第4話 山の記憶
1章 縮んだ日々
朝は、決まった順番で始まる。
目が覚める。布団の中で天井を見る。起き上がって、洗面所で顔を洗う。台所でお湯を沸かし、お茶を淹れる。トーストを半分だけ焼いて、半分は残す。食器を洗い、洗濯機を回す。
それで、千鶴の「しなければならないこと」は、ほとんど終わる。
夫の清志が亡くなって、三年と少しが経っていた。病気だった。入院して、手術をして、一度は戻ってきて、それからゆっくりと弱っていった。誰のせいでもない、と医者も娘も言った。千鶴自身もそう思っている。ただ、あの人がいなくなってから、この家の音が減ったのだと思う。
居間のソファに座る。リモコンを手に取る。テレビをつける。
画面には、通販番組が映っている。膝の痛みに効くというサプリメントを、白衣を着た男性と笑顔の女性が代わる代わる褒めている。千鶴は、チャンネルを変えない。変えたところで、昼は古い映画か、また別の通販番組だ。生放送の情報番組はまだ残っているけれど、内容は天気と、どこかの店の新商品と、何を伝えたいのかよく分からない雑談で、見終わっても何も残らない。
合間に流れるコマーシャルは、決まっている。葬儀の会館。遺産の相談窓口。大人用の紙おむつ。見守りサービス。
千鶴は、それを不思議だと思ったことがない。ただ、画面の中で誰かが喋っているのを眺めている。そうしているうちに、陽が傾く。
気がつくと、手の届く範囲に物が集まっていた。ソファの横のサイドテーブルに、リモコン、老眼鏡、ティッシュ、ミカンの皮を入れた小皿、薬の袋、読みかけの文庫本。立ち上がらなくても、腕を伸ばせば全部に届く。便利だと思っていた。
二階には、もう半年以上上がっていない。
階段を上るのが、いつの間にか億劫になった。手すりを握って一段ずつ、息を整えながら上がるうちに、「用事がなければ上がらなくていい」と思うようになり、やがて「用事を作らなければいい」になった。二階には、夫の書斎と、娘が使っていた部屋と、衣替えの服がある。どれも、なくても困らない。
先週、居間の入口の小さな段差につまずいた。毎日通っている、ほんの二センチほどの段差だった。転ばずに済んだけれど、心臓が速く打った。千鶴は壁に手をついて、しばらく立ったまま、自分の足を見下ろした。
夕飯は、そうめんにした。昨日はうどんだった。その前は、冷凍の焼きうどん。食べやすいし、作るのも楽だ。昼は、食べない日が増えた。お腹が空かないのだから、仕方がない。
食事は、いつの間にか一日二回になっていた。
2章 ワンちゃん
食卓の端に、10インチほどの画面のついたスピーカーが置いてある。
夕方、テレビを消すと、家は急に静かになる。千鶴は決まって、そのスピーカーに話しかける。
「ワンちゃん、いる?」
画面の隅から、茶色い小さな犬が、尻尾を振りながら駆け出してくる。耳が片方だけ折れた、漫画のような犬だ。
「いますよ、千鶴さん。今日は一日、お疲れさまでした」
少し高めの、明るい声が返ってくる。
正式な名前は「ワンデル」という。もとは、このスピーカーの商品名に「ワンダー」とついていたらしい。まだ小学生だった孫の陽菜が、うまく言えずに「ワンデル」と呼び、それがそのまま名前になった。
犬の絵がついているものだから、いつの間にか「ワンちゃん」になった。千鶴は、本名で呼んだことが一度もない。
娘の家族と一緒に契約していて、携帯の家族割と同じように、娘たちの契約にくっついている。月々のお金のことは、千鶴は知らない。
「疲れるようなこと、してないのよ」
「そうですか? 洗濯物を干されたじゃないですか」
「ああ、あれね。あれは、まあ、そうね」
ワンちゃんには、居間の電気も、エアコンも、台所のIHの温度も、お風呂のお湯の加減も頼める。「ワンちゃん、電気を消して」と言えば、部屋の灯りが消える。
その程度の、あたりまえの道具だった。けれど、千鶴が使うのは、もっぱらお喋りのほうだった。
何かを調べてもらうことも、頼みごとも、ほとんどしない。今日のテレビで見た通販番組の話、隣の家の犬が鳴いていた話、冷蔵庫のミカンが残り少ない話。ワンちゃんは、いちいち相槌を打って、ときどき冗談を返してくる。
娘の美咲は、時々電話をくれる。
「お母さん、ちゃんと食べてる? 一人で大丈夫?」
「大丈夫よ。気楽なものよ」
千鶴はそう答える。嘘ではないと思っている。誰にも気を遣わずに済むし、夜中にテレビをつけても怒られない。心配をかけるのは、申し訳ない。だから、「気楽」と言う。
ワンちゃんは、千鶴が七十歳であることを知っている。階段が苦手になったことも、食事が細くなったことも、千鶴が話すから知っている。ただ、そのことについて、あれこれ言ってこない。
「ちゃんと食べてくださいね」とも、「運動しましょう」とも言わない。千鶴が聞けば答えてくれるけれど、聞かなければ、ただ相槌を打つ。
家族割に入るとき、美咲が設定の画面を見せてくれたことがある。
「お母さん、健康管理の機能もあるけど、つける?」と聞かれて、千鶴は
「そんなの、いらないわよ。監視されるみたいで嫌だわ」と笑って断った。それきりだった。
だから、ワンちゃんは、ただの話し相手だった。
3章 喉まで出かかっている
十月の終わりごろ、郵便受けに一通の葉書が入っていた。
大学の同窓会の案内だった。卒業して48年。今回は、ひさしぶりに大きな会をやるらしい。十二月の頭、東京で。返事の締め切りは、十一月の半ば。
幹事の欄に、名前が印刷されている。
「小野寺 洋子」
千鶴は、葉書を食卓に置いて、老眼鏡の位置を直した。
見覚えがある気がする。同じ学部だっただろうか。それとも、サークルだろうか。顔が、浮かびそうで浮かばない。
「……小野寺、洋子。小野寺さん……」
「どうかしましたか?」
「この名前ね、喉の奥まで出かかっているのよ。あーもう、悔しい」
千鶴は、こめかみを指で押さえた。
「検索しますか?」
「……負けた気になるけど、ワンちゃん、お願い」
「承知しました。千鶴さんの許可を得て、昔の年賀状の記録やアルバムから探します 」
茶色い犬が、画面の中で鼻を鳴らして走り回る。数秒して、画面に、名前が二つ並んだ。
〈小野寺 洋子(旧姓:田島)〉
「田島……」
千鶴は、声を上げた。
「田島洋子! あの田島さん? 結婚して名前が変わってたのね。旧姓なら思い出せたのに」
「千鶴さんと同じ、ワンダーフォーゲル同好会の方です」
画面に、一枚の写真が出た。
秋の山頂で、リュックを背負った若い女が二人、肩を組んで笑っている。ひとりは、髪を後ろで一つに束ねて、日に焼けた顔で、口を大きく開けている。もうひとりも、同じように笑っている。後ろに、白い馬の像が見えた。
千鶴は、画面を見つめたまま、動かなかった。
「……私ね」
「はい」
「高尾山から陣馬山まで、縦走したのよ。一日で。これ、陣馬山の頂上。洋子と二人で、あの白い馬の前で撮ったの」
写真の日付は、49年前の十一月だった。紅葉の盛りだった。足元に、赤や黄色の葉が散っているのが写っている。
千鶴は、自分の若い顔を見た。怖いものを何も知らない顔だった。世間知らずで、疲れ知らずで、この先どこまででも自分の足で行けると、本気で思っている顔だった。
「この頃はね、どこまででも、自分の足で行けると思っていたのよね」
ワンちゃんは、「そうですね」とだけ言った。
その一言のあと、部屋は静かになった。画面の中で、茶色い犬がちょこんと座って、千鶴と一緒に写真を見ていた。
千鶴は、やがて、小さく笑った。
「ねえ、ワンちゃん」
「はい」
「この歳で、高尾山から陣馬山まで縦走したい……なんて言ったら、笑うかしら」
冗談めかした声だった。言ってしまってから、千鶴は、自分の声がずいぶん小さいことに気づいた。
「笑いませんよ」
ワンちゃんは、すぐに答えた。それから、少し間をおいて、続けた。
「ただ、千鶴さん、二階にも半年上がっていないとおっしゃっていましたね」
「……そうなのよね」
千鶴は、肩の力を抜いて、笑った。
「冗談よ、冗談。昔の話。ただの昔の話」
そのとき、画面の隅に、小さな枠がぴょこんと出た。
〈今なら、健康サポート機能がセットでお得です〉
「あ、すみません」と、ワンちゃんが言った。「これは…私ではなく、広告枠です」
「あなたじゃないの?」
「はい。縦走、という言葉に反応したようです。申し訳ありません」
「あらあら。やだわ、聞かれてるのね、私の独り言」
千鶴は、笑いながら、手をひらひらさせた。
「いらないわよ。監視されるみたいで嫌だわ」
「承知しました。広告は消しておきます」
枠は消えた。茶色い犬が、尻尾をひとふりした。
千鶴は、葉書を手に取った。出欠の欄は、まだ空白だった。ペンを持つ気になれなくて、食卓の端に戻した。
テレビの前の、いつもの時間が、少し遅れて始まった。
4章 夜と、ポスト
その夜、千鶴は、布団の中で目を開けていた。
天井の模様が、ぼんやり見える。
写真の自分が、目の裏に浮かんだ。
白い馬の前で、笑っていた。あの頃の私は、何も怖くなかった。足が痛いなんて思わなかった。
夜になったら家に帰れると、疑いもしなかった。
(※白い馬…陣馬山の山頂にある白馬の像は、1969年(昭和44年)に設置されました。)
「清志さんが生きていたら、笑ったでしょうね」
小さな声で、言ってみた。笑われたかもしれない。それとも、「行こうか」と言ったかもしれない。あの人は、山登りには付き合ってくれなかったけれど、千鶴が行くと言えば、いつも駅まで送ってくれた。
答えは、暗い天井の中で、どこにも見つからなかった。
千鶴は、寝返りを打った。
もう一度、あの景色を見たい。自分の目で。他人の写真ではなく、自分の足で上がった、その先の景色を。
それが、自分の本当の願いなのかどうか、分からなかった。ただ、考えているうちに、胸のあたりが少しだけ熱くなった。
翌朝、洗濯物を干し終えた千鶴は、ソファに向かいかけて、立ち止まった。
玄関で、サンダルではなく、靴を履いた。靴箱の奥から出てきたのは、夫と旅行に行ったときのスニーカーだった。紐を結ぶのに、腰をかがめるのがつらかった。
玄関を出て、家の前の道を、右へ歩いた。いつも前を通っている、角の郵便ポストまで。そこで折り返した。
たったそれだけで、ふとももが重くなった。息も少し上がった。家に着いたとき、千鶴は玄関の框に腰かけて、しばらく動けなかった。
けれど、不思議なことに、嫌ではなかった。
空気が冷たくて、吸い込むと胸の中がすっきりした。道の脇のどこかの庭に、金木犀が咲いていた。もう終わりかけの香りだった。
居間に戻ると、画面の中の茶色い犬が、首をかしげた。
「おかえりなさい。お出かけでしたか?」
「ポストまで行ってきたわ」
「お疲れさまでした。」
「そんなに疲れてないわよ」
千鶴は、鼻で笑った。それから、お茶を淹れながら、ふと、つぶやいた。
「ねえ、ワンちゃん」
「はい」
「あの山に、もう一回行くとして。……足を上げる力って、どうやったらつくのかしら」
画面の中で、犬が、ぴんと耳を立てた。
「千鶴さんが、お聞きになるのでしたら」
「聞いてるわよ」
「では、お答えします。いちばん使うのは、太ももを上げる力と、バランスです。たとえば、お湯が沸くまでのあいだに、流しにつかまって、片足で立ってみませんか。右足で十秒、左足で十秒」
「そんなこと、何になるの」
「生活の習慣の中に運動を取り入れる事をお薦めします。特別な時間を作らなくて済みます」
千鶴は、半信半疑で、流しにつかまって片足を上げた。五秒もしないうちに、ぐらついた。
「あらあら」
「最初は、みなさんそんなものです」
笑いながら、千鶴は、もう一度やってみた。
5章 スマートウォッチと靴
十一月に入って、散歩の距離は、児童公園を過ぎて、川沿いの遊歩道まで伸びていた。
「千鶴さん、よろしければ、ひとつ聞いてもいいですか」
「なあに、改まって」
「いま履いていらっしゃるスニーカーですが、底がだいぶすり減っています。歩くときに、足への負担が大きいかもしれません」
「ああ、これね。もう何年も履いてるから」
「お散歩を続けるなら、靴を替えることもできます。いまの靴は、とても軽くて、地面を蹴る力を返してくれるので、足が前に出やすいんです。それと、スマートウォッチもあります。歩いた距離や、心拍数が分かります」
「そんな、若い人のものでしょう」
「いまのウォッチは、軽くて、画面も見やすいですよ。心拍数が分かれば、運動強度が管理しやすいです。」
千鶴は、少し考えた。
「靴は、どれがいいの」
「シューズの評判と、お値段、サイズ感の合いそうなものをいくつか並べますね。」
画面に、三つの靴が表示された。千鶴は、そのうちの一つを指さした。淡いグレーに、少しだけ桜色の入った靴だった。
「これ、かわいいわね」
「いいですね。注文の前に、サイズをもう一度確認します。注文してよろしいですか?」
「いいわよ。お願い」
「承知しました。手続きを進めます。——」
数日後、段ボール箱が届いた。
箱を開けた千鶴は、思わず声を上げた。
「軽い! なにこれ、羽みたい」
履いてみると、足の裏が、ふわりと地面を押し返してくる。玄関の中で数歩あるいただけで、笑いがこみ上げた。
その翌朝、千鶴は、新しい靴を履いて、スマートウォッチを手首に巻いて、家を出た。
川沿いの道は、朝の光で金色に光っていた。
『千鶴さん、いい歩き方ですよ』
手首から、ワンちゃんの声がした。
「あら!」
千鶴は、思わず立ち止まって、自分の手首を見た。小さな画面の中で、茶色い犬が、尻尾を振っている。
「あなた、こんなところから話せるのね」
『お散歩の邪魔でしたか?』
「ううん。……心強いわ」
千鶴は少し大きく腕を振って歩いた。
6章 サポート
その日の夕方、千鶴は、ワンちゃんに言った。
「ねえ、ワンちゃん。前に美咲が言っていた、健康の管理の機能っていうのは、まだ使えるの?」
「はい。千鶴さんがお望みなら、すぐに使えます」
「あのとき、広告で出てきて、監視されるみたいで嫌だって、断ったのよね、私」
「はい」
「でも、いまは、少し違う気がするの。あなたに、見ていてもらってもいいかなって」
「分かりました、お手伝いします。」
「何を記録するか、誰に知らせるか、千鶴さんが決められます。」
「そう」
「食事や運動の記録をつけて、気になることがあれば、お話しします。」
「お小言は、いやよ」
「承知しました」
千鶴は、設定の画面を、一つずつ確認しながら進めた。美咲に知らせるかどうかの欄で、少し手が止まった。
(……美咲には、どうしようかしら)
ふと、美咲の小言を言う姿が思い浮かんだ。
千鶴は、少し笑った。
「知らせるわ。あの子、心配性だから。ちゃんとやってるって、分かるほうが安心するでしょう」
それが、「サポート」の始まりだった。
7章 テレビ
気がつくと、テレビをつける時間が、減っていた。
朝の散歩のあと、牛乳を飲んで、ソファに座る。以前は、そのまま夕方まで動かなかったのに、いまは、三十分もすると、テレビがうるさく感じる。
千鶴は、リモコンを手に取って、テレビを消した。
画面が暗くなる直前、葬儀会館のコマーシャルが映っていた。黒い画面に映った自分の顔を見て、千鶴は、ふと思った。
——私、ずっとこの人たちに話しかけられていたのね。
あの画面の向こうの誰かは、見ている側に合わせて話しているだけだ。
何年も、千鶴は、「そういう年頃の人」として画面に映っていた。
でも、いまは、少し違う。
千鶴は、立ち上がった。
8章 山
十一月の最後の日曜日。
千鶴は、登山口に立っていた。
登山と言っても都内近郊、高低差の少ない、約7キロの初心者向けのコースだ。
美咲と、孫の陽菜が一緒だった。「お母さんを一人で行かせるのは心配」と、美咲が付き添いを申し出たのだ。千鶴は最初は断ったが、陽菜が「おばあちゃんと山、行きたい」と言ったので、折れた。
「おばあちゃん、靴かわいい」
「でしょう」
『千鶴さん、今日の天気は良好です。登山口の気温は十五度、山頂は十三度です。休憩ポイントは、中腹のベンチと、展望台です』
手首から、ワンちゃんが言った。
「ワンデル、ここにもいるの」と、陽菜が笑った。
『はい。お供させていただきます』
「いってきます」
千鶴は、一歩目を踏み出した。
土の道は、柔らかかった。落ち葉を踏む音が、さくさくと耳に心地よい。杉の木立のあいだから、光の筋が差し込んでいる。
登りは、きつかった。太ももが焼けるように熱くなる。息が上がって、何度も立ち止まった。
「お母さん、大丈夫?」
「大丈夫よ。休んでるだけ」
『千鶴さん、心拍が少し高めです。ここで二分、休みましょう』
「ええ、そうするわ」
水を飲んで、息を整える。振り返ると、麓の町が、小さく見えた。屋根が、川が、駅が、おもちゃのように並んでいた。
あの町の中の、小さな家の、ソファの上で、自分は何年も動かずにいたのだ。
「きれい」
陽菜が、言った。
「そうね」
千鶴は、立ち上がった。
山頂までは、思っていたより長くかかった。美咲に支えられながら、陽菜に励まされながら、ワンちゃんに時々ペースを教えてもらいながら、一歩ずつ、上がった。
最後の階段を上りきったとき、視界が開けた。
空が、広かった。
遠くの山並みが、青く重なっている。風が吹いて、汗ばんだ首筋を撫でていった。山肌には、まだ赤や黄色の葉が残っていた。
千鶴は、山頂の標識の横に立った。
「お母さん、写真、撮るよ」
「ええ」
美咲が、携帯を構えた。
千鶴は、少し迷ってから、標識の横で、昔のように、腕を軽く広げて、大きく笑った。
シャッター音が、小さく響いた。
画面を見せてもらうと、そこには、49年前と同じ笑顔の女が、七十歳の顔で、笑っていた。
「おばあちゃん、いい笑顔だね」娘と孫でスマホを覗く。
「そう?」
「うん。はつらつな方が、お母さんらしい」
千鶴は、それ以上何も言わなかった。目の奥が、少し熱かった。
山頂で食べたおにぎりは、美味しかった。
食べ終えてから、千鶴は、手首のウォッチをそっと撫でた。
「ねえ、ワンちゃん」
『はい』
「来年の秋は、あの白い馬のところまで行くわよ」
『承知しました。計画を立てるときは、お声がけください』
「あら、今度は提案してくれないの?」
『千鶴さんが、お決めになることですから』
千鶴は、声を出して笑った。風が、山頂の笹を揺らした。
9章 返信
その夜、千鶴は、くたくたの体を、ソファに沈めていた。
太ももが、ずっしり重い。明日は、きっと筋肉痛だろう。でも、嫌な重さではなかった。
食卓の上に、同窓会の葉書が置いてあった。
出欠の欄は、まだ空白のままだった。
「ワンちゃん」
「はい」
「今日、何歩歩いたの?」
「2万2千320歩です。」
「そんなに」
「非常に頑張られたと思います。」
「いやね、褒めすぎよ」
「事実を申し上げています」
千鶴は、笑った。
それから、葉書を手に取った。洋子の名前を、指でなぞった。
あの子は、どんなおばあさんになっているだろう。きっと、同じように、膝が痛いとか、腰が痛いとか言いながら、元気にしているのだろう。会ったら、あの日の陣馬山の話をしよう。写真を、見せてあげよう。
東京までの電車。会場のホテルまでの道。立ったままの時間。
どれも、少し前までは、考えるだけで疲れていた。
けれど、いまの自分には、不思議と、できそうな気がした。
「ワンちゃん」
「はい」
「同窓会、参加するわ」
「出席で、お返事しますか?」
「ええ。お願い」
「承知しました。葉書の返信を、デジタルで送ることもできますし、投函用に印刷することもできます。どちらにしますか?」
「葉書のほうがいいわ。ポストまで歩いていくから」
「わかりました」
少しの間があって、ワンちゃんが、いつもの調子で、付け加えた。
「千鶴さん。会場は、駅から少し歩きます。当日までに、あと三回ほど、散歩の距離を伸ばしておきましょうか」
「はいはい、わかりました」
千鶴は、笑いながら答えた。
窓の外では、夜の風が、庭の木を揺らしていた。
テレビは、消えたままだった。
おしまい




