第6話 契約書の第一条がおかしいです
「どうして『可能な限り』が消えているんですか!」
朝食の席で、私は叫んだ。
自分でも驚くくらい大きな声だった。
でも仕方ないと思う。
だって。
目の前に置かれた契約書には、こう書いてあったのだ。
『第一条。契約期間中、妻リリアーヌは毎晩、夫アレクシスと同じベッドで眠ること』
毎晩。
同じベッドで。
眠ること。
可能な限り、ではない。
必ず、である。
「おかしいでしょう!」
「どこがだ」
アレクシス公爵は平然と紅茶を飲んでいる。
腹が立つ。
ものすごく腹が立つ。
「全部です!」
「具体的に言え」
「まず、毎晩というところです!」
「ああ」
「ああ、じゃありません! 私が風邪を引いたらどうするんですか?」
「同じベッドで寝る」
「あなたに移るでしょう!」
「構わない」
「私が構います!」
「なら医者を呼ぶ」
「そういう話ではありません!」
「難しいな」
「どうして私が難しい女みたいになってるんですか!」
アレクシス公爵が少し首を傾げた。
本当に分かっていないらしい。
その隣には、老執事ハロルドが立っている。
私は彼を見る。
「ハロルドさん」
「はい」
「これを書いたのはあなたですね?」
「正確には、旦那様のご要望を私が文章にいたしました」
「つまり共犯ですね?」
「光栄でございます」
「褒めてません!」
「存じております」
この屋敷。
敵しかいない。
私は契約書を持ち上げた。
「そもそも、昨夜の話では『可能な限り同じベッドで眠る』という条件だったはずです」
「はい」
「それがどうしてこんな断定的な文章になっているんですか」
ハロルドは実に穏やかな表情で答えた。
「昨夜の実績を鑑みまして」
「ですから何の実績ですか!」
「枕十個を突破して旦那様に抱きつき、脚まで絡めてお休みになったと」
「誰から聞きました!?」
思わず立ち上がった。
ハロルドの視線が。
静かに。
アレクシス公爵へ向く。
私も向く。
「あなたですね」
「ああ」
「どうして言ったんですか!」
「聞かれたからだ」
「何を!?」
「昨夜はよく眠れましたか、と」
「そこだけ答えればいいでしょう!」
「よく眠れた」
「じゃあ、それで終わりです!」
「十年ぶりに呪いの痛みが出なかったからな」
「それも言ったんですか?」
「ああ」
「それで?」
「お前が俺に抱きついていたことも言った」
「どうしてそこまで!」
「事実だからだ」
駄目だ。
この人に秘密を話してはいけない。
嘘をつかない男というのは、聞こえはいい。
でも時と場合によっては、非常に迷惑だ。
「旦那様」
ハロルドが静かに口を挟んだ。
「何だ」
「リリアーヌ様がお気の毒でございます」
「そうか?」
「はい。少しは女性のお気持ちをお考えください」
「分からない」
「でしょうね」
ハロルドが即答した。
少しだけ味方ができた。
と思ったのに。
「ですので、旦那様はもう余計なことをお話しにならず、今後の詳細は私にお任せください」
「お願いします」
「まず第一条でございますが、現状のままでよろしいかと」
「敵だった!」
「光栄でございます」
「褒めてません!」
「存じております」
さっきもこのやり取りをした。
私は椅子に座り直し、契約書を睨んだ。
「修正します」
「好きにしろ」
アレクシス公爵が言った。
「いいんですか?」
「ああ」
「本当に?」
「ああ」
「あとから文句を言いません?」
「内容による」
「言うんじゃないですか」
「読む前に約束できるか」
そこだけ妙に真っ当なのが腹立たしい。
私はペンを取った。
『第一条。契約期間中、妻リリアーヌと夫アレクシスは、呪いの抑制に必要な範囲において、可能な限り同じ寝室で眠るものとする』
「これでどうです?」
「駄目だ」
「早い!」
「同じ寝室では足りない」
「でも昨夜は、あなたが床で眠ると言いましたよね?」
「お前が嫌がっていたからだ」
「今も嫌です」
「そうか」
「……何ですか、その顔」
「別に」
「ちょっと残念そうにしないでください」
「していない」
「しました」
「証拠は?」
「私です」
「証拠になっていない」
昨日と同じ返しをされた。
悔しい。
私はペン先で紙をとんとん叩いた。
「では、同じベッドで眠る。ただし、互いの同意なく身体に触れない」
「寝ている間は?」
「不可抗力です」
「枕を十個越えても?」
「それはもう忘れてください!」
「無理だ」
「忘れなさい!」
ハロルドが咳払いする。
「お二人とも」
「はい」
「契約書の作成に、これほど時間がかかる夫婦は初めてでございます」
「まだ夫婦ではありません」
「時間の問題かと」
「まだ署名してません!」
「こちらにペンがございます」
「勧めないでください!」
私は契約書をめくった。
第二条。
『契約期間は一年間とする。ただし双方の合意がある場合、延長できるものとする』
「これは問題ありません」
「そうか」
「どうして少し嬉しそうなんですか?」
「していない」
「しました」
「証拠は?」
「そのやり取り、もうやめましょう」
「ああ」
第三条。
『妻リリアーヌは、公爵夫人として必要な社交、領地経営、儀礼、公務に参加する。ただし本人の意思を尊重し、過度な負担を強制しない』
私は少し驚いた。
「これは……」
「何だ」
「思ったより、きちんとしています」
「ハロルドが書いた」
「でしょうね」
「なぜ俺ではないと分かる」
「あなたなら『必要な仕事をしろ』くらいで終わりそうです」
「十分だろう」
「ほら」
ハロルドが小さく笑った。
「何だ」
「いいえ。旦那様にもようやく、遠慮なく物を言ってくださる方が現れたのだと思いまして」
「今までもいた」
「亡き先代旦那様くらいでございます」
「お前も言うだろう」
「私は給金をいただいておりますので」
「では給金を止めるか」
「公爵家の機密をすべて抱えて隣国へ亡命いたします」
「好きにしろ」
「冗談でございます」
「分かっている」
私は二人を見た。
思っていたより。
普通なのだ。
公爵と執事。
絶対服従の主人と使用人というより。
長年連れ添った、面倒な家族のようだった。
少し。
羨ましいと思った。
私の家では、こんな会話はなかったから。
父は命じる。
母は黙る。
私は従う。
セシリアだけが、泣いたり笑ったり怒ったりしていた。
だから皆、セシリアを愛した。
私は。
役に立つから置かれていただけだ。
「リリアーヌ」
不意に名前を呼ばれた。
「はい?」
「またひどい顔をしている」
「女性にそういうことを言うなと昨日教えましたよね」
「忘れていた」
「覚えてください」
「何を考えていた」
「……別に」
「嘘だな」
「嘘です」
素直に認めると、アレクシス公爵が黙った。
「聞かないんですか?」
「聞いてほしいのか」
「嫌です」
「なら聞かない」
あっさりしている。
でも。
なぜか少しだけ楽だった。
無理に話さなくていい。
泣かなくていい。
それでも、そばにいられる。
そんなことを。
私は今まで知らなかった。
「次です」
私は契約書に目を戻した。
第四条。
『契約期間中、双方は互いに恋愛感情を求めず、婚姻関係以上の関係を強要しない』
胸が。
ほんの少しだけ。
ざわついた。
自分で言い出した条件だ。
恋愛感情を持たない。
愛を求めない。
そのはずなのに。
文章になると。
妙に冷たい。
「これでいいか」
アレクシス公爵が聞く。
「はい」
「本当に?」
「私が出した条件です」
「そうだな」
「公爵様こそ」
「何だ」
「問題ないんですか?」
「何が」
「一年間、私以外の女性と恋愛できなくなりますよ」
「必要ない」
「……即答ですね」
「ああ」
また。
少し腹が立った。
何で?
私が恋愛対象にならないのだから、むしろ安心するところでは?
なのに。
「不満か?」
「違います」
「顔が不満そうだ」
「見ないでください」
「無理だ」
「どうして」
「目の前にいる」
「ハロルドさん。何とかしてください」
「旦那様が女性を見つめるという奇跡を、私は邪魔できません」
「役に立たない!」
「申し訳ございません」
笑っている。
絶対に楽しんでいる。
「最後です」
第五条。
『双方は、相手の同意なく必要以上の身体接触を行わない。ただし呪いの抑制、生命の危機、事故、睡眠中の不可抗力については、この限りではない』
「睡眠中の不可抗力」
アレクシス公爵が読む。
「何ですか?」
「具体的には?」
「知りません」
「例えば枕を十個」
「黙ってください」
「だが」
「黙る!」
また。
笑われた。
今度こそ。
本当に。
ほんの少しだけ。
アレクシス公爵の口元が緩んだ。
私は見逃さなかった。
「今、笑いました」
「笑っていない」
「絶対に笑いました!」
「証拠は?」
「ハロルドさん!」
「残念ながら、私はちょうど目を閉じておりました」
「嘘つき!」
「長年仕える主人を売ることはできません」
「さっき亡命すると言ってたでしょう!」
「それとこれとは別でございます」
もう嫌。
でも。
不思議だった。
昨日の朝まで。
私はこんなふうに声を上げたことがあっただろうか。
笑ったり。
怒ったり。
言い返したり。
たった一日で。
私はずいぶん変わってしまった。
それとも。
本当はずっと、こうだったのだろうか。
ただ。
出せなかっただけで。
「これでよろしいですか?」
ハロルドが言った。
契約書には五つの条件。
一年間。
毎晩同じベッドで眠る。
公爵夫人として必要な役目を果たす。
恋愛感情を求めない。
同意なく触れない。
私はペンを持った。
それでも。
すぐには署名できなかった。
「怖いか」
アレクシス公爵が言った。
「……少し」
「そうか」
「止めないんですか?」
「何を」
「そんなに怖いなら署名するな、とか」
「言ってほしいのか?」
「分かりません」
「なら俺も分からない」
「あなた、本当に不器用ですね」
「知っている」
「知ってたんですか」
「ああ」
「直そうとは?」
「思ったことがない」
「でしょうね」
私は笑った。
それから。
ペン先を紙に置いた。
「一つだけ」
「何だ」
「約束してください」
「ああ」
「私を、役に立たなくなったからと捨てないでください」
言ってから。
後悔した。
これは。
あまりにも。
情けない。
父に捨てられた。
アルベルトに捨てられた。
だから怖い。
ただ、それだけなのだ。
「……忘れてください」
「無理だ」
「ですよね」
「リリアーヌ」
「はい」
「俺はお前を必要としている」
「呪いのためでしょう?」
「ああ」
やっぱり。
そう思った。
でも。
彼は続けた。
「今は、それでいい」
「……今は?」
「未来のことは分からない」
「ずいぶん無責任ですね」
「嘘は言わない」
「そうでしたね」
「だから約束する」
灰銀色の目が。
まっすぐ私を見る。
「少なくとも、役に立たなくなったという理由で、お前を捨てることはない」
「どうして言い切れるんです?」
「お前は物ではないからだ」
胸の奥が。
痛かった。
でも。
昨日までの痛みとは違った。
「……そうですか」
「ああ」
「では」
私は署名した。
リリアーヌ・エヴァレット。
いや。
一年間だけ。
リリアーヌ・ヴァン・グランツになる。
「次はあなたです」
「ああ」
アレクシス公爵も署名する。
迷いはなかった。
早い。
恐ろしく早い。
「本当に迷わないんですね」
「十年間探した」
また。
その言葉。
「言いましたね」
「ああ」
「それを言えば私が黙ると思ってます?」
「黙ったな」
「今だけです!」
ハロルドが契約書を受け取った。
「これで正式に成立でございます」
「……本当に結婚してしまった」
「後悔したか?」
アレクシス公爵が聞く。
「まだ分かりません」
「そうか」
「公爵様は?」
「していない」
「即答ですね」
「ああ」
そのときだった。
食堂の扉が叩かれた。
「失礼いたします」
若い使用人が入ってきた。
少し緊張している。
「旦那様」
「何だ」
「王宮より使者が参っております」
手にしていたカップが。
わずかに揺れた。
王宮。
昨日まで。
私がいるはずだった場所。
「誰からだ」
アレクシス公爵が聞く。
使用人は一瞬、私を見た。
それから。
答えた。
「王太子アルベルト殿下からでございます」
心臓が。
一度だけ。
強く鳴った。
「ご伝言がございます」
聞きたくない。
そう思った。
でも。
もう遅かった。
「リリアーヌ様に、今すぐ王宮へ戻るように、と」
私は黙った。
アレクシス公爵も黙った。
ハロルドまで黙った。
それから。
アレクシス公爵が、静かに紅茶のカップを置いた。
「断れ」
低い声だった。
「ですが、王太子殿下からの――」
「聞こえなかったか」
灰銀色の目が。
冷たくなる。
昨夜。
私に枕を投げ返した男とは別人のようだった。
「俺の妻に命令するなと伝えろ」
私の。
妻。
その言葉に。
なぜか。
また心臓が鳴った。
そして私は、まだ知らなかった。
昨日、私を捨てたはずのアルベルトが。
たった一日で。
私を取り戻そうとすることを。
そして。
それを知ったアレクシス公爵が。
自分でも認めたくないほど激しく。
嫉妬することを。




