第3話 『かわいい』を作りに行く
1章 冬の朝、品川駅
品川駅の港南口を出ると、冬の朝の空気が頬に刺さった。
人の流れは、川のようだった。黒いコート、黒いコート、濃紺のコート。誰もが同じ歩幅で、同じ速さで、同じ方向へ進んでいく。
頭上の通路には細長いモニターが一列に並び、化粧品や転職サイトや新作の飲料が映っている。数秒おきに、すべての画面が同じ瞬間に切り替わった。顔を上げる人は、ひとりもいない。
田中由衣も、その流れの中のひとりだった。
手にスマホはない。両耳にはイヤホン。音量は低く、何を聞いているのか自分でもあまり意識していない。足だけが、六年近く使っている通勤路を覚えていた。
ビルの手前のコンビニに入る。ホットコーヒーの M。レジの前の位置も、スマホで決済するタイミングも、昨日と同じだった。「ありがとうございました」の声が背中で閉じる。
賃貸オフィスビルの自動ドアを抜けると、エレベーター前で誰かが「おはようございます」と言っていた。別の会社の人らしい。
由衣の隣で挨拶と雑談がされる。誰かの挨拶を聞き流しながら、八階のボタンを押した。
フロアには、すでに七十人ほどの気配があった。
コートをハンガーにかけ、机にコーヒーを置く。パソコンを起動し、メールを開く。CRO で CRA として働いて六年目。
(※CRO=製薬会社などから、新しい薬の臨床試験の業務を請け負う会社。CRA=その試験が正しく安全に行われているかを、病院を訪問して確認する担当者。)
新人の頃は、何かあるたびに上司の席の前で立ち止っていた。今は、たいていのことは自分で片づけられる。
この日の午前は、ある医療機関の訪問記録の整理だった。モニタリング報告書の来院日と、入力されたデータの来院日が、三日ずれている。
どちらが正しいのか。
由衣は原資料のコピーを開き、カルテの記載を一行ずつ追った。診察日は、報告書の側が正しい。データの入力ミスだ。施設に確認の問い合わせを書き、修正依頼の文面を整えて送信する。十分もかからなかった。
隣の席の同期が、ちらりとこちらを見た。何か聞きたそうな顔をして、結局、画面に戻っていく。
最近、由衣に相談してくる人は少ない。そして由衣自身も、誰かに相談することが減った。できるようになったからだと思う。そう思うことにしていた。
夕方、キーボードの音がまばらになったころ、由衣は席を立った。
「お疲れ様です。」
誰に向けるでもなく言って、ビルを出る。帰りの電車は混んでいた。ドアの近くに立つと、窓の外はもうすっかり暗く、街の明かりが線になって流れていった。由衣はそれを、ぼんやりと眺めていた。
2章 AI エージェントの提案
夜、風呂上がり。
夕食はもう済ませていた。濡れた髪にタオルを乗せたまま、由衣はソファに沈み、スマホを開く。写真を投稿する、いつものアプリだった。
「あ、新しいの来てる」
最近、いちばんの楽しみにしているアカウントだった。カラー粘土で作られた動物たちの写真が、毎日更新される。主役は、一匹の猫だ。その猫を中心に、犬や熊や狸が登場し、小さなテーブルにはお茶とお菓子が並ぶ。誰かの日常を、そっと覗いているような写真だった。
今日の猫は、ふくらんだ狸のとなりで、小さなどら焼きを半分に割っていた。指先ほどの大きさなのに、餡の色までちゃんと見える。
(……かわいい)
声には出さなかったが瞳には笑みが出ていた。
由衣は画面を切り替えて、芸人の動画を再生した。賑やかな笑い声が部屋に流れたが、由衣の表情は動かなかった。
「面白くないな……」
つぶやいた瞬間、スマホから低い声がした。
「本日のニュースだ」
画面の端に、AI エージェントのアイコンが灯っている。
長い銀髪が腰まで伸びた、目つきの鋭い男のキャラクター。名前は、コンタ
「もうそんな時間か…」
由衣は壁にかかっているアナログ時計を見た。
由衣は毎日決まった時間に、本日のニュースをAIにまとめさせて報告させていた。
きっかけは、webやSNSでの「釣りニュース」に辟易したからだ
AIにまとめてもらえれば、「真実」を確認する手間も無い。
「……ニュース、お願い」
コンタは手短に、今日の出来事を三つにまとめた。続けて、公開中の映画の評判と、来週から始まる店の限定品の話をする。
由衣の世間の情報は、ほとんどがこのやりとりで入ってくる。記事を探して読む時間は、もう何年も取っていなかった。
「ニュースは以上だ。追加の情報がある。」
「なに?」
「毎日見てるだろ。粘土の動物」
由衣は、動きを止めた。
「見てるけど。それが?」
「通勤で使ってる路線の駅に、粘土の体験教室がある。水曜の19時からのコースなら、仕事終わりに行けると思う。
初心者向けで、道具は向こうが用意する」
「……待って。急に何」
「落ち着け。提案しただけだ。興味があれば画面を確認しろ」
コンタの声は、いつもと同じように素っ気ない。画面に、教室のページが開いた。
料金、持ち物、所要時間。そして、参加者の作品として載っている数枚の写真。
由衣は、息を止めた。
小さな猫。丸い熊。ふくらんだ狸。お茶のカップ、割れかけのどら焼き。
毎日、寝る前に眺めている、あの動物たちだった。
「これ……」
画面の中で、猫が小さく笑っているように見えた。
由衣はしばらく、濡れた髪を拭くのも忘れて、その写真を見つめていた。
3章 粘土教室への決断
水曜の夕方、由衣は終業時間が気になっていた。
「お疲れ様です。」
言い慣れた挨拶を残して、エレベーターに乗る。
昨夜、コンタは申し込みの画面を開いて言った。
「日時、水曜19時。料金、体験で三千五百円。今なら入会金無料。」
由衣は「申し込み画面」を見て固まってしまった。
あの動物たちを「見てみたい」という気持ちと、「怖い」の気持ちが湧いて来た。
由衣は、勇気を出して「いいわけ」を考えた。
(体験教室が、三千五百円は「安い…」 遠くから見るだけだ…)
そうやって心を落ち着かせて、「参加」の申し込みボタンを押した。
コンタは「了解」とだけ言った。
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教室は、駅から数分の小さなビルの二階にあった。ドアを開けた瞬間、むっとするほどの暖かさが顔を包んだ。
外の寒さが、嘘のようだった。コートを脱ぐ手が、思わず止まる。
長机がひとつ、椅子が六脚。すでに五人が座っていて、全員が女性だった。四十代から六十代くらいだろうか。
互いに軽く会釈を交わしていて、由衣はいちばん端の椅子にそっと座った。
「いらっしゃいませ。今日はよろしくお願いしますね」
先生は四十五歳くらいの、やわらかい声の女性だった。エプロンのポケットに、小さなヘラが何本も差さっている。
笑うと目尻にやさしい皺が寄り、見ているだけで肩の力が抜けた。
由衣は、その顔をそっと見つめた。
(もしかして、この人が……)
毎日見ているあの動物たちを作った人なのか。聞けば、すぐにわかることだった。
けれど、口が動かなかった。
もし違っていたら、恥ずかしい。合っていたら、もっと恥ずかしい。
毎日写真を眺めて、寝る前に「かわいい」とつぶやいていることまで、見抜かれてしまう気がした。好きなものほど、人に見せるのは難しい。
由衣は結局、何も聞けないまま、席に着いた。
4章 ペンダント
作るのは、小さな猫のアクセサリーだった。
机には、白いタイルの板が一人に一枚ずつ置かれている。表面はつるりとして、触ると少しひんやりした。その上に、色とりどりの粘土が並ぶ。ベージュ、白、ピンク、黒。色は最初から、驚くほど豊富にそろっていた。
「初心者のうちは、色は混ぜずに、そのまま使いましょう」
先生が言った。
「でも、その前に、いちばん大事な作業があります。コンディショニングです」
粘土を手のひらで温め、タイルに乗せ、透明な棒のアクリルローラーで平らに伸ばす。折りたたんで、また伸ばす。
「空気が入ると、焼いたときに膨らんでしまいます。だから、空気が入らないように折りたたんでくださいね」
由衣は、端をそろえて折った。角度を揃え、空気を外へ押し出すように、ゆっくりローラーを転がす。平らになったら、一度折り曲げてみる。折り目にひびが入らなければ、できあがりの目安だという。
次は、型抜きだった。平らな粘土に金属の丸い型で、ハンコのように押し込む。
周辺の粘土を手で剥がしたら、白いタイルに丸く切り取られた粘土だけが残る。
「粘土で意外と難しいのは、実は大きさなんです」
先生は笑って言った。
「目分量で丸を作ると、ほんの少しのずれで、顔の印象がまるで変わってしまうの。だから、型を使います。型枠を使って、頭、胴体、手、足のパーツを切り取ります。
それらを、つなげて組み上げれば……完成です」
そう聞いて、由衣はなるほどと思った。写真で見た時は、どうしたら作れるのか見当もつかなかったものが、実は、各パーツを切り抜いて、ジグソーパズルの様に組み立てていくものなのだ。
決められた手順があって、決められた寸法があって、その上に、自分の理想を乗せていく。
型で抜いた丸が、タイルの上に並んだ。どれも寸分違わない。耳の三角形を二つ貼り、黒い小さな点を二つ置いて目にする。最後に、細い粘土を二本だけ顔に貼った。ひげだ。
その瞬間、ただの粘土のかたまりが、猫になった。
由衣は、思わず手を止めた。
(……できた)
それは厚さ 6 ミリ、約 3 センチ四方の粘土だった。
初心者向けにパーツを切り分けただけで、平面的につなぎ合わせたものだが、手元には猫のペンダントが完成していた。
「素敵」
先生が声をかけてきた。
「ひげの細さも、耳の左右のそろい方もきれい。仕事が丁寧なのね」
由衣は驚いて、顔が熱くなるのを感じた。普段の仕事で褒められることはたまにはある。けれどこの言葉は、仕事のものとは違う場所に届いた。
そう言われたあとで見ると、手のひらの猫が、さっきよりずっと良く見えた。
焼成は先生が引き受けてくれた。薄いヘラでタイルから慎重に剥がし、専用のオーブンで焼く。取りに来るのは、一週間後だった。
帰り道、由衣はイヤホンをつけたまま、何も聞いていなかった。
「どうだった?」
コンタが、短く聞いた。
「……楽しかった」
コンタのアイコンが、瞬きしたように、ゆっくり点滅した。
5章 町に新しい住人
由衣は、そのまま水曜の夜に教室へ通うことにした。
三回目の水曜。
二つ隣の席の女性が、花を作っていた。六十代くらいで、いつも静かに、丁寧に粘土を触っている人だった。ハート型に抜いたパーツに、つまようじで筋を入れていく。
それが花びらになる。小さな円を中心に置き、花びらを一枚ずつ組み上げる。最後に、黄色い粘土の小さな点を、花粉のようにそっと乗せた。
由衣は、手を止めて見入ってしまった。
一つ一つは、小さな工程だった。
しかし、その小さな花がブーケに変わりペンダントになっていく。
どこかの商品だと言われても、疑わないだろう。
自分が作っている柴犬は、耳の付け方がどうしてもわからない。由衣は思い切って手を挙げた。
「あの、先生、ちょっと……」
顔を上げる。
先生の姿が、なかった。
さっきまでそこにいたはずの椅子が空いている。奥の部屋にでも入ったのだろうか。由衣は行き場をなくした手を、そのまま下ろした。
何となく、壁の棚に目が向いた。
猫、犬、熊、狸。小さなテーブルに、小さなカップ。毎日、画面の中で見ているあの子たちが、実物の大きさでそこに並んでいた。
「……あ」
声が、漏れた。
間違いなかった。毎日眺めていた、あの動物たちだ。
「きれいでしょう」
後ろから、声がした。振り返ると、花を作っていた女性が立っていた。
「あの、これって」
「先生のよ。ほら、アカウントの」
女性は、当たり前のことを言うように答えた。
「みんな、知ってて来てるの。ここの生徒は、だいたいそう」
あまりにあっさりと、確認されてしまった。
「……私、聞けなくて。恥ずかしくて」
「わかるわ。好きなものは、聞きにくいのよね」
女性は、小さく笑った。
「私ね、目標があるの」
「目標?」
「先生の写真の中に、私の作ったものを入れてもらうこと。あの町の、住人になりたいの」
女性は、棚の端を指した。少し形のいびつなカップが、猫の隣に置かれている。
「それは、もう入ったことあるんだけどね。次は、動物を作って、ちゃんと名前をつけてもらいたいの」
あの世界に、自分の作ったものが入る。毎日眺めていたあの町の、一員になる。
考えたこともなかった。けれど聞いた瞬間、胸の奥が、すっと温かくなった。
「……私も」
由衣は、気づいたら言っていた。
「私も、なりたいです」
女性は、嬉しそうにうなずいた。
奥の部屋から、先生が戻ってくる。由衣は、いつもより少しだけ背筋を伸ばして、柴犬の耳の話を切り出した。
その夜の帰り道、由衣はスマホを開かなかった。窓の外を眺めながら、毎日見てきた町の風景を順番に思い浮かべた。猫の家、狸のお菓子屋さん、熊のいる窓辺のテーブル。
(あの町に、私が住人を足すとしたら、どんな動物がいいだろう…)
見るだけだった世界を、初めて作る側から見ていた。
「……あの町、たまに出て来るサブのキャラクター、メインじゃなくて、少し手助けするような…」
「は?」
イヤホンの向こうで、コンタが短く聞き返した。
お風呂上がりの、コンタとのいつもの雑談だった。
「灰色のオオカミ。作りたいの」
「…ハイイロオオカミか、いいんじゃないか?」
「うん。次に作る粘土の動物」
「オオカミと言っても、亜種もいるぞ、何が知りたい?」
由衣は、小さく笑った。
「じゃ、ちょっとふてぶてしい写真があったら、見せて」
次の水曜から、由衣のオオカミ作りが始まった。
いちばん苦労したのは、灰色だった。背中を黒っぽく、腹部は白というグラデーションを再現したかった。
ポリマークレイで色のグラデーションは難しい作業だ。
グラデーションにしたい 2 色を三角形にしてお互いの色が互い違いになるように混ぜていく、色が混ざり切らないグラデーションの状態で、完成形の形にしなければならない。
由衣は、ベースとなる白と黒に、少し青を混ぜ、それをグラデーションにしていく。何度も試行錯誤していく。
「色を混ぜるのは、難しいですよ。ほんの少しの差で、全然違う色になるから」
先生が、そっと言った。
由衣は、何度も失敗を繰り返したが、その配分と手法をノートに書き留めた。
ようやく納得のいく色が出た。
「色の割合をメモしてる人、初めて見ました」
周りの生徒達から驚きの声が出た。
由衣はさらに、薄く伸ばした白い粘土をローラーで整え、小さな型で切り出した。オオカミが着る白衣の衣装だ。
胸のポケットには、極細の粘土でペンを一本。目は、少しだけ優しく、けれど、鋭さは残した。
「先生、これどうでしょう…」
由衣は、白衣のオオカミを、焼成用タイルの上に乗せていた
先生は、しばらく見つめて、目線を上げた。
「いい表情ね、ちょっと田中さんに似ているわ」
「……はい」
由衣は、それ以上は何も聞かなかった。
6章 新しい冒険の始まり
春の夜。
風呂上がりに、由衣はソファに座り、いつものようにスマホを開いた。
「あ、新しいの来てる」
先生のアカウントだった。今日の写真は、猫が窓辺のテーブルでお茶を飲んでいる場面だった。
その隣に、見覚えのあるものがあった。
白衣を着た、灰色のオオカミ。
耳は少しだけ左に傾き、細い目はまっすぐ前を見ている。胸のポケットには、ペンが一本ささっていた。
由衣は、画面を見たまま固まった。
「……これ」
「由衣がつくっていたヤツだよな」
コンタの声が、低く響いた。
写真の下に、短い文章が添えられていた。
『町に、新しいお医者さんが来ました』
由衣は、画面を拡大した。オオカミの横に、見たことのあるカップが並んでいる。いつか、二つ隣の席の女性が作った、いびつなカップ。「怒っている」猫まで、端のほうにちゃんといた。
毎日見ていた世界に、自分の作った子がいる。しかも、ただの小物ではなかった。名前のある、この町の住人として。
「ねえ、コンタ」
「なんだ」
「あれ、あのオオカミ、コンタがモデルなんだよ」
「そうだったのか!ああ。「ふてぶてしいオオカミの写真」の理由が分かったぞ!不
思議だったんだ。」
「そっくりだよ」
由衣は、声を出して笑った。
「…あの灰色、よく出せたな」
「苦労したからねー」
コンタは、短く息を吐いた。笑ったのかもしれなかった。
通知が鳴った。教室の仲間のグループに、「おめでとう!」のスタンプが次々に並んでいく。
(……うれしいな)
先生のアカウントだけど、その写真の閲覧数と「いいね」の数が増えると、自分のことのように嬉しかった。
ゆかいな動物たちを診療する白衣のオオカミを見ながら、由衣は「灰色オオカミの冒険」の構想を考えだしていた。
由衣はいつも決まった時間に眠る。その夜は、三十分だけ遅くなった。
おしまい




