第5話 朝起きたら、冷徹公爵に抱きついていました
温かい。
そう思った。
何か、とても温かいものがある。
硬いけれど、不思議と嫌ではない。
むしろ落ち着く。
私は寝ぼけたまま、頬をすり寄せた。
「……」
少し動いた。
逃げるのだろうか。
それは困る。
せっかく温かいのに。
私は両腕に力を込め、ぎゅっと抱きしめた。
「…………」
今度こそ、何かが固まった。
でも眠い。
ものすごく眠い。
昨日はいろいろありすぎた。
婚約破棄。
妹。
父。
追放。
雨。
冷徹公爵。
求婚。
呪い。
同じベッド。
ああ。
そうだった。
私は今、アレクシス公爵と同じベッドに――。
「……ん?」
目を開けた。
最初に見えたのは、黒だった。
黒い布。
寝間着。
それから。
ゆっくり顔を上げる。
顎。
唇。
鼻。
そして。
灰銀色の目。
「おはよう」
低い声で言われた。
「……」
「……」
「おはようございます」
反射的に返した。
私は礼儀正しい女なのだ。
たとえ。
自分が。
この国でもっとも恐れられている男の胸に顔を埋めていても。
「……」
「……」
おかしい。
何かがおかしい。
いや。
全部おかしい。
私はゆっくり視線を下へ向けた。
まず。
私の右腕は、アレクシス公爵の腰に回っている。
左手は、彼の寝間着をしっかり掴んでいる。
そして。
最大の問題は。
私の右脚が、彼の脚に絡んでいた。
「…………」
「リリアーヌ」
「はい」
「動くな」
「はい」
なぜか分からないが。
逆らってはいけない。
そんな気がした。
「絶対に動くな」
「二回言いましたね」
「ああ」
「そんなに重要ですか?」
「重要だ」
アレクシス公爵の声が妙に低い。
私は彼の胸元を見たまま固まった。
しかし。
人間というものは、動くなと言われると動きたくなる。
いや、違う。
正確には。
この体勢から抜け出したい。
「でも」
「動くな」
「このままというわけには」
「あと少し待て」
「何を?」
「聞くな」
「聞くなと言われると気になります」
「頼む」
アレクシス公爵が。
頼む、と言った。
あのアレクシス公爵が。
氷獄公爵が。
心底困ったような声で。
私は黙った。
三秒。
五秒。
十秒。
長い。
気まずい。
ものすごく気まずい。
「公爵様」
「なんだ」
「昨夜は眠れましたか?」
「なぜ今それを聞く」
「黙っていると余計に気まずいので」
「そうか」
「眠れました?」
「少しは」
「少し?」
「ああ」
「呪いは?」
「出なかった」
私は顔を上げかけて。
「動くな」
「……はい」
また胸元に戻った。
何なの。
この状況。
「本当に?」
「ああ」
「一度も?」
「ああ」
「十年間で初めてですか?」
「完全に痛みがなかった夜は、初めてだ」
胸が少しだけ温かくなった。
私が。
この人の役に立った。
たった、それだけなのに。
「よかった」
自然に言葉が出た。
アレクシス公爵が黙る。
「何ですか?」
「いや」
「またそれですか」
「ああ」
「言ってください」
「嫌だ」
「どうして?」
「今は言いたくない」
「子供ですか」
「黙れ」
「朝から横暴ですね」
「誰のせいだと思っている」
「何がです?」
また沈黙。
「公爵様?」
「……もういい」
「何がですか?」
「もう動いていい」
「最初からそう言ってください!」
私は勢いよく起き上がった。
その瞬間。
枕が一つ、床に落ちた。
ぽすん。
私は止まった。
床を見る。
枕。
もう一つ。
その隣にも枕。
さらに奥にも。
「……」
私はゆっくり見回した。
一。
二。
三。
四。
五。
六。
七。
八。
九。
十。
全部。
床に落ちていた。
昨夜、私たちの間に築いたはずの国境線は。
完全に消滅していた。
「……公爵様」
「なんだ」
「説明してください」
「何をだ」
「枕です」
「見れば分かる。落ちている」
「そういうことを聞いているんじゃありません!」
「なら何だ」
「なぜ全部落ちているんですか!」
「知らん」
「知らないわけないでしょう!」
「寝ていた」
「あなた、私より先に起きていましたよね?」
「ああ」
「だったら見たでしょう!」
「起きたときには落ちていた」
私はアレクシス公爵を見る。
彼も私を見る。
「あなたが落としたんじゃありませんか?」
「なぜ俺が」
「こちら側に来るために」
「来ていない」
「では、なぜ私があなたに抱きついていたんです?」
「お前が来た」
「嘘です!」
「事実だ」
「証拠は?」
「俺だ」
「証拠になっていません!」
「では逆に聞くが、なぜ俺がお前を自分の側へ運ぶ必要がある」
「呪いを抑えるためとか」
「お前の許可なく触れないと約束した」
うっ。
それを言われると弱い。
「では、本当に私が?」
「ああ」
「枕を十個乗り越えて?」
「おそらくな」
「そんな馬鹿な」
「寝相は普通だと言っていたな」
「普通です」
「枕十個を突破する女が?」
「何か事故があったんです」
「どんな事故だ」
「分かりませんけど!」
アレクシス公爵が、ほんのわずかに目を細めた。
笑った?
「今、笑いました?」
「笑っていない」
「絶対に笑いました」
「証拠は?」
「私です」
「証拠になっていない」
「さっきの仕返しですか!」
「何の話だ」
「性格悪いですね!」
「初めて言われた」
「昨日も言いました!」
「そうだったか」
「覚えていてください!」
最悪。
本当に最悪。
恥ずかしくて死にそうなのに。
どうしてこの人は平然としているのだろう。
私は慌ててベッドから降りようとした。
すると。
「リリアーヌ」
「何ですか」
「脚」
「はい?」
「俺の寝間着を踏んでいる」
「え?」
見る。
踏んでいた。
「あ」
足を退ける。
その拍子にバランスを崩した。
「きゃっ!」
倒れる。
そう思った瞬間。
腕を掴まれた。
強く。
引き寄せられる。
次の瞬間。
私は。
またアレクシス公爵の胸の中にいた。
「……」
「……」
「公爵様」
「なんだ」
「今度はあなたから抱きましたね」
「転びそうだったからだ」
「そうですけど」
「嫌だったか」
すぐには。
答えられなかった。
嫌。
ではなかった。
そこが一番困る。
「……離してください」
「分かった」
本当に。
すぐに離された。
それにも少しだけ。
腹が立った。
何なの、私。
昨日婚約破棄されたばかりでしょう。
しかも。
この人とは、まだ正式に結婚すらしていない。
「顔が赤い」
「見ないでください」
「熱か?」
「違います」
「なら」
「あなたのせいです!」
言ってから。
しまったと思った。
アレクシス公爵が黙る。
「……」
「……」
「どういう意味だ」
「聞かないでください!」
「俺のせいなのだろう」
「今のは忘れてください」
「無理だ」
「忘れなさい!」
「命令か?」
「お願いです!」
「嫌だ」
「子供!」
私は枕を一つ拾い上げた。
そして。
投げた。
ぽすっ。
アレクシス公爵の胸に当たる。
沈黙。
やってしまった。
この国最強の騎士に。
公爵に。
枕を投げた。
「……申し訳ありません」
私はすぐに謝った。
習慣というものは恐ろしい。
どれだけ腹を立てていても、反射的に謝ってしまう。
けれど。
アレクシス公爵は、胸元に落ちた枕を見た。
それから。
拾った。
「え?」
嫌な予感がした。
「公爵様」
「なんだ」
「まさか」
「返す」
「待って」
ぽすっ。
顔に当たった。
「……」
「……」
「今」
「ああ」
「私に枕を投げましたね?」
「返しただけだ」
「公爵ともあろう方が!」
「最初に投げたのはお前だ」
「女性ですよ、私は!」
「男女平等だ」
「そういう時だけ!」
私はもう一個拾った。
投げる。
彼が避ける。
「避けないでください!」
「なぜ当たらなければならない」
「さっき私は当たったでしょう!」
「お前が避けなかったからだ」
「腹立つ!」
もう一個。
投げる。
彼は受け止めた。
「下手だな」
「うるさいです!」
「騎士には向かない」
「目指していません!」
もう一個投げようとして。
手が止まった。
自分が。
笑っていることに気づいたから。
「……」
昨日。
私は婚約破棄された。
妹に婚約者を奪われた。
父に家を追い出された。
人生で最悪の日だった。
なのに。
その翌朝。
私は。
男の人に枕を投げている。
しかも笑っている。
「どうした」
「……別に」
「泣くのか」
「泣きません」
「そうか」
「なんですか、その顔」
「いや」
「またそれですね」
「ああ」
アレクシス公爵は、持っていた枕をベッドに置いた。
そして。
「昨夜」
言った。
「お前が来てよかった」
「……」
「十年ぶりに、夜が怖くなかった」
もう。
ずるい。
どうしてこの人は。
急にそんなことを言うのだろう。
「そういうことを」
「ああ」
「簡単に言わないでください」
「なぜだ」
「困るからです」
「何に」
「いろいろです!」
私は顔を背けた。
「それに、私はまだ契約結婚すると決めていません」
「ああ」
「分かっています?」
「分かっている」
「本当に?」
「ああ」
アレクシス公爵がベッドから降りる。
寝間着姿なのに。
妙に様になるのが腹立たしい。
「では朝食の後、契約書を確認しろ」
「……はい?」
「条件は昨夜決めた」
「決めましたけど」
「なら署名すればいい」
「ちょっと待ってください!」
「何だ」
「今、分かっていると言いましたよね?」
「ああ」
「私がまだ結婚すると決めていないことを」
「ああ」
「なのに、なぜ契約書があるんですか?」
「昨夜、作らせた」
「誰に!」
「ハロルドだ」
「いつ!」
「お前が風呂に入っている間だ」
「早すぎません!?」
「善は急げと言う」
「それ、こういうときに使う言葉じゃありません!」
この男。
やっぱりおかしい。
「署名しろとは言わない」
アレクシス公爵が言った。
「……え?」
「読んで、自分で決めろ」
「公爵様」
「なんだ」
「本当に、無理強いはしないんですか?」
「ああ」
「私が嫌だと言ったら?」
少しだけ。
間があった。
「諦める」
「……本当に?」
「求婚は続けるが」
「諦めていないじゃないですか!」
「結婚を強制しないだけだ」
「それを諦めるとは言いません!」
「そうか?」
「そうです!」
アレクシス公爵は本気で不思議そうだった。
やはり。
この男とは。
長く一緒にいたら、毎日疲れそうだ。
そう思った。
でも。
不思議なことに。
その朝の私は。
少しも嫌ではなかった。
そして一時間後。
朝食の席で。
私の目の前に差し出された契約書の第一条を見て。
私は叫ぶことになる。
『第一条。契約期間中、妻リリアーヌは毎晩、夫アレクシスと同じベッドで眠ること』
「どうして『可能な限り』が消えているんですか!」
すると。
隣に立つハロルドが、静かに答えた。
「昨夜の実績を鑑みまして」
「何の実績ですか!」
そしてアレクシス公爵は。
紅茶を飲みながら。
平然と言った。
「枕はもう必要ないな」
「必要です!」
私たちの契約結婚は。
どうやら。
最初から前途多難らしかった。




