあ、カイン様、あなたも着替えてリビングに降りていらしてくださいな』というマーガレットに、カインは『ずいぶん生き生きしているじゃないか』と苦笑いしながら、しかし素直に自室へと引きあげていった。
流麗に与えられたのは、想像していたよりも広々とした洋室だった。壁はやわらかなアイボリー、家具はどれも古めかしい木製のもので揃えられている。大きなベッドには淡いローズ色のカバーが掛けられ、クッションやカーテンにも小さな花柄が散っていた。壁際には、大きなオーク材のワードローブとチェスト。窓辺には深紅の布地の、一人掛けのソファがある。
『わあ、素敵……。ありがとうございます』
ふふ、とマーガレットは茶目っ気たっぷりに笑った。
『可愛らしいお嬢さんがいらっしゃると聞いてね、私ったらはしゃいでしまって。気に入ってくださったかしら?』
『もちろんです!』
『何かご入用のものがあったら、どんな小さなことでもかまいませんからね、遠慮なくおっしゃってくださいましね』
ロウェル家は皆さま男の子が多くていらして、私、女の子のお世話をしたかったんですよ、本当は――そういうようなことを無礼でない程度に語ることで、マーガレットは流麗の気持ちをほぐそうとしてくれているようだった。着替えまで手伝ってくれそうな雰囲気だったがそこは遠慮して、流麗は黒いフーディーだけを羽織り、マーガレットとともに階下のリビングに向かった。
一階はといえば、玄関ホールを挟んで北側にサロンと音楽室が、南側にリビングやダイニング、パントリーなどがある。『また明日以降にゆっくりご案内しましょうね』と言いながらも、マーガレットは一通りさらりと邸内を案内してくれた。ベネット夫妻は、一階のパントリー横から続く短い渡り廊下の向こう、大昔は馬車小屋だったという石造りの住居に住んでいるのだという。
『さあ、お掛けになって』
リビングのソファに流麗を座らせ、お茶を淹れるためにマーガレットがキッチンに姿を消したのとほとんど同時に、カインがやってきた。彼はクリーム色のサマーニットに着替えていて、それがまた品の良い美貌によく似合っている。
『部屋は気に入った?』
カインはごく自然に、流麗の隣に腰かけた。一つ一つの所作が、奏でるヴァイオリンの旋律と同じように美しい。
『とても。準備してくれて、本当にありがとう』
『日本に帰りたくないと思ってもらわなきゃならないからな』
そう言って彼はウインクを――日本人がやろうと思ってもできなさそうな、見事なウインクをしてみせた。
(こんなお手本みたいなウインク、はじめて見た)
と、ちょっと妙なところで感動した流麗である。
マーガレットがカモミールティーを運んできたところで、雑事を片付けたらしいトーマスもリビングへやってきた。
『二人とも座ってくれ。あらためて紹介しておく』
カインはベネット夫妻を席に着かせた――こちらはRURI HOJO、日本からやってきたピアニストだ。ドイツ語はまったく話せないが、英語なら問題なく意思疎通ができる。一人でできることも多いが、なにぶんたった十五歳なので、とにかく彼女の身の安全と心身の健康に気を配ってもらいたい。夏の休暇中ここに滞在するから、暮らしやすいようにいろいろと整えてやってくれ。俺の妹と思ってくれていい、そのほうが世話もしやすいだろう――そういうようなことを、カインはベネット夫妻に説明した。
『よろしくお願いします。迷惑をかけることも多いと思うんですけど、頑張るので、いろいろ教えてください』
深々と頭を下げると、ベネット夫妻はとても嬉しそうに微笑んで頷いてくれた。
ドイツに到着した日の夜は、そんなふうにして過ぎていった。
翌朝、明るい陽射しに目を覚ますと、部屋の大きな窓の向こうに広々とした湖がひらけていて、流麗はひどく感動した。昨夜は暗くて見えなかった景色が、こんなにすばらしいものだったとは。調べてみると、眼前の湖はヴァンゼー湖というらしい。湖面がきらきらと輝き、爽やかな夏の風が庭の木々を揺らしていく。
「……きれい」
時計の針はまだ朝の六時を指していたが、慣れない異国でやはり神経が冴えているのか、眠くはなかった。疲れもそれほど感じていない。
朝食は九時、ダイニングでカインとともに。バスルームは午後三時から五時までを清掃時間をしているので、その時間帯をはずせばいつでも使っていいと言われている。もしもその時間に使いたい場合は、マーガレットに言えばいいとのこと。また、音楽室の扉さえ閉めれば、ピアノは二十四時間いつでも弾いていいのだそうだ。「夜中の三時に急に思い立って弾きたくなるときって、あるだろう?」と、昨夜カインは言った。そう、確かにそういうときがある。
ともかく、流麗にはほとんどのことが許されている。ただひとつ、一人で湖に出るなということだけが厳命された。
流麗は、着替えて階下の音楽室に向かった。「夜中の三時に急に思い立って弾きたくなるときって、あるだろう?」――まさに早朝六時、今、窓の奥に広がるヴァンゼー湖のきらめきを見て、弾きたくなったのである。ひんやりと冷たい真鍮製のレバーハンドルを回して、両開きの扉を押し開けると、ちょっとした演奏会が開けそうな広々とした室内、床はまるで鏡面のように美しく磨かれ、はちみつ色に輝いていた。ヴァンゼー湖を右に眺められる位置に、スタインウェイのコンサートグランドが一台。ピアノの下にだけ豪奢なペルシャ絨毯が敷かれており、ピアノの正面と背面の壁にはしっかりとした書棚が取り付けられている。古びたものから新しいもの、おそらくヴァイオリン譜からオーケストラ譜と思われるものまで、作曲家名のアルファベット順にたくさんの楽譜が並んでいた。М――探してみると、すぐに目当ての英独併記のタイトルを見つけた。
――メンデルスゾーン『Auf Flügeln des Gesanges-On Wings of Song-』
小学生になるかならないかのころに流麗が数度弾いたことのある『歌の翼に』は、ピアノ用かつ平易に編曲された全音ピースのもので、ここの音楽室で見つけたものは、それとはまったく異なっている。
革張りのピアノ椅子に腰かけ、高さを調整する。譜面台に楽譜を広げ、深呼吸をひとつ。視線をわずかに右に流せばそれだけで、滴るような木々の緑ときらめくヴァンゼー湖。
(歌曲用の楽譜なんだ、これ)
静かなアンダンテ、美しい歌の翼に乗って、柔らかな旋律がさざめくように流れていく――。
*
思いのほか早くに目覚めたカインは、コーヒーを淹れようと階下に向かった。ルリは今ごろぐっすり眠れているだろうか、そう思いながら階段を下りたところで、ほんのかすかなピアノの音色を、彼の敏感な耳はあやまたずに捉えた。
(……ああ)
ルリが弾いている、とわかった瞬間、カインは思わず微笑んだ。昨夜、「音楽室は二十四時間いつでも使ってかまわない」「夜中の三時に急に思い立って弾きたくなるときって、あるだろう?」、そんなことを言ったばかりなのである。邪魔をしたくなかったので、カインはそっと音楽室の扉にもたれて、耳を澄ませた。メンデルスゾーンだ。
(弾きたくなったんだな)
爽やかな風ときらめく湖面を見て、滴るような夏の木々の緑を見て。
(鼻歌まで歌っている)
曲がほとんど終わったところでやっと、カインは音楽室の扉を押し開けた。
『カイン』
『おはよう』
『おはよう。もしかして私、起こしてしまったの?』
いいや、とカインは微笑んだ。
『コーヒーを飲もうを思って降りてきただけだよ。メンデルスゾーンの気分だったか?』
『うん。びっくりした。起きて窓の外を見たらね、湖が広がっていて、きらきらしていて……窓を開けて深呼吸をしたら木の匂いがして。それで、急にこの曲が思い浮かんで……』
一生懸命に話すルリが可愛らしい。あのピアノの音色を奏でられるなら、性格も容姿もどうだってよかったが、もちろんどちらも好ましいならそれに越したことはない。とにもかくにも、稀有な存在であると思う。
『どの楽譜を? ……ああ、歌曲の』
『私、日本の全音ピアノピース版しか見たことなくて』
『知っている? リストの編曲があるんだ』
カインが楽譜を探しはじめると、ルリも椅子から立ち上がり、引き寄せられるように隣に立った。はじめて出会ったときのような興奮や緊張は今はもうなく、まるで昔から隣にいたかのような自然体である。
『これだ。弾いてみるか?』
弾かないはずもない。再びピアノの前に座った流麗の指先は、わずかに迷いながら、しかし軽やかに鍵盤の上で踊っている。初見なのだろうが、驚くべきスピードで、その指が音楽をつかんでいくのがカインには分かる。一音もはずさない、というわけではないが、彼女が奏でるそれはやはり彼女らしい優しさときらめきに富んでいて、確かにカインの眼前に、歌の翼を広げて見せてくれた。
音楽室に置いてあるヴァイオリンを手早く調弦し、カインはすぐに音楽にすべりこんでいく。こちらを見るルリの眸が、楽しげに笑んでいる――。
Auf Flügeln des Gesanges, 歌の翼で
Herzliebchen, trag' ich dich fort, 愛しい人よ、私はきみを運ぶ。
Fort nach den Fluren des Ganges, ガンジス川の流れのかなたへ
Dort weiß ich den schönsten Ort. そこは美しいところと私は知っている。
ああ神よ、この少女と出会えたことの何たる僥倖か。




