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婚約破棄された夜、冷徹公爵の「眠るだけの契約妻」になりました 〜触れない約束なのに、毎晩同じベッドで溺愛されています〜  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


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4/19

第4話 触れない約束で、同じベッドに眠ることになりました

「では、契約をしよう」


「嫌です」


「なぜだ」


「どうしてあなたは、すぐ結論を急ぐんですか?」


 長い廊下で、私はアレクシス公爵の腕を握っていた。


 別に、握りたいから握っているわけではない。


 そう。


 仕方なく。


 彼から離れると、十年間続いているという呪いの痛みが戻るからだ。


「俺は十年待った」


「私は昨日婚約破棄されたばかりなんです!」


「知っている」


「だったら少し待ってください!」


「どれくらいだ」


「そういうところです!」


 思わず声が大きくなった。


 ちょうど廊下の向こうを歩いていた侍女が、びくりと肩を震わせる。


 目が合った。


 侍女は慌てて頭を下げ、足早に去っていった。


 絶対に誤解された。


 深夜。


 寝間着姿の私。


 その隣にアレクシス公爵。


 しかも腕を掴んでいる。


 ……言い訳できない。


「とにかく、お部屋に戻りましょう」


「ああ」


「歩けますか?」


「問題ない」


「さっき廊下で倒れかけた人の言葉は信用できません」


「倒れていない」


「壁がなかったら倒れていました」


「壁があった」


「そういう屁理屈を言うんですね、あなた」


「事実だ」


 もういい。


 私は彼の腕を掴んだまま歩き始めた。


 すると彼がこちらを見る。


「なんですか」


「いや」


「またそれですか」


「お前は案外、世話焼きなのだな」


「放っておいたら死にそうな人が目の前にいるだけです」


「そうか」


「勘違いしないでください」


「何をだ」


「私があなたを特別心配しているとか」


「していないのか」


「……」


 そこで聞き返す?


「公爵様」


「なんだ」


「あなた、もしかして少し性格が悪いですか?」


「初めて言われた」


「絶対嘘です」


「面と向かって言われたのは初めてだ」


「ああ、それなら納得です」


 たぶん皆、怖くて言えないのだろう。


 私は言ってしまったけれど。


 どうしてだろう。


 昨日までの私なら、絶対に言わなかった。


 王太子の婚約者だった私は、誰に対しても礼儀正しく、冷静で、隙のない女でいなければならなかった。


 失言は許されない。


 不機嫌な顔も許されない。


 泣くことも、怒ることも。


 でも。


 もう私は王太子の婚約者ではない。


 そう思ったら。


 少しくらい性格が悪くなっても、いいような気がした。


     ◇


「それで」


 客室に戻ると、アレクシス公爵は私の向かいに座った。


「契約の話だ」


「まだ諦めていなかったんですか?」


「諦める理由がない」


「私が嫌だと言っています」


「結婚が嫌なのか」


「昨日婚約破棄された女に聞きます?」


「昨日の婚約と今日の結婚は別だ」


「別じゃありません!」


「男が違う」


「そういう問題でもありません!」


 この男。


 頭がいいはずなのに、なぜ恋愛の話になると馬鹿になるのだろう。


 私は額を押さえた。


「まず、普通の人間は婚約破棄の翌日に別の人と結婚しません」


「そうなのか」


「そうです」


「なぜだ」


「……」


 駄目だ。


 この人、本気で分かっていない。


「心の整理が必要だからです」


「俺の妻になるのに、前の男への気持ちを整理する必要があるのか?」


 胸の奥が、ちくりとした。


「ありますよ」


「まだ王太子を愛しているのか」


「……分かりません」


 正直に答えた。


 その答えに、自分自身が少し驚いた。


 嫌いだ、と言いたかった。


 七年も一緒にいたのだ。


 婚約者を妹に奪われた。


 女として魅力がないと言われた。


 あんな男、大嫌いだと。


 そう言えたら楽なのに。


「たぶん、今は嫌いです」


「そうか」


「でも、七年間ずっと嫌いだったわけではありません」


「ああ」


「むしろ……好きだったんだと思います。たぶん」


「たぶん?」


「分からないんです」


 私は自分の膝の上に視線を落とした。


「好きだったのか。それとも、好きにならなければならないと思っていただけなのか。十六歳から婚約していましたから」


「……」


「私はあの人の妻になると思っていました。王太子妃になって、いつか王妃になって。子供を産んで、歳を取って、それで」


 そこで笑った。


「馬鹿みたいですよね。人生全部決まっていると思っていたんです」


「馬鹿ではない」


 アレクシス公爵が言った。


「え?」


「お前は決められた役目を果たそうとした。それだけだ」


「……慰めています?」


「事実を言っている」


「あなた、本当にそればかりですね」


「嘘を言うよりいい」


「時には優しい嘘も必要ですよ」


「俺は嫌いだ」


 少し。


 ほんの少しだけ。


 アルベルトを思い出した。


 傷つけるつもりはなかった。


 妹とはそんなつもりではなかった。


 全部、優しい嘘だったのだろうか。


 少なくとも。


 自分たちにとっては。


「そうですね」


 私は言った。


「私も今は、嘘より本当のことを聞きたいかもしれません」


「なら結婚しろ」


「どうしてそこに戻るんですか!」


 台無しだ。


 本当に台無し。


 アレクシス公爵は少し考えたあと、テーブルに置かれた紙を取った。


「なら、一年間だ」


「何がです?」


「一年間だけ妻になれ」


「嫌です」


「話を聞け」


「聞いたら結婚させられそうです」


「無理強いはしない」


「四回も求婚した人が言います?」


「五回だ」


「増えてる!」


「今ので五回目だ」


「数えなくていいです!」


 何なの、この人。


 私はため息をついた。


「一年間、契約上の妻になる」


「契約結婚?」


「ああ」


「なぜ一年なんです?」


「一年あれば、呪いについてさらに調べられる」


「解呪の方法が見つかったら?」


「その時点で契約を解除してもいい」


「見つからなかったら?」


「延長する」


「当然のように言わないでください」


「嫌なのか」


「嫌ですよ」


「なぜだ」


「だから結婚したくないからです!」


「俺が嫌いか」


「そういうことでは」


「なら問題ない」


「あります!」


 頭が痛くなってきた。


 それでも。


 完全に断ることもできなかった。


 彼が廊下で苦しむ姿を見てしまったから。


 私が離れれば、またああなる。


 それを知っていて。


 明日の朝、さようならと言えるだろうか。


「……条件があります」


 口から出た言葉に、自分で驚いた。


 アレクシス公爵の目が少し細くなる。


「聞こう」


「まだ結婚すると決めたわけではありません」


「ああ」


「仮にです。仮に契約するとして」


「ああ」


「まず、一年間限定」


「分かった」


「その間、私は公爵夫人として必要な役割を果たします」


「ああ」


「でも」


 私は一度、息を吸った。


「恋愛感情は持たないこと」


 言った瞬間。


 胸の奥が少しだけ痛んだ。


 もう二度と。


 誰かを好きになって。


 また捨てられるのは嫌だった。


 アレクシス公爵は、すぐに頷いた。


「分かった」


 あまりにもあっさりだった。


 なのに。


 なぜだろう。


 ほんの少しだけ。


 腹が立った。


「即答ですね」


「条件なのだろう」


「そうですけど」


「なら守る」


「……」


「不満か?」


「いいえ」


 不満ではない。


 絶対に。


「次です」


「ああ」


「夫婦として社交界に出る必要がある場合は協力します」


「分かった」


「ただし、それ以外では互いに干渉しない」


「駄目だ」


「なぜです?」


「お前がいなくなると困る」


「では、必要最低限」


「検討する」


「私が条件を出しているんですが」


「無理なものは無理だ」


 偉そう。


「最後です」


「ああ」


「互いの同意なく触れないこと」


 アレクシス公爵が黙った。


「……」


「何ですか」


「それは難しい」


「どうしてです?」


「俺の呪いがある」


「だからといって、いつでも好きに触っていいわけではありません」


「なら必要な場合に限る」


「どんな場合です?」


「痛みが出たとき」


「それは仕方ありません」


「眠るとき」


「はい?」


「文献にあった」


 嫌な予感がした。


 ものすごく嫌な予感が。


「何と書いてあったんですか」


「夜間は、対となる者と肌が触れる距離で眠ることで、呪いの進行を抑えられる」


「……」


「……」


「それ、最初に言うべきでは?」


「今言った」


「そういう意味じゃありません!」


 私は立ち上がった。


「つまり何ですか。毎晩あなたと一緒に眠れと?」


「そうなる」


「嫌です!」


「なぜだ」


「なぜじゃありません!」


「別に何もしない」


「その言葉を信じられるほど親しくありません!」


「では契約書に書け」


「書きます!」


「好きにしろ」


「本当に書きますからね!」


「ああ」


「あとから嫌だと言っても知りませんよ!」


「言わない」


「絶対?」


「ああ」


 なんだろう。


 どうして私のほうが必死になっているんだろう。


     ◇


「こちらでございます」


 その一時間後。


 老執事ハロルドの案内で。


 私は一つの寝室の前に立っていた。


「ちょっと待ってください」


「何でしょう、リリアーヌ様」


「どうして私が公爵様の寝室にいるんですか?」


「今夜よりこちらでお休みいただくと伺いました」


「誰から?」


 ハロルドがアレクシス公爵を見る。


 私も見る。


「あなたですね」


「ああ」


「私、まだ正式に契約していませんよね?」


「だが今夜も呪いは出る」


「……」


 それを言われると弱い。


 ハロルドが扉を開けた。


「どうぞ」


 広い。


 いや。


 広すぎる。


「……ここ、寝室ですよね?」


「ああ」


 暖炉。


 応接用のソファ。


 巨大な書棚。


 天井は高く、窓も大きい。


 そして中央には。


 巨大なベッドがあった。


「大きい……」


 思わず呟いた。


 六人。


 いや、八人は眠れそうだ。


「これなら大丈夫ですね」


「何がだ」


「だって、こんなに広いんですよ。端と端に眠れば触れることなんて」


「俺は床で眠る」


「はい?」


 私はアレクシス公爵を見た。


「今、なんと?」


「俺は床で眠る」


「どうしてですか?」


「お前が嫌がっている」


「だから?」


「同じベッドには眠らない」


「では呪いは?」


「多少痛むだろうが、昨日までよりは近い」


「多少って、どれくらいですか?」


「分からない」


「駄目です」


「何が」


「床で眠るのは駄目です」


「なぜだ」


「何のために私がここにいるんですか!」


 思わず叫んだ。


「呪いを抑えるためでしょう?」


「ああ」


「なのに床で寝て苦しんだら意味がないじゃありませんか!」


「だが」


「同じベッドで眠ります」


 言った。


 言ってしまった。


 ハロルドが目を閉じた。


 なぜか感慨深そうだった。


「ハロルドさん」


「はい」


「何ですか、その顔」


「いいえ。何も」


「絶対何か思っていますよね?」


「長生きはするものだと思っております」


「どういう意味ですか」


「お気になさらず」


 ものすごく気になる。


 アレクシス公爵が私を見る。


「本当にいいのか」


「よくありません」


「なら」


「でもあなたが床で苦しんでいたら、私が眠れません」


「俺を心配しているのか」


「だから、どうしてすぐそういうことを言うんですか!」


「違うのか」


「違います!」


「そうか」


 ……少し残念そうに見えたのは気のせいだろう。


 絶対に気のせいだ。


「ただし!」


 私はベッドを指差した。


「ここに国境を作ります」


「国境?」


「ハロルドさん。枕はありますか?」


「ございます」


「たくさん?」


「いくつほど」


「十個ください」


 沈黙。


「……十個でございますか?」


「はい」


 十分後。


 巨大なベッドの中央に。


 枕が十個、一直線に並べられた。


 完璧だった。


「これよりこちらが私の領土です」


 私は枕の壁を指差した。


「こちら側には絶対に入らないでください」


「お前も入るな」


「入りません」


「寝相は?」


「悪くありません」


 嘘だった。


 たぶん。


 少しだけ。


 アレクシス公爵が私を見る。


「今、間があった」


「ありません」


「嘘だな」


「あなたに言われたくありません」


「寝相が悪いのか」


「普通です」


「どの程度」


「普通です!」


 ハロルドが静かに頭を下げた。


「では、私はこれで」


「待ってください」


「はい?」


「行くんですか?」


「もちろんでございます」


「私たちを二人きりにして?」


「夫婦のお時間ですので」


「まだ夫婦ではありません!」


「失礼いたしました」


 絶対、悪いと思っていない。


「では、ごゆっくり」


「ごゆっくりしません!」


 扉が閉まった。


 しん、と静かになる。


 私は右を見る。


 アレクシス公爵がいる。


 左を見る。


 巨大なベッド。


 中央には枕十個。


「……公爵様」


「なんだ」


「今さらですが」


「ああ」


「私、本当にここで眠るんですか?」


「ああ」


「あなたと?」


「ああ」


「同じベッドで?」


「ああ」


 逃げたい。


 でも。


 行く場所がない。


 それに。


 彼が苦しむのも、もう見たくない。


「絶対に」


 私は言った。


「絶対に、こちら側に来ないでくださいね」


「ああ」


「触るのも駄目です」


「ああ」


「夜中に何かあっても、まず声をかけてください」


「ああ」


「返事が軽くありません?」


「ではどう答えれば満足だ」


「もっと真剣に」


 アレクシス公爵は少し黙った。


 それから。


 まっすぐ私を見て言った。


「お前が望まない限り、触れない」


 胸が。


 また変な音を立てた。


「……そういう言い方」


「なんだ」


「ずるいです」


「またか」


「あなた、ずるいことばかり言っています」


「事実を言っただけだ」


「もういいです。寝ます」


「ああ」


 私はベッドに入った。


 反対側から、アレクシス公爵も入る。


 枕十個。


 その向こうに。


 男がいる。


 昨日まで王太子の婚約者だった私が。


 今夜。


 別の男と同じベッドで眠る。


 人生というものは。


 本当に。


 何が起こるか分からない。


「おやすみなさい」


 小さく言った。


「……ああ」


 少し遅れて返事が来た。


「おやすみ、リリアーヌ」


 名前を呼ばれただけなのに。


 なぜか眠れなくなった。


 そして私は、まだ知らなかった。


 この十個の枕が。


 朝には一個残らず床に落ちることを。


 そして。


 目を覚ました私が。


 自分からアレクシス公爵に抱きつき。


 脚まで絡めて眠っていることを。


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