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冴えないおじさんが、もう一度恋をする物語  作者: ウルミン


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第4話 恋人になった朝は落ち着かない

 午前六時半。


「……眠い」


 土井弘樹は、目を覚ますなり呟いた。


 昨夜は、なかなか寝つけなかった。理由は分かっている。


 灯里のことが、頭から離れなかったのだ。


 枕元のスマートフォンを手に取り、画面を確認する。新しいメッセージは届いていない。


「……何を期待してるんだ、俺は」


 苦笑しながら、弘樹はベッドから起き上がった。


 顔を洗い、着替え、台所に立つ。炊飯器からご飯をよそい、味噌汁を温め、卵焼きを作る。


 いつもと変わらない朝のはずだった。


 けれど、卵焼きを巻いている最中にも、ふと昨夜のことが頭をよぎる。


 灯里の笑顔。

 手を握ったときの、少し緊張した表情。

 そして、二人で過ごした時間。


「……参ったな」


 弘樹は菜箸を置き、額に手を当てた。


 四十三歳にもなって、誰かのことでこんなにも心が落ち着かなくなるとは思わなかった。


 しかも、相手は二十歳の大学生だ。


 娘の親友で、これまで何度も自宅に招いてきた女性。家族と過ごす時間の中に、当たり前のようにいた存在だった。


 その灯里を、今は一人の女性として意識している。


 考えれば考えるほど、簡単には割り切れない関係だった。


 それでも。


 また会いたい。


 その気持ちだけは、どうしても否定できなかった。


     ◇


「お父さん、おはよう」


 リビングに久由美がやってきた。


「おはよう。朝ご飯、できてるよ」


「ありがとう。……あれ?」


 椅子に座った久由美が、弘樹の顔をじっと見つめた。


「お父さん、なんだか機嫌よくない?」


「そうかな?」


「うん。さっきから鼻歌を歌ってるし」


「そ、そうか?」


 弘樹は思わず口を閉じた。


 言われてみれば、台所に立っている間、無意識に鼻歌を口ずさんでいたらしい。


「何かいいことでもあった?」


「いや、特には……」


「ふうん」


 久由美はまだ何か言いたそうだったが、それ以上は追及しなかった。


 そこへ、藍華も眠そうな顔で現れた。


「おはよー。今日、卵焼き甘いやつ?」


「そうだよ」


「やった」


 藍華は嬉しそうに席についた。


 二人の娘が朝食を食べる姿を眺めながら、弘樹は胸の奥に小さな痛みを覚えた。


 この二人に、灯里とのことを話せる日は来るのだろうか。


 特に久由美は、灯里を親友として信頼している。そんな二人の関係を、自分の恋愛によって変えてしまうかもしれない。


 もし知られたら、久由美はどう思うだろう。


「お父さん?」


「ん?」


「お鍋、吹きこぼれそうだよ」


「あっ!」


 弘樹は慌てて火を止めた。


 久由美と藍華が顔を見合わせ、くすくすと笑う。


「珍しいね。お父さんがそんなにぼんやりするなんて」


「……今日は少し寝不足なんだ」


 弘樹は苦笑した。


 嘘ではない。


 ただ、その理由を話せないだけだった。


     ◇


 午前九時過ぎ。


 娘たちを送り出した弘樹は、ようやく仕事に取りかかろうとパソコンの前に座った。


 そのとき、スマートフォンが震えた。


『弘樹さん、おはようございます!』


 灯里からだった。


 たった一行。それだけなのに、弘樹の口元は自然と緩んだ。


『おはよう。もう大学に行くところかな?』


『今日は午後からなんです。それより、弘樹さんは今、何をしていますか?』


『これから仕事だよ』


『そっか。お仕事、頑張ってくださいね』


 そこで会話が終わるかと思った。


 しかし、ほどなくして、もう一通届いた。


『……あの、昨日のことなんですけど』


 弘樹の指が止まった。


『うん?』


 既読がついてから、少し間が空いた。


『弘樹さんは、後悔していませんか?』


 画面を見つめたまま、弘樹は昨夜を思い返した。


 灯里への気持ちは、勢いだけで生まれたものではない。自分から彼女を求めた気持ちも、もっと一緒にいたいと思ったことも、確かに本心だった。


 もちろん、これから考えなければならないことは山ほどある。


 それでも、昨夜をなかったことにしたいとは思わなかった。


『後悔はしていないよ』


 そう打ち込んで、送信する。


 返事はすぐに届いた。


『……よかった』


 続いて、もう一通。


『私、弘樹さんに嫌われちゃったらどうしようって、朝からずっと考えていたんです』


「……灯里ちゃん」


 弘樹は小さく呟いた。


 いつもはあんなにまっすぐ気持ちを伝えてくる彼女も、昨夜のことを不安に思っていたのだ。


 自分だけが戸惑っているわけではない。そのことに、少しだけ安堵した。


『嫌いになんかならないよ。俺も、灯里ちゃんと一緒にいられて嬉しかった』


 送信してから、弘樹は画面を見つめた。


 しばらく返事はなかった。


 仕事に戻ろうかと思ったころ、ようやくスマートフォンが震えた。


『本当ですか?』


『本当だよ』


『じゃあ……』


 その先を読む前から、何となく予想がついた。


『また、会ってくれますか?』


 弘樹は思わず笑った。


 昨日の別れ際にも、同じようなことを聞かれた気がする。


『もちろん。また予定を合わせよう』


『約束ですよ!』


『約束だ』


 これで一段落かと思ったのも束の間だった。


『できれば、今週中がいいです』


「早いな……」


 思わず声が漏れる。


 さらに、追い打ちをかけるようにメッセージが届いた。


『だって、もう会いたいんですもん』


 弘樹は片手で顔を覆った。


 こういうところが、灯里らしい。


 遠慮しているようで、肝心なところでは一歩も引かない。


 困ったものだと思う。


 けれど、その積極性が嫌ではなかった。むしろ、自分と同じように会いたいと思ってくれていることが、素直に嬉しかった。


『分かった。今週、時間を作るよ』


 返信すると、灯里から満面の笑みを浮かべた絵文字が送られてきた。


 それを見て、弘樹も笑った。


 パソコンの画面には、手つかずの仕事が待っている。


 それなのに、すぐには取りかかれそうになかった。


     ◇


 その日の夕方。


 弘樹が洗濯物を取り込んでいると、玄関のチャイムが鳴った。


「はーい」


 扉を開けた弘樹は、思わず目を見開いた。


「こんにちは、弘樹さん」


「灯里ちゃん? どうしたの?」


 そこに立っていたのは、私服姿の灯里だった。


「久由美なら、まだ帰ってきていないと思うけど」


「はい。今日は久由美に用があって来たんじゃないんです」


 灯里は少し頬を赤くして、弘樹を見上げた。


「弘樹さんに、会いたくて」


「……え?」


 弘樹は言葉を失った。


「いや、でも、さっきメッセージで……」


「はい。今週中に会う約束をしましたよね?」


「そうだね」


「だから、今日、少しだけでも会えないかなって」


 灯里はいたずらっぽく笑った。


「駄目ですか?」


 弘樹は困ったように頭をかいた。


 仕事はまだ残っている。夕飯の準備もある。娘たちが帰ってくる時間だって、そう遠くはない。


 何より、朝からずっと気にしていた相手が、こうして目の前にいる。


 嬉しくないはずがなかった。


「……少しだけなら」


「本当ですか?」


「うん。でも、あまり長くは話せないよ」


「ありがとうございます!」


 灯里はぱっと顔を輝かせた。


 その笑顔を見ていると、断る理由を探していた自分が、少しおかしく思えた。


 弘樹は彼女をリビングへ通し、お茶を用意した。


 向かい合って座る。


 見慣れた部屋に、見慣れたテーブル。これまでも、灯里がここでお茶を飲むことは何度もあった。


 けれど、今日は違う。


 今は互いの気持ちを知っている。


 それだけのことが、二人の間に新しい空気を生んでいた。


「……なんだか、不思議だね」


 弘樹が口を開く。


「何がですか?」


「灯里ちゃんがこうして家に来るのは、今までもあったのに。今日は、何だか落ち着かない」


「ああ……私も同じです」


 灯里はカップを両手で包み、微笑んだ。


「今までは久由美に会いに来ていたけど、今日は弘樹さんに会いに来たんですから」


 あまりにもまっすぐな言葉に、弘樹は返事に困った。


 灯里はそんな彼の顔を覗き込む。


「弘樹さん、照れてます?」


「……照れてないよ」


「本当ですか?」


「本当だって」


「ふふっ。可愛い」


「可愛いって……」


 弘樹は苦笑した。


 四十三歳の男に向ける言葉ではない気がする。


 けれど、灯里は冗談を言っているわけではなかった。


「私、弘樹さんのそういうところも好きなんです」


 弘樹は、今度こそ何も言えなくなった。


 こんなふうに好意を向けられることに、まだ慣れていない。


 まして、相手が灯里となればなおさらだった。


     ◇


「……あの、弘樹さん」


 他愛のない話をしばらく続けたあと、灯里が少し真剣な声で呼びかけた。


「昨日のこと、もう少し話してもいいですか?」


「……うん」


 弘樹はカップを置いた。


「私、弘樹さんともっと一緒にいたいんです。今までみたいに、たまに食事をするだけじゃなくて」


 灯里は膝の上で両手を握りしめた。


「でも、弘樹さんには久由美たちがいるし、私は久由美の親友です。だから、好きだからって、自分の気持ちだけを押しつけるのは違うと思っています」


 弘樹は意外に思った。


 いつも積極的な灯里が、二人の関係について、ここまで慎重に考えていたとは思わなかった。


「灯里ちゃん……」


「それでも、私は弘樹さんと会いたいんです」


 灯里は顔を上げた。


「私のことを、これからも一人の女性として見てください」


 その言葉が、弘樹の胸に静かに響いた。


 彼女は、自分の気持ちを伝えるだけでなく、その先にある問題も理解しようとしている。


 だからこそ、簡単な言葉で返事をするわけにはいかなかった。


 灯里の気持ちを受け入れることは、ただ二人で楽しい時間を過ごすということではない。


 二十三歳の年齢差。


 娘たちとの関係。


 そして、灯里自身のこれからの人生。


 自分は彼女の人生に、どこまで責任を持って関わる覚悟があるのだろう。


 まだ答えは出ていない。


 それでも、曖昧な言葉で彼女を安心させるのは違うと思った。


「……うん。俺も、灯里ちゃんともっと一緒にいたい」


 灯里の目が大きく開かれた。


「本当に?」


「本当だよ」


 弘樹は一度言葉を切り、彼女をまっすぐに見た。


「ただ、俺たちの関係は、簡単に誰かに話せるものじゃない。それは分かっているよね」


「はい」


「久由美たちのこともある。だから、焦らずに考えていこう。灯里ちゃんの気持ちも、俺の気持ちも、大切にしながら」


 灯里は静かに頷いた。


「……はい。私、待てます」


 そう答えてから、彼女は少しだけいたずらっぽい笑みを浮かべた。


「でも、会いたいときは会いたいって言いますからね」


「そこは待ってくれないんだね」


「はい!」


 あまりにも即答だったので、弘樹は吹き出した。


 灯里もつられて笑う。


 張り詰めていた空気が、少しだけ和らいだ。


 弘樹は、目の前の彼女を見つめた。


 自分の気持ちを隠すことばかり考えていたが、灯里もまた、二人の関係を大切にしようとしている。


 そのことが、嬉しかった。


 同時に、彼女の思いに応えたいという気持ちが、また一つ強くなった。


     ◇


 玄関の外から、足音が聞こえた。


「ただいまー」


 久由美の声だった。


 二人は、ほとんど同時に顔を上げた。


「あ、久由美だ」


 灯里が立ち上がる。


「私、普通にしていれば大丈夫ですよね?」


「そ、そうだね。いつもどおりにしていれば……」


 答えながら、弘樹は自分の声が上ずっていることに気づいた。


 これでは、かえって怪しまれるのではないか。


 そう思ったところで、玄関の扉が開いた。


「ただいま、お父さん。……あれ、灯里?」


「おかえり、久由美!」


 灯里はいつもの明るい笑顔で迎えた。


「どうしたの? 遊びに来てたの?」


「うん。ちょっと弘樹さんとお話ししてたの」


 その言葉に、弘樹の心臓が跳ねた。


 けれど、久由美は特に気にした様子もなく、靴を脱いで上がってきた。


「そっか。お父さん、灯里に変なこと言われてなかった?」


「えっ?」


 弘樹は思わず声を上げた。


 久由美が不思議そうに振り返る。


「どうしたの、お父さん?」


「いや、何でもない」


 隣では、灯里が笑いをこらえている。


「久由美、変なことって何?」


「うーん。灯里って、気に入ったものがあると、すごく積極的になるところがあるから」


「そ、そうなんだ……」


 弘樹は曖昧に笑った。


 久由美は気づいていない。


 そう分かっていても、何気ない会話の一つひとつに、ひどく冷や汗をかいてしまう。


「じゃあ、私、そろそろ帰るね」


 灯里が鞄を手に取った。


「もう帰るの?」


「うん。また明日、大学でね」


「分かった。気をつけてね」


 弘樹は灯里を玄関まで見送った。


 靴を履いた彼女が、ふと振り返る。


「今日は、ありがとうございました」


 弘樹にだけ聞こえる小さな声だった。


「……こちらこそ」


「また連絡しますね」


 灯里は微笑み、扉の向こうへ消えていった。


 弘樹は閉じた扉を、しばらく見つめていた。


「お父さん?」


「な、何?」


「灯里と、何を話してたの?」


 弘樹の身体が固まった。


 久由美は、ただ不思議そうにこちらを見ている。


「……大学のこととか、最近の話だよ」


「ふうん」


 久由美は少し考えるように首を傾げた。


「灯里、最近お父さんの話をよくするんだよね」


「……え?」


「料理が上手とか、優しいとか。前からそうだったけど、最近は特に」


 弘樹は返事に詰まった。


 灯里が自分のことを話している。


 それ自体は嬉しい。けれど、その変化に久由美が気づいていることは、決して喜ばしいことではなかった。


「そうなんだ……」


「うん。まあ、お父さんのことを褒めてくれるのは嬉しいけどね」


 久由美は笑いながら、リビングへ戻っていった。


 弘樹は、その場に立ち尽くした。


 まだ、何も知られていない。


 けれど、灯里の変化は、少しずつ久由美にも伝わり始めている。


 この関係を秘密にしておくことは、思っていた以上に難しいのかもしれない。


     ◇


 その夜。


 夕食を終え、娘たちがそれぞれの部屋に戻ったころ、弘樹のスマートフォンが震えた。


『弘樹さん、今日はありがとうございました』


 灯里からだった。


『久由美が帰ってきたとき、ちょっと緊張しちゃいましたね』


 弘樹は思わず笑った。


『本当だよ。変な汗をかいた』


『ふふっ。ごめんなさい』


 少し間を置いて、次のメッセージが届いた。


『でも、今日、弘樹さんの気持ちを聞けて嬉しかったです』


 弘樹は画面を見つめた。


 自分の気持ちを伝えたことに、後悔はなかった。


 灯里と一緒にいたい。

 また会いたい。

 彼女が笑ってくれると、自分も嬉しい。


 今は、その気持ちを素直に認めてもいいのだと思えた。


『俺も、今日は話せてよかったよ』


 返信すると、灯里からすぐに返事が届いた。


『じゃあ、次の約束を決めてもいいですか?』


「……本当に待ってくれないな」


 弘樹は笑いながら、返信を打った。


『いいよ。今度はどこに行きたい?』


『映画を見たいです。そのあと、二人でゆっくり過ごせるところにも行きたいな』


 弘樹は、画面を見つめたまま考え込んだ。


 灯里の言う「ゆっくり過ごせるところ」が何を意味するのか、分からないわけではない。


 けれど、彼女が何を望んでいるのか、きちんと聞いてみたいとも思った。


 二人の関係は、まだ始まったばかりだ。


 気持ちが通じ合ったからといって、すべてが分かり合えたわけではない。


 焦らずに、少しずつ知っていけばいい。


『分かった。映画を見てから、ゆっくり話そう』


 送信すると、灯里から嬉しそうな返事が届いた。


『約束ですよ、弘樹さん』


『約束だ』


 スマートフォンを置き、弘樹は椅子の背にもたれた。


 静かに息を吐く。


 秘密の恋愛。


 その言葉が、少しずつ現実味を帯びてきていた。


 灯里と一緒にいたい。その気持ちは、もう疑いようがない。


 だからこそ、これからどうしていくべきなのか、考えなければならなかった。


 娘たちとの生活を大切にしたい。


 灯里の気持ちにも、誠実に向き合いたい。


 その二つを両立させることができるのか。


 今の弘樹には、まだ分からなかった。


 ただ、一つだけ確かなことがある。


 次に灯里と会う日を、もう楽しみにしている自分がいた。


 その気持ちを否定するつもりはなかった。


 けれど、胸の奥に残る小さな不安まで、消えたわけではない。


 久由美の何気ない言葉が、ふと頭をよぎる。


 ――灯里、最近お父さんの話をよくするんだよね。


 いつか、その理由を久由美が知る日が来るのだろうか。


 弘樹は目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。


 今はまだ、考えたくなかった。


 ただ、灯里と過ごす時間が、いつの間にか自分にとって特別なものになり始めている。


 その事実だけは、もう隠しようがなかった。

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