第3話 年下の彼女は待ってくれない
午後五時半。
弘樹は、仕事を終えたばかりのスマートフォンを手に取った。
画面には、灯里からのメッセージが表示されている。
『弘樹さん、今日の夜は空いていますか?』
昨日、一緒に食事をしたばかりだ。
それなのに、もう次の約束をしたいらしい。
『今日は仕事も終わったし、空いているよ。どうしたの?』
返信すると、すぐに既読がついた。
『よかった! 実は、弘樹さんに会いたくなっちゃって』
「……会いたくなった、か」
思わず口にしてから、弘樹は苦笑した。
四十三年生きてきて、若い女性からこんな言葉を送られたことは、ほとんどない。
まして、相手は娘の友人だ。
自分は彼女の気持ちに、どう向き合えばいいのだろう。
嬉しくないわけではない。
むしろ、メッセージを読んだ瞬間、胸の奥がわずかに弾んだ。
そのことに気づいて、弘樹はスマートフォンを握り直した。
考えなければならないことは、いくらでもある。
年齢の差。娘たちとの関係。灯里が自分に向けている気持ちの重さ。
けれど、考えている間にも、画面には新しいメッセージが届いた。
『六時半に駅前でどうですか? 今日は私に付き合ってくださいね』
「ずいぶん積極的だな……」
断られる可能性など、初めから考えていないような誘い方だった。
それでも、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
弘樹は少し迷ってから、返信した。
『分かった。それじゃあ六時半に』
『楽しみにしています!』
弾むような返事を見つめ、弘樹はスマートフォンを伏せた。
会いたいと言われて、嬉しかった。
自分も、もう一度会いたいと思っていた。
その事実だけは、否定できなかった。
弘樹はクローゼットを開け、普段より少しだけ身なりを整えた。
鏡に映る自分を見て、ふと手が止まる。
「……何を期待してるんだ、俺は」
自分に言い聞かせるようにつぶやき、襟元を直した。
今夜、何かが変わるとは限らない。
ただ、灯里と会って話をしたい。
今は、それだけでいいはずだった。
◇
駅前に着くと、灯里はすぐに弘樹を見つけた。
「弘樹さん!」
人混みの向こうから駆け寄ってくる。
淡い色のブラウスに、落ち着いたスカート。いつも娘たちと一緒に家へ来るときより、少し大人びた装いだった。
「こんばんは。待った?」
「いえ、私も今来たところです」
灯里はそう言いながら、弘樹の顔をじっと見た。
「……どうしたの?」
「今日の弘樹さん、いつもより格好いいですね」
「えっ?」
「ちゃんとおしゃれしてきてくれたんだ、と思って」
「いや、そんな大したものじゃないよ。いつもの服だし」
「そういうところも好きです」
「……灯里ちゃん」
彼女は楽しそうに笑った。
弘樹は返す言葉に困り、軽く咳払いをする。
灯里の言葉は、冗談めいているようでいて、目だけは真剣だった。
「それで、今日はどこへ行くの?」
「秘密です」
「秘密?」
「はい。今日は私に任せてください」
灯里はいたずらっぽく笑い、弘樹の隣に並んだ。
「じゃあ、行きましょう」
「はいはい」
二人が歩き始めて間もなく、灯里の腕がそっと弘樹の腕に触れた。
そして、そのまま自然に寄り添ってくる。
「……灯里ちゃん?」
「はい?」
「いや、その……腕」
「あっ。もしかして、嫌でした?」
灯里が顔を覗き込んだ。
先ほどまでの笑顔が、ほんの少しだけ揺れている。
弘樹は慌てて首を横に振った。
「嫌なわけじゃないよ。ただ、ちょっと驚いただけで」
「本当ですか?」
「本当だよ」
「よかった」
灯里はほっとしたように笑い、再び腕を寄せた。
「私、好きな人とはこうして歩きたいんです」
「す、好きな人って……」
「弘樹さんのことですよ?」
あまりにもまっすぐに言われ、弘樹は言葉を失った。
これほどはっきり伝えられているのに、まだ曖昧なふりをするつもりなのか。
自分の中に、そんな卑怯な考えがあることにも気づいていた。
灯里は何も急かさず、ただ隣を歩いている。
弘樹は彼女の腕を振りほどかなかった。
その小さな選択が、今の自分の気持ちを表しているような気がした。
◇
灯里が連れてきたのは、駅から少し離れた落ち着いたレストランだった。
柔らかな照明に照らされた店内には、穏やかな音楽が流れている。
「いいお店だね」
「でしょう? 前から弘樹さんと来てみたかったんです」
「前から?」
「はい」
灯里は少し照れたように笑った。
「いつか、二人で来られたらいいなって思っていました」
弘樹はメニューを開くふりをして、視線を落とした。
彼女は、いつから自分のことを考えていたのだろう。
自分が娘たちの父親として、何気なく日々を過ごしている間に。
そう思うと、胸の奥が落ち着かなくなった。
料理を注文すると、二人は大学の話や仕事の話、何気ない日常の話をした。
灯里はよく笑い、弘樹の話を楽しそうに聞いてくれた。
自分の話を、こんなふうに聞いてもらうのは久しぶりだった。
娘たちとの会話が減ったわけではない。
家族で食卓を囲めば、学校や友人の話を聞くこともある。仕事の愚痴を聞かされることだってある。
それでも、いつの間にか会話の中心は娘たちになっていた。
自分のことを尋ねられても、いつも適当に答えて終わらせていた気がする。
「弘樹さんって、やっぱり素敵ですよね」
灯里の声に、弘樹は顔を上げた。
「またその話?」
「だって、本当にそう思うんですもん」
灯里は頬杖をついた。
「家事もできるし、優しいし、話していて落ち着くし。それに、私の話をちゃんと聞いてくれるでしょう?」
「それは普通のことじゃないかな」
「その普通が、なかなかできない人もいるんですよ」
灯里は少しだけ表情を改めた。
「私、弘樹さんと一緒にいると安心するんです」
その言葉に、弘樹は返事を忘れた。
安心する。
自分といることで、彼女はそんなふうに感じているのか。
「……灯里ちゃんは、俺のどこがそんなにいいんだろうね」
「全部、と言ったら困りますか?」
「困るというか……自分では、そんなに大した人間だとは思っていないから」
「じゃあ、私が教えてあげます」
「何を?」
「弘樹さんのいいところ。これから、少しずつ」
灯里は笑った。
その笑顔を見ていると、弘樹の胸の奥にあった緊張が、少しずつほどけていく。
けれど同時に、怖くもあった。
彼女は自分のことを、こんなにも真剣に見ている。
その気持ちに応えるということは、ただ彼女と会う時間を増やすだけでは済まないのかもしれない。
「だから、これからも私と会ってくださいね」
灯里が尋ねた。
弘樹は、今度はすぐに答えられなかった。
会いたいか、会いたくないか。
そう聞かれたら、答えは決まっている。
年齢の差を気にしているのも、娘たちのことを考えているのも、本当だ。
けれど、それらを理由にして、彼女と会いたい気持ちまでなかったことにするのは違う気がした。
「……うん。また会いたいよ」
口にした瞬間、弘樹自身が驚いた。
灯里の表情がぱっと明るくなる。
「本当ですか?」
「本当だよ」
「えへへ。嬉しいです」
灯里は少し照れながら笑った。
その顔を見て、弘樹も自然と笑っていた。
久しぶりに、誰かと一緒にいることそのものを楽しんでいる。
その事実が、何よりも新鮮だった。
◇
食事を終えて店を出るころには、街に夜の明かりが灯っていた。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ。いいお店だったね」
「気に入ってもらえてよかったです」
灯里はそう言ってから、弘樹の手にそっと触れた。
「でも、まだ終わりじゃありませんよ」
「え?」
彼女は弘樹の手を取った。
「もう少し、一緒にいたいです」
弘樹は、握られた手を見下ろした。
帰ろうと思えば、帰れる。
娘たちは家にいる。明日も普段どおり仕事がある。今夜はここで別れて、家に帰ればいい。
そうすれば、余計なことを考えずに済むかもしれない。
それなのに。
灯里の手の温かさが、別れを惜しむ自分の気持ちを、はっきりと意識させた。
「もう遅いし、そろそろ帰ったほうが……」
「弘樹さんは、帰りたいですか?」
静かな問いだった。
責めるような口調ではない。
ただ、彼女は自分の答えを待っていた。
「……帰りたくないわけじゃないけど」
「じゃあ、もう少しだけ」
灯里は手を離さなかった。
「私、今日は弘樹さんと二人きりで過ごしたいんです」
いつもの明るい声とは違っていた。
弘樹は、灯里の顔を見つめた。
彼女が何を望んでいるのか、もう分かっている。
そして、自分がそれを意識していることも。
「灯里ちゃん。俺は、君よりずっと年上だよ」
「知っています」
「久由美の友達でもある」
「それも、分かっています」
「……それでも、いいの?」
灯里は少しだけ視線を落とした。
先ほどまでの自信に満ちた表情が、かすかに陰る。
「弘樹さんは、私じゃ嫌ですか?」
「そういうことじゃないよ」
「じゃあ……私のことを好きになってくれる可能性はありますか?」
弘樹は黙り込んだ。
これまで、自分の気持ちを整理しようとしてきた。
けれど、整理するという言葉を使いながら、本当は答えを先延ばしにしていただけなのかもしれない。
灯里と会うのが楽しみだった。
メッセージが届けば嬉しかった。
彼女の笑顔を見ると、もっと一緒にいたいと思った。
それを恋愛感情と呼んでいいのか、まだ確信は持てない。
それでも、彼女を特別に思い始めていることだけは分かっていた。
「……あると思う」
ようやく答えると、灯里は目を見開いた。
「本当ですか?」
「うん。俺も、君のことを意識しているんだと思う」
灯里の頬が赤く染まった。
嬉しそうな笑顔が浮かぶ。
けれど、次の瞬間には、少しだけ不安そうに弘樹を見上げた。
「それなら……今日は、もう少しだけ私に時間をくれませんか?」
弘樹は、彼女の手を握り返した。
その手を取ったのは、彼女に求められたからだけではない。
自分も、彼女と離れたくなかったからだ。
「……分かった」
それでも、弘樹は一度だけ確かめるように尋ねた。
「本当に、後悔しない?」
「後悔するかどうかは、分かりません」
灯里は正直に答えた。
「でも、何もしないまま諦めたら、きっと後悔します」
その言葉に、弘樹は何も言えなかった。
彼女は若い。
自分よりずっと先に、これからの人生が広がっている。
そんな彼女が、自分を選ぼうとしている。
それがどれほどの意味を持つのか、弘樹にはまだ分からなかった。
ただ、自分も彼女に惹かれている。
その事実から目を背けるのは、もうやめようと思った。
「俺も、君と一緒にいたい」
灯里は息を呑み、それから何度も頷いた。
「……はい」
握った手に、少しだけ力がこもった。
◇
灯里が提案したのは、駅近くのホテルだった。
その言葉を聞いた瞬間、弘樹は足を止めた。
「……灯里ちゃん」
「はい」
「そこまで考えていたの?」
灯里は、さすがに恥ずかしそうに目を伏せた。
「はい。今日、ずっと考えていました」
それから、少し迷うように続けた。
「弘樹さんと、もっと親密になりたいって」
弘樹はすぐには答えられなかった。
想像していなかったわけではない。
けれど、実際に言葉にされると、急に現実味を帯びてくる。
「そんなに簡単に決めていいことじゃないだろう」
「簡単に決めたわけじゃありません」
灯里は弘樹の手を両手で包んだ。
「私だって、怖くないわけじゃないです。弘樹さんにどう思われるか、久由美に知られたらどうなるか、何度も考えました」
彼女は一度、息を整えた。
「でも、弘樹さんが好きなんです。もっと近くにいたい。今日だけじゃなくて、これからも」
弘樹は、握られた手を見つめた。
娘の友人と恋愛をする。
それがどれほど難しいことなのか、分かっているつもりだった。
久由美が知ったら、どう思うだろう。
自分を信頼して家に友人を連れてきていた娘に、どんな顔をすればいいのだろう。
その問いから、逃げることはできない。
けれど、今ここで灯里を拒めば、何もなかったことにできるのだろうか。
おそらく、そうではない。
彼女を知りたいと思った。
もっと話をしたいと思った。
彼女が自分を見つめる目に、応えたいと思った。
そして今、彼女と一緒にいたいと願っている。
その気持ちは、誰かに言われたから生まれたものではなかった。
「……灯里ちゃん」
「はい」
「俺も、君と一緒にいたい」
弘樹は、今度こそ自分の意思で言った。
「ただ、これからのことは、二人でちゃんと考えていこう。簡単なことじゃないと思うから」
「はい。私も、ちゃんと考えます」
灯里は、ほっとしたように微笑んだ。
それから、少しだけためらったあと、弘樹の腕にそっと寄り添った。
「ありがとうございます。私、今日のことを忘れません」
「俺も、忘れないと思うよ」
そう答えた弘樹の胸には、期待と不安が入り混じっていた。
この先、二人の関係がどうなっていくのか。
今はまだ、分からない。
それでも二人は、ホテルへ向かって歩き始めた。
◇
部屋に入ると、灯里は急に口数が少なくなった。
先ほどまであれほど積極的だったのに、今は弘樹の前で、少し落ち着かない様子で立っている。
「……弘樹さん」
「うん?」
「本当に、私でいいんですか?」
弘樹は驚いた。
「それは、こっちの台詞だよ」
「え?」
「俺みたいなおじさんで、本当にいいのかなって」
灯里は、困ったように笑った。
「弘樹さんは、まだそんなことを言うんですね」
「いや、だって……」
「私は、弘樹さんがいいんです」
灯里は弘樹の手を握った。
「弘樹さんだからいいんです」
彼女は一度だけ、視線を落とした。
「だから、今夜だけでも……私のことを、ちゃんと一人の女性として見てほしいです」
弘樹は、灯里の顔を見つめた。
そこには、いつもの明るさだけではない、隠しきれない不安があった。
積極的に振る舞っていたのは、彼女もまた、拒まれることを恐れていたからなのかもしれない。
「……分かった」
弘樹は、灯里の手を握り返した。
「俺も、君と一緒にいたいと思ってる」
「本当に?」
「ああ」
灯里の表情が、ゆっくりとほころんだ。
弘樹は彼女の肩に手を添えた。
触れてもいいのか、一瞬だけ迷う。
その迷いを感じ取ったのか、灯里は小さく頷いた。
弘樹は、そっと彼女を抱きしめた。
灯里の身体が、驚いたように小さく震えた。
「弘樹さん……」
「灯里ちゃん」
互いの名前を呼ぶ声が、静かな部屋に落ちた。
二人は少しの間、何も言わずに抱き合っていた。
やがて、灯里が顔を上げる。
弘樹はその目を見つめ、ゆっくりと顔を近づけた。
唇が触れた。
短い、ためらいがちな口づけだった。
離れたあと、灯里は恥ずかしそうに笑った。
弘樹もまた、胸の高鳴りを隠せなかった。
自分からも彼女を求めた。
もう、娘の友人だからという理由だけで、気持ちをごまかすことはできない。
その夜、二人は互いの意思を確かめながら、初めて一夜を共にした。
それは、二人にとって簡単に割り切れる出来事ではなかった。
明日になれば、弘樹はまた父親としての生活に戻る。
灯里も、久由美の友人として彼女と顔を合わせることになる。
今夜のことを、何事もなかったように隠していられるのだろうか。
そんな不安は、確かにあった。
それでも、弘樹は灯里を抱きしめたことを後悔していなかった。
◇
翌朝。
弘樹は目を覚まし、しばらく天井を見つめていた。
「……本当に、何をやっているんだろうな、俺は」
隣では、灯里がまだ眠っている。
窓の向こうから差し込む朝の光を眺めながら、弘樹は昨夜のことを思い返した。
勢いに驚かされたのは事実だ。
年齢のことも、娘たちのことも、何も解決していない。
それでも、最後に自分で選んだことも事実だった。
灯里に求められたからだけではない。
彼女と一緒にいたいと思ったからだ。
そこまで考えたところで、弘樹は目を閉じた。
嬉しさと同じくらい、胸の奥に重いものが残っていた。
やがて、隣で布団が動いた。
「……弘樹さん?」
「おはよう」
「おはようございます……」
灯里はしばらく弘樹を見つめ、それから恥ずかしそうに布団へ顔を埋めた。
「どうしよう……。本当に、一緒に朝を迎えちゃいました」
「誘ったのは灯里ちゃんだろう?」
「そうですけど……」
布団から顔を出した灯里は、少しだけ笑った。
「でも、嬉しいです」
弘樹は、その顔を見て微笑んだ。
「俺も、嬉しいよ」
その言葉に、灯里は安心したように頷いた。
身支度を整えてホテルを出ると、朝の街は、いつもと変わらず動き始めていた。
通勤する人々。駅へ急ぐ学生。開店準備をする店員。
誰も、二人がどんな夜を過ごしたのか知らない。
その当たり前の光景が、弘樹には妙にまぶしく感じられた。
駅へ向かう途中、灯里がそっと手を握ってきた。
「また、会ってくれますか?」
「もちろん」
「今度も、二人きりで?」
弘樹は少しだけ考えた。
この先も会いたい。
その気持ちは、昨夜を越えて、さらに確かなものになっていた。
「……そうだね。また会おう」
「約束ですよ」
「ああ、約束だ」
灯里は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、弘樹も笑った。
けれど、握った手を離すとき、胸の奥に小さな痛みが走った。
この手をつないで歩く姿を、久由美に見られたら。
そう考えただけで、笑顔がわずかに曇った。
◇
帰宅すると、家の中から朝食の匂いがした。
「お父さん、おかえり。朝ご飯、食べる?」
リビングから久由美が声をかけてきた。
「ああ、ありがとう」
弘樹はできるだけ普段どおりに答えた。
「昨日は遅かったね。何かあったの?」
心臓が跳ねた。
久由美の表情に、疑っている様子はない。
ただ、帰りが遅かった父親を気にかけているだけだ。
「ちょっと、友達と話し込んでいてね」
口にしてから、弘樹は自分の言葉を意識した。
嘘をついた。
娘に心配をかけないためだと、自分に言い聞かせることはできる。
まだ関係がどうなるか分からないから、話せないのだとも言える。
けれど、本当のことを隠したのは自分自身だった。
「ふうん。珍しいね」
久由美はそれ以上追及しなかった。
「お父さん、コーヒー飲む?」
「ああ、頼むよ」
弘樹は椅子に腰を下ろした。
目の前には、いつもと変わらない朝食の支度がある。
娘たちの声も、食器の触れ合う音も、昨日までと何も変わらない。
変わってしまったのは、自分のほうだった。
スマートフォンが震えた。
画面には、灯里からのメッセージが表示されている。
『弘樹さん、今日はちゃんと休んでくださいね。また連絡します!』
その文字を見た瞬間、自然と頬が緩んだ。
けれど、すぐに久由美の視線が気になり、弘樹は画面を伏せた。
「お父さん?」
「ん?」
「今、何か嬉しいことでもあった?」
「……いや、別に」
弘樹は、ぎこちなく笑った。
「ちょっと仕事のことを思い出しただけだよ」
「ふうん?」
久由美は不思議そうに首を傾げたが、それ以上は何も言わなかった。
弘樹はテーブルの下で、そっと返信を打った。
『ありがとう。灯里ちゃんも、ちゃんと休んでね』
送信すると、胸の奥が少しだけ温かくなった。
彼女とまた会いたい。
これからも、一緒に過ごす時間を増やしていきたい。
その気持ちは、もう否定できなかった。
けれど同時に、娘たちに隠し事をする自分にも気づいていた。
まだ何も知らない久由美が、いつか真実を知ったとき、どんな顔をするのだろう。
考えたくなかった。
だから弘樹は、スマートフォンをポケットにしまい、いつものように娘たちの話に耳を傾けた。
何も変わっていないふりをしながら。
秘密を抱える生活は、思っていたよりも落ち着かない。
それでも、灯里とまた会いたいと思っている自分がいる。
こうして、二人だけの秘密の関係が始まった。
その秘密が、いつか大切な日常を傷つけることになるとしても。
今の弘樹には、まだ、その重さを本当の意味で理解できていなかった。




