第2話 二人きりの約束
朝七時。
「お父さん、スマホ鳴ってるよ」
キッチンから聞こえた藍華の声に、弘樹は慌ててリビングへ戻った。
「ああ、ありがとう」
テーブルの上に置いていたスマートフォンを手に取る。
画面には、昨夜メッセージを交換した灯里の名前が表示されていた。
『おはようございます。昨日はありがとうございました!』
続けて、もう一通。
『昨日お話ししたお店、今日の夕方はどうですか? もしお忙しくなければ、一緒に行きたいです』
「……今日?」
思わず声が漏れた。
昨日の会話を思い出す。
灯里から食事に誘われた。確かにそうだった。
しかし、まさか本当に日程を決めてくるとは思わなかった。
「誰から?」
藍華が興味津々といった様子で顔を覗き込んでくる。
「いや、久由美の友達の灯里ちゃんだよ」
「灯里? 何かあったの?」
「昨日はありがとうございました。っていうお礼の連絡だよ」
「ふーん?」
「なんだ、その反応は」
弘樹は苦笑しながらスマートフォンを見下ろした。
灯里は、どういうつもりなのだろう。
自分を食事に誘う理由が分からない。
それでも、せっかくの誘いを断るのも失礼な気がした。
『今日は大丈夫だよ。何時ごろにしようか?』
返信を送ると、すぐに返事が届いた。
『ありがとうございます! 六時に駅前で待ち合わせでもいいですか?』
『分かった。それじゃあ六時に』
短いやり取りだった。
それだけなのに、弘樹はなぜか落ち着かなかった。
◇
夕方。
弘樹はクローゼットの前で、しばらく考え込んでいた。
いつものシャツでいいだろうか。
いや、食事に行くだけなのだから、そこまで気にする必要もない。
結局、普段より少しだけきれいなシャツを選び、鏡の前で襟元を整えた。
「……何をやってるんだ、俺は」
自分で自分に呆れてしまう。
相手は娘の友人だ。
変に意識する必要などない。
そう言い聞かせて家を出た。
◇
「弘樹さん!」
駅前に着くと、灯里がすぐに気づいて駆け寄ってきた。
落ち着いた色のブラウスに、膝丈のスカート。普段、久由美と一緒に家へ来るときとは少し違う装いだった。
「待たせちゃったかな?」
「いえ、私も今来たところです」
灯里は微笑んだ。
「今日は来てくれてありがとうございます」
「いや、誘ってくれたのは灯里ちゃんだからね」
「それでも、嬉しいです」
そう言って、灯里は自然に弘樹の隣へ並んだ。
二人で歩き始める。
弘樹は、普段なら娘たちと歩く道なのに、今日は妙に新鮮な気がした。
「お店は近いの?」
「はい。歩いて十分くらいです。落ち着いた雰囲気のお店で、料理もおいしいんですよ」
「へえ。それは楽しみだな」
「私もです」
灯里は横目で弘樹を見た。
今日は久由美も藍華もいない。
誰かの父親としてではなく、二人で話ができる。
それが、灯里には何より嬉しかった。
◇
店内は落ち着いていて、ゆっくりと話をするにはちょうどよかった。
料理を注文し、二人は向かい合って座った。
「弘樹さんって、普段はお休みの日も家にいることが多いんですか?」
「そうだね。仕事が在宅だから、どうしても家にいる時間が長くなるかな。買い物や用事で出かけることはあるけど」
「趣味とかは?」
「読書かな。あとは料理。最近は娘たちの好みも分かってきたから、献立を考えるのも楽しいよ」
「素敵ですね」
灯里は頬杖をつき、弘樹の話を聞いていた。
「弘樹さんって、家族のことを本当に大切にしてるんですね」
「まあ、父親だからね」
「それだけじゃないと思います」
弘樹が顔を上げる。
「どういうこと?」
「自分がやりたいことより、家族が喜ぶことを優先してる感じがするんです。私、そういうところ素敵だと思います」
灯里は、最後の言葉を自然に口にした。
言ってから、少しだけ緊張した。
弘樹は手元の水を飲み、困ったように笑った。
「ありがとう。でも、そんな大したことじゃないよ」
「またそうやって謙遜するんですね」
「いや、本当に……」
「私は、本当にそう思ってるんです」
灯里の声は穏やかだった。
冗談を言っているようには見えない。
弘樹は、どう返せばいいのか分からなくなった。
彼女は自分を褒めてくれている。
それは分かる。
ただ、それが親しみから来るものなのか、それ以上の感情なのか。
判断がつかなかった。
◇
食事を終えた二人は、駅へ向かって歩いていた。
夕暮れの街は、帰宅する人々で賑わっている。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ。いいお店だったね」
「気に入ってもらえてよかったです」
灯里は少し歩く速度を落とした。
「あの、弘樹さん」
「ん?」
「また、二人で出かけてもいいですか?」
弘樹は足を止めた。
また、二人で。
今日だけの誘いではなかったのか。
「もちろん、食事くらいなら構わないけど……」
「食事だけじゃないです」
「え?」
灯里は顔を上げ、まっすぐに弘樹を見た。
「買い物でも、映画でも。弘樹さんと一緒に過ごしたいんです」
弘樹は言葉を失った。
彼女の表情は真剣だった。
自分の思い違いではないのかもしれない。
灯里は、娘の友人としてではなく、一人の女性として過ごしたいと言っている。
「灯里ちゃん。俺は……」
言いかけて、口を閉じた。
年齢のこと。
娘の友人であること。
そして、自分は彼女の気持ちに応えられるのかということ。
考えるべきことが多すぎた。
「困らせてごめんなさい」
灯里は小さく笑った。
「でも、私の気持ちは知っておいてほしかったんです」
弘樹は、彼女の顔を見つめた。
「……」
口を開いても言葉が出なかった。
「今、応えてくれなくても大丈夫です。」
その言葉に、弘樹は少しだけ安心した。
無理に答えを求められるわけではない。
彼女は自分の気持ちを伝えたかったのだ。
「今日はありがとう、灯里ちゃん」
「こちらこそ。楽しかったです」
駅前で別れるとき、灯里は一度だけ振り返った。
「また、連絡してもいいですか?」
「…あぁ、もちろん…」
弘樹が答えると、灯里は嬉しそうに笑った。
◇
帰宅すると、久由美がリビングで本を読んでいた。
「おかえり、お父さん。どこ行ってたの?」
「食事だよ」
「外食なんて珍しいね」
「俺だってたまには外で食べることもあるよ」
「ふーん?」
久由美は本から顔を上げた。
「なんだか、いつもより考え込んでる気がするけど」
「そうかな。少し疲れただけだよ」
弘樹は曖昧に笑い、台所へ向かった。
娘に嘘をつきたいわけではない。
ただ、今の自分には、灯里の気持ちをどう説明すればいいのか分からなかった。
久由美は父親の背中をしばらく見つめていたが、それ以上は聞かなかった。
◇
その夜。
弘樹のスマートフォンが震えた。
『今日はありがとうございました。すごく楽しかったです』
灯里からだった。
弘樹は少し考え、返信する。
『こちらこそ。誘ってくれてありがとう』
すぐに既読がついた。
『あの、弘樹さん』
『どうしたの?』
『私、弘樹さんともっと仲良くなりたいです』
弘樹は画面を見つめた。
続けて、もう一通。
『急がなくていいので、私のことを一人の女性として考えてくれたら嬉しいです』
胸の奥が、かすかにざわついた。
冗談ではない。
彼女は、本気なのだ。
弘樹はスマートフォンを置き、天井を見上げた。
「……参ったな」
困っているはずなのに、不思議と嫌な気持ちではなかった。
むしろ、彼女の言葉を何度も読み返してしまう自分がいた。
これまで、家族のために生きてきた。
それが嫌だったわけではない。
娘たちが成長していく姿を見ることは、何より嬉しい。
けれど、自分自身の人生については、いつの間にか考えなくなっていた。
灯里の言葉は、そんな弘樹の心に、小さな波紋を広げていた。
彼女のことを、もっと知りたい。
そう思ってしまったことを、弘樹はまだ認められずにいた。
スマートフォンを手に取り、返信を打つ。
『ありがとう。俺も、灯里ちゃんのことをもう少し知りたいと思ってるよ』
送信してから、弘樹は自分の言葉を読み返した。
これでよかったのだろうか。
答えはまだ分からない。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
次に灯里と会うとき、きっと今までと同じ気持ちではいられない。
弘樹はスマートフォンを伏せ、静かに息を吐いた。
新しい日常は、もう始まりかけていた。




