第1話 冴えないおじさんと、少し変わった日常
「さて、今日は何をしようかな」
朝六時半。
土井弘樹は、いつものように目覚まし時計を止めると、ゆっくりとベッドから起き上がった。
顔を洗い、寝癖を直し、部屋着の上からエプロンを着ける。
まずは炊飯器の確認。それから味噌汁を温め直し、卵を焼いて、冷蔵庫から作り置きのおかずを取り出す。
並行して娘たちのお弁当も用意する。
慣れた手つきで作業を進めながら、リビングのテレビでは朝のニュースを流していた。
妻の沙希が亡くなってから、もう何年になるだろう。
それ以来、弘樹は在宅で事務の仕事をしながら、二人の娘を育ててきた。
大変なことがなかったわけではない。
それでも、朝食を作り、娘たちを送り出し、仕事をして、夕飯を用意する。
そんな毎日の繰り返しが、今ではすっかり生活の一部になっていた。
『続いてのニュースです。市内の大学に勤務する女性教員が、男子学生に対して不適切な接触を行ったとして、大学側が調査を進めていることが分かりました』
「……朝から物騒な話だな」
弘樹はフライパンを傾けながら、ちらりとテレビに目を向けた。
女性が男性に対して、そこまで積極的に迫るものなのか。
自分の感覚では、少し信じがたい話だった。
もっとも、ニュースになるくらいなのだから、普通ではない事件なのだろう。
そう考えて、弘樹は再び料理に集中した。
「お父さん、おはよう」
「おはよう、久由美。今日は一限からだっけ?」
「うん。だから、もうちょっとしたら出るよ」
長女の久由美が、眠そうな顔で食卓についた。
二十歳の大学生で、普段はしっかり者だ。家事もそれなりに手伝ってくれるが、朝だけは少し弱い。
「はい、朝ご飯。お弁当もできてるから、忘れないようにな」
「ありがとう。あ、藍華は?」
「まだ寝てる。今日は午後から講義だって言ってたから、もう少ししたら起こしてくれるか?」
「わかった」
久由美は味噌汁を一口飲み、ほっとしたように息をついた。
「やっぱり、お父さんのご飯が一番落ち着くね」
「大げさだな。いつもと同じだよ」
「そういうところだよ」
「ん?」
「なんでもない」
久由美は笑って、箸を進めた。
こういう何気ない会話が、弘樹にとっては何より大切だった。
やがて久由美が大学へ向かい、少し遅れて起きてきた次女の藍華にも朝食を出す。
藍華は十八歳の大学生で、姉とは対照的に、思ったことをそのまま口にするタイプだ。
「お父さん、今日の夕飯なに?」
「まだ決めてないな。買い物に行ってから考えるよ」
「じゃあ、ハンバーグがいい!」
「はいはい。気が向いたらな」
「えー、そこは作ってくれるって言うところでしょ!」
そんなやり取りをしながら、藍華も大学へ出かけていった。
家の中が静かになる。
弘樹は食器を洗い、洗濯機を回し、パソコンの前に座った。
いつも通りの一日が始まる。
このときはまだ、今日が少しだけ特別な一日になるとは思ってもいなかった。
◇
午後三時過ぎ。
「もうこんな時間か」
ひと区切りついた仕事を保存し、弘樹は椅子から立ち上がった。
そろそろ夕飯の買い物に行かなければならない。
財布とスマートフォンを持ち、近所のスーパーへ向かう。
野菜売り場で夕飯の献立を考えていると、不意に背後から声をかけられた。
「あ、あのっ!」
「はい?」
振り返ると、見知らぬ若い女性が立っていた。
大学生くらいだろうか。
女性は何か言いたそうに口を開きかけては閉じ、少し赤くなった顔で弘樹を見上げていた。
「あの、これ……よかったら!」
「えっ?」
差し出されたのは、小さく折り畳まれた紙だった。
弘樹が戸惑いながら受け取ると、女性は早口で続けた。
「連絡、待ってますから!」
それだけ言うと、女性は逃げるように立ち去ってしまった。
「……なんだったんだ?」
手の中の紙を開いてみる。
裏側には、メッセージアプリのIDと短い一言が書かれていた。
『よかったら、お食事でも』
「…………」
弘樹はしばらく、その紙を眺めていた。
ナンパ、というやつだろうか。
いや、まさか。
四十三歳。特別に格好がいいわけでもなく、体を鍛えているわけでもない。服装だって、近所へ買い物に出るための普段着だ。
そんな自分が、若い女性から声をかけられる理由が分からない。
「何かの間違いかな……」
そう呟き、紙をポケットにしまった。
相手が誰なのかも分からないのに、いきなり連絡をするのも気が引ける。
弘樹はそれ以上考えないことにして、買い物を続けた。
◇
帰宅した弘樹は、買ってきた食材を冷蔵庫にしまい、夕飯の下ごしらえを始めた。
今日はハンバーグにしよう。
藍華の希望を聞いてしまった以上、仕方がない。
ひき肉をボウルに入れ、玉ねぎを刻んでいると、玄関のドアが開く音がした。
「ただいまー」
「おかえり、久由美。今日は早かったな」
「うん。講義が早く終わったから。あと、友達も一緒だよ」
「お邪魔します!」
久由美の後ろから、若い女性が顔を出した。
灯里だった。
二十歳の大学生で、久由美とは同じ大学で知り合った親友だ。何度か家に来たこともあり、弘樹にとっても顔なじみの一人だった。
「いらっしゃい、灯里ちゃん。夕飯の準備中だけど、ゆっくりしていっていいからね」
「ありがとうございます。お邪魔します」
灯里は丁寧に頭を下げた。
その視線が、弘樹のエプロン姿と、台所に並んだ食材へと向かう。
「弘樹さん、今日もお料理ですか?」
「うん。娘たちの夕飯をね。今日はハンバーグにする予定なんだ」
「すごいですね。お仕事もしてるのに、毎日ご飯まで作ってるんですよね」
「まあ、慣れたものだから」
「慣れたからって、誰にでもできることじゃないですよ」
灯里の声には、素直な感心がにじんでいた。
弘樹は少し照れくさくなり、頭をかいた。
「いやいや。大したことじゃないよ」
「そういうところも、素敵だと思います」
「え?」
思わず手が止まる。
灯里は弘樹の顔を見つめていたが、久由美がこちらを振り返った瞬間、いつもの笑顔に戻った。
「ね、久由美。私たち、課題をやる前に少し休憩してもいい?」
「いいよ。お父さん、お茶もらっていい?」
「もちろん。今、用意するよ」
弘樹は二人をリビングへ案内し、お茶と菓子を出した。
灯里は礼を言いながら、弘樹の手元を目で追っていた。
カップを置くときのさりげない気遣い。
相手が飲みやすいように利き手に向けられた取っ手。
何でもないことなのに、灯里にはひどく心地よく感じられた。
「私、お手洗いに行ってくるね」
久由美が席を外している間に灯里質問をしてきた。
「弘樹さんは、普段お休みの日って何をしてるんですか?」
「そうだなあ。家のことを片付けたり、買い物に行ったり。あとは本を読んだりするくらいかな」
「誰かと出かけたりは?」
「最近はあまりないね。娘たちも大きくなったし、昔ほど手がかからなくなったから」
「そうなんですね」
灯里はカップを両手で包み、少し考えるように目を伏せた。
「じゃあ、今度、私ともお出かけしませんか?」
「……え?」
弘樹は思わず聞き返した。
灯里は、今度は目をそらさなかった。
「弘樹さんと、二人で。おいしいお店を見つけたんです」
「いや、でも……俺と?」
「はい」
あまりにも自然な返事で灯里は笑顔を崩さなかった。
「もちろん、都合が悪かったら別の日でもいいですよ」
「あ、いや、そういう問題じゃなくて……」
弘樹は言葉に詰まった。
娘の親友と二人きりで出かける。
それ自体が悪いことだとは思わない。しかし、どうして自分なのだろう。
灯里はまだ若い。大学生活を楽しんでいる最中だろう。自分のような中年男性と出かけるより、同年代の友人と遊ぶほうが楽しいに決まっている。
「俺なんかと出かけても、つまらないと思うけどなあ」
「私は、弘樹さんと出かけたいんです」
灯里の返事は、迷いのないものだった。
その真剣な声に、弘樹はそれ以上、何も言えなくなった。
◇
その後、久由美と灯里はリビングで課題を始めた。
弘樹は台所へ戻り、夕飯の準備を続ける。
先ほどのやり取りが、どうにも頭から離れなかった。
「……最近の大学生は、みんなあんなに積極的なのかな」
独り言をこぼし、苦笑する。
自分が考えすぎているだけかもしれない。
そう思いながらも、灯里の真っ直ぐな視線を思い出すと、どうにも落ち着かなかった。
やがて課題を終えた二人が帰る時間になった。
「今日はありがとうございました、弘樹さん」
「いやいや、またいつでもおいで」
「はい。……今度は、二人でお話しできたら嬉しいです」
玄関先で、灯里は小さな声でそう言った。
久由美は靴を履くのに夢中で、聞こえていないようだった。
「えっ?」
「それじゃあ、またね」
灯里はいつもの笑顔を浮かべ、久由美と一緒に帰っていった。
弘樹は二人の背中を見送りながら、首をひねった。
「……なんだったんだ、今の」
分からないことばかりだ。
女性から連絡先を渡され、娘の友人から二人きりの外出に誘われる。
四十三年間生きてきたが、こんな経験は一度もなかった。
自分の知らないところで、何かが変わっているのだろうか。
そんなことを考えながら、弘樹は夕飯の支度に戻った。
◇
その夜。
自室に戻った灯里は、ベッドの上でスマートフォンを握りしめていた。
画面には、久由美とのメッセージのやり取りが表示されている。
親友のことは大切だ。
これからも仲良くしていたいし、二人の友情を壊したいわけではない。
それなのに。
「……どうして、好きになっちゃったんだろう」
灯里は枕に顔を埋めた。
最初は、ただ優しい人だと思っただけだった。
家事をこなし、娘たちを気遣い、誰に対しても穏やかに接する人。
会うたびに、もっと話したいと思うようになった。
もっと自分を見てほしい。
久由美の友達としてではなく、一人の女性として。
そう願ってしまう自分を、もう誤魔化せなかった。
「……でも、久由美には言えないよ」
灯里は小さく息を吐き、弘樹とのメッセージ画面を開いた。
連絡先は、今日、久由美を通じて教えてもらったばかりだった。
何を書けばいいのだろう。
悩んだ末、灯里は短い文章を打ち込んだ。
『弘樹さん、今日はありがとうございました。今度、さっきお話ししたお店に一緒に行きませんか?』
送信ボタンを押す。
すぐに既読がついた。
そして、返信が届いた。
『こちらこそ、今日はありがとう。都合が合えばぜひ』
「……ふふっ」
灯里は思わず笑みをこぼした。
まだ、何も始まっていない。
それでも、ほんの少しだけ距離が縮まった気がした。
久由美には申し訳ない。
それでも、この気持ちを諦めることはできそうになかった。
「……もう少しだけ、頑張ってみよう」
灯里はスマートフォンを胸元に抱き、そっと目を閉じた。
こうして、弘樹の知らないところで、一人の女性の恋が静かに動き始めたのだった。




