第四話
『私たちは晴れやかに、一つの世界から次の世界へと歩んでいくべきなのだ。どこか一つを故郷として執着することなく。』――ヘルマン・ヘッセ――
夢には続きがあった。
五月十七日、カイン・ロウェルと幸福な時間を過ごしたあと、彼と彼のマネージャーとが、流麗をわざわざ横浜の自宅まで送り届けてくれた。「ご両親に挨拶をしようか」、というカイン・ロウェルの提案を丁重に断り(嘘をついて出かけてきていたこともあり、とてもそんな勇気が出なかったのである)、夢の時間もこれで終わりかと、涙をのんで彼らと別れた翌日のことである。
父・北条雅臣が、仕事から帰ってくるなり、「カイン・ロウェルと会ったなんて、そんな大事なことをおまえ……」、「なんで言わないの……」、「お父さんびっくりしたんだけど……」とひと呼吸ごとに情けない声を出しながら、ソファにへなへなと座りこんだのだった。
「え」
「え、じゃないよ、おまえねえ、今日大変だったんだよ、お父さんは」
母・北条綾乃も、何が起こったのか分からず、流麗とともにぽかんとして雅臣を見つめた。
「……うちの大学にね」
雅臣が教授として勤める大学は、日本最高峰として名高い藝術大学である。
「カイン・ロウェルのマネージャーを名乗る人から連絡が入って、僕に会わせてほしいと言ってきたわけ。ヴァイオリン科の学生の関係か、あるいは松田くんとこの弓の話か、そういう問い合わせかなと思ったらさ……」
たいへん素晴らしいタイミングで、綾乃が冷たいお茶のグラスを夫に差し出す。「ありがとう」と雅臣は一気にそれを飲み干して、言葉を続けた。
「……いいかい、流麗。今から僕がする質問に、端的かつ正直に答えてくれ」
流麗は曖昧に頷いた。
「端的かつ正直に、だよ」
「うん」
「おまえはピアノが好きか、嫌いか」
「好き」
「おまえは生涯ピアノを弾きつづけたいか、そうではないか」
正直に。
「……弾きつづけたい」
「カイン・ロウェルのヴァイオリンに惹かれているか、そうでもないか」
「惹かれている」
「もしも叶うなら、彼と一緒に音楽をやってみたいか、そうでもないか」
端的に、かつ正直に。
「…………やってみたい」
「彼と一緒に音楽をやれるなら、どこにでも飛んでいきたいと思う気持ちがあるか、ないか」
「えっ」
ついに流麗がつまずいた。
だが雅臣は、許してくれなかった。いつになく真剣な眸で流麗を見据え、曖昧な答えを許すつもりがない。
「多少なりともあるのか、それともまったくないのか」
――カイン・ロウェルと一緒に音楽をやれるのなら、どこにでも飛んでいきたいという気持ちがあるか、ないか? 「ない」と言ったら嘘になる。それどころか、今すぐにでも彼のもとに飛んでいって、「ヴァイオリンを聴かせて」「私のピアノと一緒にヴァイオリンを弾いて」「あなたのヴァイオリンと一緒にピアノを弾かせて」、そう言いたい。
「……ある」
雅臣はひとつ深呼吸をした。
「流麗、よく聞きなさい。カイン・ロウェルはこう言ったんだ。あなたの娘さんに、ドイツの音楽教育を受けさせてみるつもりはありませんか、って」
「え」
と言ったのは流麗で、
「僕と同じ音楽院で、娘さんと僕とが一緒に音楽をやれる未来を検討していただけませんか、だって」
そこで、
「え」
と言ったのは綾乃だった。
「…………」
北条家のリビングに、奇妙な沈黙が生まれた。雅臣のことばを、というよりはカイン・ロウェルのことばを、綾乃も流麗も瞬時には飲みこむことができなかったのだ。
「彼が在籍している音楽院を知っているか?」
頷く。ファルケンベルク音楽院ベルリンの大学部、とコンサートのパンフレットにも書いてあった。
「本当はそこの高等部におまえを誘いたいらしいんだけれど、そうはいってもあまりに急な話だし、ドイツ語にも不自由するだろうから、まずはこの夏休みにでも、バカンスのつもりでうちに遊びに来てみないか、と」
そこまで言って、雅臣はついに両手で顔を覆った。
「ご両親もぜひ、と言うんだ。どうするの……あれ、本気だよ……」
いつもなら、どんな些細なことでも「どう思う、綾乃さん」と妻の意見を聞く雅臣だったが、今日は彼の口からその台詞が出てこない。両手で顔を覆ったままの夫をちらりと見てから、綾乃はそっと流麗の手をとった。
「流麗、それだったらあなたも本気で答えればいいと思うわ」
――本気で。
「お父さんがその場で断らなかった、それから今、あなたがお父さんの話を聞いていてもすぐに拒絶しなかった、お母さんにはもう、それだけでじゅうぶんな答えになっているように見えるのよ」
「いやいや、もっと熟考するべきでしょ」
「でもあなた、今すぐドイツの学校に通いませんか、っていう話ではないんでしょう」
「そうだよ、もちろんそうなんだけどね」
「雅臣さん、あなたから見て、そのカイン・ロウェルという人はどういうヴァイオリニストなの?」
「どういうヴァイオリニストかって? ……世界で唯一無二の存在だと思うよ」
ちょっと僕も興奮したもん、と雅臣はたいへん正直である。
「陳腐な表現かもしれないけど、彼こそ神様に愛された演奏家だなって僕は思うね」
「流麗もそう思う?」
流麗は一瞬のためらいもなく頷いた。そう思う。あんな音楽家には、人生を二度生きたとしても、もう二度と出会えないだろう。
「ねえ雅臣さん、彼とは何と言ってお別れしたの」
「……もう一度連絡することになっているよ。もし流麗が行きたいと言っても行きたくないと言っても、ドイツに帰る前に、一度うちへ挨拶に来たいって」
「ええっ!!」
と、そこで流麗がはじめて大きな声を出した。
「来るの!? うちに!?」
「……え? そんなに嬉しいの?」
雅臣はちょっと不満げである。
(ヴァイオリン持って来るかな)
と思ったが、雅臣への小さな思いやりとして、それを声に出すことはしなかった流麗である。
そうして五月二十日、本当にカイン・ロウェルは北条家にやってきたのだった。
*
オリヴァーが両親に差し出したのは、『とらや』の羊羹の詰め合わせが入った紙袋である。一通りの挨拶を交わした後、その場の主導権を握ったのは、意外にもルリの母親であった。HOJO AYANO、良家に生まれ育ったのだろうと容易に察せられる物腰の柔らかさと、品のよい装い。ルリの優しい栗色の髪、まるくて大きな眸は、どうやら母譲りのものらしい。
『あなたがカイン・ロウェルさんね。お会いできて嬉しいわ』
『僕もです。このような時間を作っていただいて心から感謝しています』
それだけではない。北条家の三名ともに英語が堪能で、意思疎通に困ることがないのが、ここにきてみれば実にありがたい。住んでいる場所はもちろんのこと、リビングの家具ひとつとってみても、北条家はかなり裕福な家であると見受けられた。
紅茶を淹れてくれたのは、マサオミである。
『良い香りだ、いただきましょう』
オリヴァーの雰囲気が柔らかい。これはたいへんめずらしいことである。カインはちょっと驚いた。二人とも幾らかは緊張してここへやって来たはずだったが、北条家の何ともいえない雰囲気の良さが、その緊張をほぐしている。両親に挟まれて座っているルリが、ちょっと間の抜けた顔でこちらを見つめているのがまた、カインの心を和ませた。
『さっそく本題に入らせていただいても?』
隣でオリヴァーが「早すぎる」という顔をしたようだったし、実際わずかにオリヴァーの肘がカインの脇腹に当たったようでもあったが、カインの気は急いている。ルリと出会ったあの日からずっと。マサオミが酸っぱいものでも食べたかのような顔をしたまま何も言わないので、
『もちろんよ。どうぞおっしゃって』
と、アヤノが微笑んだ。
『僕は今、ドイツのベルリンにあるファルケンベルク音楽院に在籍しています。ルリをぜひ、そちらに推薦したい。急な誘いであることは重々承知しているのです。だが、僕はこの人生で、奇跡的に見つけた彼女を再び見失うわけにはいかない。ルリと一緒に音楽をしたいのです』
マサオミがなぜか俯いてしまった。ルリのほうは先ほどと同じ、ちょっと間の抜けた顔でこちらを見ている。
『たとえば、あなたが日本を拠点にすることは考えられないのかしら』
と、アヤノが柔らかい表情のままでそう言った。ルリは口をわずかに開けたまま、大きな眸をさらに大きくして、今度は隣の母親を凝視した。お母さん、何てことを言うの、という顔をしている。
『ええ、お気持ちは理解できます。僕がRURI HOJOというピアニストをこんなにも強く望んでいるのだから、本来ならば僕の環境のほうを変えるべきだ。けれど申し訳ありません、僕は日本を拠点にはできない。なぜなら、圧倒的にファルケンベルクの方が、生涯音楽を続けていくうえで理想的な環境だからです。そこへ、彼女も連れて行きたい。僕にとっても、彼女にとっても、よい未来が待っていると考えています』
『何をもって、よい未来とおっしゃるの』
まったく攻撃的な態度ではない。皮肉めいたところもないのに、喉元に刃物を突きつけられているようだ。オリヴァーが「ほら見ろ」というふうに、横目でこちらを見てくる。「うるさいな、黙ってみてろ」と視線で彼を制して、
『失礼。……北条さん、こちらにルリが弾けるピアノはありますか』
カインはマサオミに訊いた。
『……ありますよ……流麗、案内してあげなさい……』
マサオミは最後通牒を突きつけられたような表情、やけにしょぼくれた声である。
『Professor HOJO、二人で何か一曲、弾かせていただいても?』
「えっ」
勢いよく立ち上がったのは、ルリである。理想的な反応だ。
カインが案内されたのは、リビングのすぐ隣にある音楽室だった。置いてあるのはYAMAHAのグランドピアノ。壁に備えつけられた書棚には、たくさんの楽譜が並んでいる。部屋の隅には、椅子と譜面台が数セット置いてあり、シンプルなテーブルセットがひとつ。その白いテーブルのうえに、メトロノームがある。学生を招いてヴァイオリンを教えたり、室内楽の練習に付き合ったりということもあるのだろうと、カインは推察した。
『ルリ、どうぞ座って』
『はい』
『きみもきっと知っている曲だ。好きなように弾いていいよ』
ルリが笑って頷いた。この世でいちばんきれいなものを見たような気がした。
――クライスラー『愛の喜び』。
かろやかな気品ある旋律、ルリが弾むようについてくる。伴奏譜をそのまま再現しているわけではないのに、ルリが『愛の喜び』を弾くとき、それはまさしく『愛の喜び』そのものなのである。もちろんカインは、自分の音色もまたそうであると自負している。
一度目は隣室で壁に分かたれたままの、二度目はルリがカインに背を向けたままの、二人の音色の交感であった。いま、二人ははじめて、楽器を弾きながら互いの顔を見ている。ここに溢れているのは、音楽への愛であった。二人をまるく包む虹色のしゃぼん玉のようなものがあって、その中が愛で満たされている。しゃぼん玉はけっして二人を孤独にはしない。そこに満ちみちた愛が、そのしゃぼん玉を割ることなく、どこからかとろけるように流れでていく。
愛をおどるルリ。
(……まるで天使みたいだ)
怜悧といっていいほど美しい顔だちの、その白い頬をわずかに紅潮させてピアノを弾くルリを見て、カインはそう思った。
(Ruri, I want you. I want you so badly)
*
両親の頬を涙が伝っていた。流麗はその心のうちを敏感に察した。
(そうだよね……お母さんとお父さんの前でピアノを弾いたの、響の指に怪我を負わせて以来だものね)
長いこと心に抱えてきた罪悪感、憂鬱、羨望、そういったもののすべてを、カイン・ロウェルの存在が凌駕したといっていい。
(私がこうして再び堂々とピアノを弾くことを、響はどう思うだろう)
だが、カイン・ロウェルと実際に会ってしまった以上――彼が奏でるヴァイオリンの音色をじかに聴いてしまった以上、それを知らなかったころには決して戻ることはできないし、忘れることもできない。見失うことのできないもの、手放したくないものが、今まさに目の前にあるのだった。
自分の心臓の音がやけに聴こえる。これが旅立ちの瞬間になるかもしれないと、流麗の心が悟っているのだ。
(……響、ごめんね)
「お父さん、お母さん」
娘の声色で、両親はすべてを察したようだった。
「カイン・ロウェルと一緒に音楽をやれる環境が本当にあるのなら、私……行きたい」
「あなたはドイツ語も話せないし、きっと差別もされる。こんなふうに有名で立派な人に誘われてきたということを、面白おかしく騒ぎたてる人もいるわ。嫉妬もされる。でもそんなとき、お父さんもお母さんも、そこにはいないのよ。それでも行きたい?」
「……うん」
綾乃は、そこで夫を見た。
「雅臣さん」
雅臣は深々と息を吐き、「彼らもいることだから、ここからは英語で話すよ」と言った。
『カインの提案はこうだ。この夏、休暇を利用してドイツのロウェル邸に滞在する。カインが実際にファルケンベルク音楽院に連れて行ってもくれるし、学院の事務局とも繋いでくれる。流麗はそこで存分にピアノを弾き、カインのヴァイオリンを聴き、一緒に音楽を楽しむことができる』
帰国後、渡独の意志が変わらず流麗にあるならば、そこからドイツ語の勉強に全力を注ぐといい。そして高校一年生を終える来年の春以降に、本格的に渡独し、ファルケンベルク音楽院に編入するのが、もっとも現実的な道筋だ――雅臣はそのように説明した。カインを見て、オリヴァーを見る。二人とも、「その通りだ」というように、流麗に向けて力強く頷いた。
『何も今すぐドイツの学校に通おうというわけではないし、通えるというわけでもない。まあ僕としては』
一瞬、雅臣が口ごもる。
『まあその、僕としては、二十歳の青年のところに自分の娘を放りこむのは甚だ不本意ではあるけれども』
『Professor Hojo』
と、オリヴァー。マネージャーというよりは、カイン専属の執事のように見える。
『ベルリンのロウェル邸には、庭師やハウスメイドが常駐しております。もとは英国のロウェル家のほうに長くお仕えしてきた血筋で、信頼のおける者だけを置いております。お嬢さまが憂いなく、もっともよい環境でピアノを弾かれることをお望みであるならば、ロウェル邸にご滞在なさるのが最適かと存じます』
そして、とオリヴァーは続けた。
『もしご都合がよろしければ、ぜひお父様、お母様もご一緒においでください。華やかな装飾や調度品とは無縁ですが、部屋数にだけは自信がございますから』
流麗は多くのことを考えた。幼いころ、自分がどんなふうに、あるいはどんな気持ちでピアノを弾いていたか。そして響を怪我させてしまって以降、響がドイツに旅立って以降、自分がどんな気持ちで生きてきたか。そんな自分をいったい何が救い、慰めてくれたのか。そしてこれから、自分がどんなふうに生きていくのかを。
カイン・ロウェルと出会った記憶を宝物のように胸にしまいこみ、再び以前とおなじ道に戻ることが果たしてできるだろうか?
(べつに不幸せな十五年じゃなかったし、これからもきっと不幸せなんかじゃない。カイン・ロウェルがもし人生にいなくても、私は幸せなんだけど)
もっと大きな幸福があることを知ってしまった。
(……響、ごめんね、怪我をさせて本当にごめんね)
許してくれるだろうか。堂々とピアノを弾きはじめることを。よりによって、追いかけるように響のいるドイツへ踏みこんでいくことを。
だが流麗はもう、カイン・ロウェルの音楽を聴いて感動し、『松田楽器店』のピアノで弾きたい曲をのんびり弾いているだけの日々には戻れないとわかっている。
『あの……』
『うん』
流麗をやさしくうながしたのは、カイン・ロウェルである。
『どうぞ』
『私、夏休みにドイツに行きます。あなたが提案してくれたようにしたいです』
心臓はまだどきどきしていた。確かに綾乃の言うとおりだ。ドイツ語もできないし、文化の違いも分からない。カイン・ロウェルが連れてきた人間だとなれば、過剰に注目もされるだろうし、嫉妬もされるだろう。響がどんな目で流麗を見るかも分からない。今まで包むように守ってきてくれた両親も、そこにはいない。
(だけど私は、失えない。踏み出すしかないんだ)
両親のほうを見ると、彼らもまたまっすぐに流麗のことを見ていた。
『両親がついて来なくても大丈夫です。ひとりで行って、やっぱりどうしてもドイツで音楽をやりたいと思ったら、そうできるように努力します』
カインとオリヴァーも、流麗のことを見ていた。二人とも、ほんの少し驚いたような目をしている。
『でも、さっきお母さんが言ったように、私はほとんど何も知らない状態でドイツに行くことになると思うので、迷惑をかけることがたくさんあるだろうけど、助けてほしいです』
カインが何か答えるより先に、オリヴァーが、
『もちろんです。ご両親にかわって、私たちが必ずあなたの暮らしと心をお守りしましょう』
そう言った。
『……カイン』
カインの名を呼ぶ雅臣の声が凛としていた。ああ、お父さんは喜んでくれているんだな、と流麗は思った。娘の望みを受け入れたうえで、喜んでくれているのだと。
『そういうことだそうだ。僕たちは、流麗の意志を尊重する。流麗をきみたちのところに送り出そうと思う。それでいいね、綾乃さん』
『ええ』
カイン・ロウェルは深々と一礼をし、しばらくの間、動かずにいた。何ともいえない厳かな光景だった。




