第三話
「音楽は魂に、宇宙には翼を、想像力には飛翔を、そしてあらゆるものに生命を与える。」——伝・プラトン――
五月十七日。
腕時計に視線を落とすと、時計の針は十七時二十分を指していた。
(……どうしよう)
アイスティーの氷はとうに溶けて、コースターがしっとりと濡れている。どうしようも何も、すでに開場時間は過ぎていた。コンサートホールに隣接する商業施設内のカフェで、いったい何杯のドリンクを注文したことだろう。
両親には、「友だちと東京に遊びに行ってくるね」と嘘をついてきた。
(嘘なんかつかなければよかったな)
と思ったが、どうしても「カイン・ロウェルのコンサートに行ってくる」とは言えなかったのだった。それでなくとも気持ちがそわそわして落ち着かないうえ、友だちと東京に遊びに行くと言った手前、流麗は今日、十一時過ぎに家を出てきた。十五時過ぎに出てもじゅうぶん間に合うというのに、だ。十三時過ぎにはホールの最寄り駅に到着し、ホールのまわりをたっぷり二周、そしてホール前の広場で一時間、不審者さながらの徘徊をしてから、ようやくカフェに腰を落ち着けたのだった。
開場は十七時である。外を眺めていると、確かにクラシックを聴きに来たのだろうと思われるような装いの人々が、次々とホールのほうへと消えていく。
(受付で名前を言えばいいんだよね)
そう言ったよね……、と流麗は祈るような気持ちで深呼吸をした。松田も言っていた。もし入れなかったとしても、美味しいものを食べて帰ればいいじゃないか。
(そうよ、だってそもそもありえない話なんだから)
いつも行く楽器店でカイン・ロウェルと出会って、コンサートに招待された? いったい誰がそんな偶然、そんな奇跡を信じるというのだろう!
「……よし」
自分を奮い立たせるように、流麗は小さく呟いた。
「ええと、あの」
「はい、ご招待のお客様でいらっしゃいますでしょうか」
「その、はい……名前を言えば入れると言われたのですが」
「それではお名前を頂戴してもよろしいでしょうか」
「あ……北条といいます。北条流麗です」
「北条様ですね……」
「…………」
「はい、確かに承っております。こちら、チケットになります。どうぞこのままお席へお進みくださいませ」
「あ、はい……」
十七時四十分、北条流麗はコンサートホールの中へ入った。
*
初めてではない。けれど、初めて来たような気分だった。
赤を基調としたあたたかみのある客席が、舞台を抱きしめるような格好で広がっている。ミルフィーユみたい、と流麗は思った。
一階七列十六番――何度確認してみても、チケットにはそう印字してある。すでに客席の大半が埋まっていて、開演直前特有の静かなざわめきがホール内に満ち満ちていた。
「……近い……」
ためいきをつくように、流麗は呟いた。七列目、舞台は目の前である。この距離なら、カイン・ロウェルの顔さえはっきりと見分けられるだろう。隣の上品な年配男性に軽く会釈をして、席に腰を下ろす。
(本当に、入れたんだ……私、本当にカイン・ロウェルのヴァイオリンを今から聴けるんだ)
そして舞台上には、黒々と輝くコンサートグランドピアノ。流麗は、そのピアノを見てようやく思い出したのだった。そうだ。今夜のこのコンサートに出演するのは、カイン・ロウェルだけではない。「若さきらめく日本人ピアニストの凱旋」――朝倉響もまたこのコンサートの出演者で、彼があのピアノを弾くのだ。そして五月十七日は、その響の十七歳の誕生日なのだった。これまで忘れたことはなかった。流麗が響の手に怪我を負わせたのは、まさにその響の誕生日だったからである。今の今までどうして、と流麗は思ったが、失念していた理由などひとつしかない。二日前のあの瞬間から、流麗の頭の中はカイン・ロウェルのヴァイオリン、カイン・ロウェルからの招待、本当にコンサートホールに入れるのか、ということでいっぱいだったからだ。ほんのかすかな罪悪感を覚えて、流麗は唇を噛んだ。響の誕生日を忘れたところで、響のことを忘れたところで、誰も流麗を責めたりはしないのだけれど。
(でも、そっか、響のピアノも聴けるんだね……)
もしかしたら今夜、私は今まで引きずりつづけてきた何かを断ち切るためにここに来る運命だったのかもしれないな、と流麗は思った。
1 ラヴェル 『ツィガーヌ』
2 リスト 『超絶技巧練習曲第4番 ニ短調 ≪マゼッパ≫』
3 ショパン 『バラード第1番 ト短調 Op.23』
休憩 20分
4 リスト 『スペイン狂詩曲』S.254
5 ベートーヴェン 『ピアノソナタ第17番 ニ短調 Op.31-2≪テンペスト≫』
6 サン=サーンス 『序奏とロンド・カプリチオーソ イ短調 Op.28』
7 エルンスト『《夏の名残のばら》による変奏曲』
客席の照明が落ち、靴音高らかに演奏者たちが舞台上に姿を現す――演奏前だというのに、すでに割れんばかりの拍手である。感嘆のためいきがあちこちから漏れるのが、流麗にも分かった。彼らの見目麗しさに対しての感激なのだった。
人の外見の美醜にはやや疎い流麗ではあるが、タキシード姿のカイン・ロウェル、眩いばかりの金髪に青い双眸、すらりとした立ち姿の美しさには、その流麗もちょっと驚いた。自分がいかに動画をまともに「観て」いなかったのか、同時に二日前、『松田楽器店』を訪れた彼の容姿をいかに見ていなかったのか、ということを痛感した流麗である。
(……これがカイン・ロウェル……それから、響)
響はやはり、知らない人だった。雑誌で、あるいは動画で見たことがあるだけの、整った顔立ちの大人びた少年だった。少しだけ胸が痛んだが、懐かしいとは、このとき不思議と思わなかった。出演者にはもう一人、マリア・フォン・リュッツというドイツ人女性ピアニストがいて、深紅のドレスが見事に似合う華やかなこの女性の存在だけが、流麗に現実感をもたらした。ピアノ独奏だけでなく、この人がカイン・ロウェルのヴァイオリン伴奏もするらしい。ごく自然に、いいな、と流麗は思った。
――ラヴェル『ツィガーヌ』
孤独と哀愁、カイン・ロウェルの奏でる一音を聴いた瞬間に、自分の体が奥から熱くなるのを、流麗は感じた。心臓を鷲掴みにされたような、どこか恐怖にさえも似た感覚だった。
ハンガリーの風を感じるエキゾチックなラプソディ、ヴァイオリンの独奏にピアノが流れこんでくると、膝の上ではもう流麗の指がじっとしていられない。周りのすべてが無になり、世界にカイン・ロウェルのヴァイオリンと自分しかいないような錯覚を覚える。その世界では、マリア・フォン・リュッツのかわりに、流麗がピアノを弾いている。流麗はもう、自分の体が揺れていることに気づいていない。
(ああ、熱い)
燃えるようだ。それなのに、全身に鳥肌が立っている。旋律が弧を描きながらまとわりついてくる――。
弾きたい。ピアノを弾きたいと、流麗は迸るような強さでそう思った。
(あの人とおなじところで)
The Last Rose of Summer 夏の名残のばら
'Tis the last rose of summer それは夏の名残のばら
Left blooming alone ひとりで咲いている
All her lovely companions 彼女のきれいな仲間は
Are faded and gone 皆しおれて散ってしまった
No flower of her kindred 彼女と同じ仲間の花はない
No rose-bud is nigh ばらの蕾もない
To reflect back her blushes 恥ずかしさを思い出すにも
Or give sigh for sigh! 深いため息をしようにも
終わってみれば、流麗の心のなかにはカイン・ロウェルのヴァイオリンの音色しか残ってはいなかった。あんなにも流麗の心を憂えさせた朝倉響のリストも、華やかなマリア・フォン・リュッツのショパンも、じゅうぶんに美しく奏でられたものだったが、やはり流麗の魂を震わせたのはただひとつ、カイン・ロウェルの奏でるヴァイオリンだけだった。
万雷の拍手の中で、流麗はただ舞台上のヴァイオリニストを見つめていた。拍手をすることも忘れ、祈るように胸のまえで両手を組んで、睫毛を涙に濡らしながら見つめていたのだった。
*
アンコールの『ハンガリー舞曲第5番』を三人で弾き終えたあと、花束贈呈、記念撮影、主催者への挨拶と、やらねばならぬ細々としたことがやはり多かった。カイン・ロウェルは気もそぞろで、何度かオリヴァー・グラントに袖を引かれたほどである。
『ちゃんと手配してあるから』
と、有能なマネージャーは眉を吊り上げてカインの耳もとで囁いた。そう、ルリが来ていたことは、早い段階で認識していた。一階七列十六番。そこに確かに少女が座っていると舞台上から確認できたとき、カインは彼にしては非常にめずらしく、ちょっと浮かれたような気持ちになった。ここまで来てくれたなら、あとはこっちのものだ、と思ったのである。
『彼女はどこに?』
『リハ室のB。おまえがそう言ったんだろ、ピアノのある部屋へ通せと』
『好きなようにピアノを弾いていていいと、伝えてくれただろうな』
『ええ、ええ、伝えましたとも』
オリヴァー・グラントは渋い顔だが、ようやく思う通りに物事が動きはじめて、カインは満足した。リハーサル室Bには、ベヒシュタインのグランドピアノが置いてある。多少こちらが仕事で時間をとられたとしても、ピアノを弾いていいとなれば彼女はそこに留まるに違いない。
『それから』
『帰りの車の手配も済んでいる。マリアとキョウには先にホテルに帰って休むように伝えた。キョウの誕生祝のケーキと花束は、もうホテルに頼んである。まだ何か?』
小うるさいが、確かに有能なマネージャーである。
『…………ありがたい』
と、カインは呟いた。
カインが終演後の雑務をすべて終えたとき、時計の針は二十一時前を指していた。いつもと違うカインを気にするマリアやキョウをオリヴァーに任せ、彼はヴァイオリンケースを持ったまま、急ぎ足でリハーサル室に向かった。どれほど大きなオーケストラとの共演でも、こんなに胸が高鳴ったことはないと思うほどだった。リハーサル室Bの扉の前に立ち、そこからうっすらと聴こえてくるピアノの音色に気づいたとき、ふたたびカイン・ロウェルは自分の全身に鳥肌が立つのを感じた。
サン=サーンス 『序奏とロンド・カプリチオーソ イ短調 Op.28』
彼女が弾いている。
カインは静かに扉を開けて部屋の中に入ると、目に飛びこんできたのは、ピアノを弾く彼女の後ろ姿である。情熱的なロンド、いまヴァイオリンの音色はどこにもないのに、彼女は確かにヴァイオリンの音色を聴いていて、それにあわせてピアノを弾いているのだ。弾きたい。今、そのピアノに応えたい――カインは灼けるようにそう思い、次の瞬間にはヴァイオリンを取り出して弓を構えていた。
さあ、もう一度ロンドの主旋律、Allegro ma non troppoから。
カインが奏ではじめたヴァイオリンの音色に、ほんの一瞬ピアノが揺れたが、彼女はヴァイオリンの誘惑に身をゆだねることに決めたらしい。瞬く間にふたりの音色が絡みあった。
恍惚のあまり、カインはこのとき、かすかな悲しみさえ感じていたように思う。もう二度と知らなかったころには戻れない、という悲しみである。彼女のピアノ以外では、もう俺は二度と満たされることはないだろう、という切なさである。
ルリほどの弾き手からすれば、難しい伴奏譜ではないはずだった。完璧に伴奏譜を暗譜しているわけでもなさそうだ――しかし彼女のピアノは間違いなく曲の芯をとらえていて、まるで彼女の弾くそれこそが真の伴奏譜であるかのようだった。カインの音色にぴたりと寄り添い、あるいはカインの音色を柔らかくくるみ、あるいはカインの音色をはじくように飛びはねる。
ふたりの呼吸は最後の和音の余韻が消えるまでぴったりだった。
『…………』
何か優しい言葉のひとつでもかけてやりたかったのに、束の間カインは、言葉を失って立ち尽くしていた。ルリがおそるおそるといったふうに、ゆっくりと体をこちらに向ける。カインがルリの顔を意識的に見つめたのは、このときがはじめてだったと言っていいだろう。彼女は泣くのを我慢しているかのような、高揚感をもてあましているような、何ともいえない表情で、こちらを見つめていた。
『ありがとうございます』
耳に心地よい柔らかな声だった。
『招待してくれて、しかも……』
『しかも?』
『ヴァイオリンを一緒に弾いてくれて』
こんな夢みたいなことがあるなんて思わなくて、と彼女は恥ずかしげに言った。
『いや……ありがとう、ルリ。俺も思っていなかった。こんな夢みたいなことがあるとは』
言葉は無力である。今のこの気持ちを、どう言葉にすれば正しく彼女に伝わるだろう。
『きみは今、いったい誰にピアノを習っているんだ?』
『私、今ピアノは習っていなくて』
『……何だって?』
ルリは、眉を下げて困ったように笑った。
『小学校のときにやめたんです』
『どういうこと? 習うのをやめて? それで? ピアノはひとりで――つまり独学で弾いているということか?』
ほとんど詰問のような声音になったためか、ルリはわずかにたじろいだ様子を見せた。
『……いや、その、違うんだ、ただ驚いて……』
何が「違うんだ」なのか自分でもよく分からなかったが、カインは慌ててそう言い繕い、
『つまり端的に言えば、趣味でピアノを弾いているの? それともピアノコンクールには出たりしている?』
そう問うと、ルリは首を横に振った。
(嘘だろ……)
と思ったが、同時にカインはひとつの奇跡的な可能性について考えを巡らせはじめた。この少女は今、いわば自由なのだ。誰にも師事せず、たったひとりで、好きなときに好きなようにピアノを弾いているだけなのだという。
『日本の音楽大学に進む予定なの?』
『いえ、特にそういう予定は……』
『海外に行く予定も?』
『……ありません』
――彼女の餌になり得るのは、俺しかいない。そうか、といかにも理解者のように頷いたカインは、そこであえて時計を見た。
『もうこんな時間だ。ルリ、せっかくだから家まで送らせてくれる?』
「えっ」
『送らせて。こんな時間に女の子をひとりで帰すわけにいかないから。そのかわり、最後にもう一曲だけ何か一緒に弾こう。何でもいい、お気に入りの曲を弾いてごらんよ』
ルリの双眸が驚きのためにまるくなり、そして明るく輝いた。遠慮がちだった表情がどこか茶目っ気のあるものになって、それがひどく魅力的だった。
*
――シューベルト『4つの即興曲 D 899(Op.90)第2番 変ホ長調』
かろやかな三連符がくるくる踊る。曲名も言わずに弾きはじめたのに、カイン・ロウェルのヴァイオリンはすぐに寄り添ってきた。軽快なAllegro、一緒に駈ける駈ける三連符、そしてなめらかな対旋律――。ヴァイオリン譜などはない。けれどカイン・ロウェルは、時に流麗の旋律に応え、時に先に駈けていき、時に遅れて追いかけてきたりして、それがあまりにも見事にピアノの音色と調和しているのだった。音楽が短調に転じると、カイン・ロウェルのヴァイオリンはいよいよその真髄を発揮する。慟哭の音色、凄みを忍ばせた翳りある旋律――少し不安になるほどだった。カイン・ロウェルと音楽を奏でる幸福を知ってしまった今、それを知らなかったころには、もう二度と戻れない。真の意味で満たされることはきっと二度とないだろう、と思ったのだった。あんなにも恋い焦がれるような気持ちで聴いてきた音源や動画が、空虚なものになってしまうのではないかとさえ思った。
最終部のコーダで二人は熱くなった。ふたりの呼吸は最後には完全に重なりあい、そして鮮烈な終止和音。互いにその余韻に心満たされていることが、言葉を交わさなくても察せられる。
楽しいのに、泣きたいような気分だった。知ってはいけないものを知ってしまったような。
夢のあとに、いったい何が残るだろう。
*
本当は、もう一曲、二曲、彼女の伴奏でヴァイオリンを弾いてみたかった。だが、カインは強い自制心でもって、その欲望を抑えこんだ。彼女をあやまたずこの手に捕らえるためには、それにふさわしい餌を撒かなければならない。「ルリのピアノが求める唯一無二のヴァイオリンの音色」を差し出すことが必要なのだ。
(彼女と俺の音楽はおなじだ)
ならば俺が求めるのとおなじ強さで、必ず彼女もまた俺を求めるはずだ。そういう根拠のない自信は、二日前に出会って以来、カインの心の奥底にずっとあった。
(ルリ、今、きみはどんな気持ちでいる)
俺と音楽をやりたいと、そう思っているだろう? 強く、とても強く。この夢から醒めたくないと、思っているだろう? その思いのままに、どうか俺の手をとってくれ。
『さあ、もう九時半だ。帰ろう。送っていくよ』
『……はい』
一瞬、ルリが縋るようにカインを見つめた。栗色の眸があまりにも澄んでいて美しいので、よけいにせつなげな表情に見えた。
HOJO RURI、十五歳。
日本でいうところの高校一年生で、事情により小学校二年生のときにピアノを習うことをやめた。だがピアノを弾くことまではやめられず、学校帰りにあの『松田楽器店』に寄って、好きなだけピアノを弾いて帰ることが日課になっている。そして父親は、日本で最難関といわれる音楽大学のヴァイオリン科の教授だという――それを聞いた瞬間、カインは流れるように次の自分の行動を決めた。
(これだ)
父親を使わない手はない。
『オリヴァー』
すでに彼は諦めの境地にいるようだった。
『…Yes, sir.』
『聞いていただろう。大学に連絡を入れて、帰国までに北条氏と会える算段をつけてくれ』
『…Okaaay.』
帰国まであと五日。それまでに道筋を立てたい。
『オリヴァー』
『…………』
『俺は必ず、彼女をドイツへ連れていく』
オリヴァーは深いためいきをひとつ落とした。
『協力してくれ』
『……Certainly.』
やはり持つべきは有能なマネージャーだな、とカインは微笑んだ。




