表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄された夜、冷徹公爵の「眠るだけの契約妻」になりました 〜触れない約束なのに、毎晩同じベッドで溺愛されています〜  作者: 藤原朝臣御神常陸介釋寛浩


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/19

第3話 十年間探した。君しかいなかった

「大きい……」


 馬車を降りた私は、思わずそう呟いた。


 目の前にそびえているのは、屋敷というより城だった。


 いや、たぶん城なのだろう。


 高い石壁。


 鉄の門。


 左右に伸びる巨大な建物。


 雨の夜だというのに、無数の窓には明かりが灯っている。


 王宮より少し小さいくらいではないだろうか。


 いや。


 さすがにそれは言い過ぎか。


 でも、三回くらい迷子になれる自信はある。


「公爵様」


「なんだ」


「お一人で住んでいるんですか?」


「使用人がいる」


「それは分かります」


「なら、なぜ聞いた」


「こんなに大きな家に、一人で暮らして寂しくありませんかと聞いたんです」


 アレクシス公爵が私を見る。


「寂しい?」


「はい」


「考えたことがない」


「ああ……」


 思わず納得してしまった。


「何だ、その顔は」


「いえ。あなたらしい答えだな、と」


「俺の何を知っている」


「ほとんど何も知りません」


「なら決めつけるな」


「では妻になれと言わないでください」


「それは別だ」


「どう別なんですか」


「お前には俺が必要だ」


「言っていることが逆です。私が必要なのはあなたでしょう?」


「両方だ」


「勝手に決めないでください」


「家がない」


「……」


「金もあまり持っていない」


「どうして知っているんですか」


「さっき財布を見ていた」


「見ましたね?」


「見えた」


「覗きました?」


「見えた」


「今、ちょっと間がありましたよね?」


「ない」


 この人、案外嘘が下手かもしれない。


 私は少しだけ睨んだ。


 しかしアレクシス公爵は何食わぬ顔で歩き出した。


「来い」


「また命令ですか」


「外に立っていたいなら好きにしろ」


「そういう言い方、ずるいですよ」


「知らん」


 結局、私はその背中を追った。


 巨大な玄関扉が開く。


 中にいた使用人たちが一斉に頭を下げた。


「お帰りなさいませ、公爵様」


「ああ」


 アレクシス公爵は短く答えた。


 その直後。


 全員の視線が私に集まった。


 ……痛い。


 ものすごく痛い。


 誰?


 誰なの?


 なぜ公爵様が女を連れているの?


 しかもずぶ濡れ。


 そんな声が、聞こえてくる気がする。


 私が居心地悪く立っていると、年配の男性が一歩前に出た。


 白髪。


 背筋は伸びている。


 いかにも優秀そうな老執事だった。


「旦那様」


「ハロルド」


「そちらの女性は」


「リリアーヌ・エヴァレットだ」


 老執事――ハロルドの片眉が、ほんの少し動いた。


 知っているのだろう。


 今夜、王太子に婚約破棄された女。


 明日の朝には王都中の噂になる。


「客室を用意しろ」


「かしこまりました」


「俺の部屋に一番近い部屋だ」


「嫌です」


 反射的に言った。


 アレクシス公爵が振り返る。


「なぜだ」


「なぜ近くするんですか」


「何かあったとき困る」


「誰が?」


「俺が」


「正直ですね」


「嘘をつく理由がない」


 ハロルドが咳払いをした。


 妙にわざとらしい咳だった。


「旦那様」


「なんだ」


「ご説明を」


「後でする」


「そうではなく」


 ハロルドは私とアレクシス公爵を交互に見た。


「私どもにも、心の準備というものがございます」


「何の準備だ」


「二十九年間、一度として女性を私邸にお連れにならなかった旦那様が、深夜にずぶ濡れのご令嬢を連れ帰り、自室に最も近い客室を用意しろと仰っているのです」


「そうだが」


「そうだが、ではございません」


 私は思わずハロルドを見た。


 この公爵様にこんなことを言える人がいるんだ。


「誤解です」


 私が口を挟むと、ハロルドは優しく微笑んだ。


「もちろんでございます」


 信じていない顔だった。


「本当に違うんです」


「ええ」


「私は公爵様に求婚されましたが、断りました」


「……」


 ハロルドの顔から微笑みが消えた。


 後ろにいた使用人の誰かが、何かを落とした。


 カラン、と小さな音が響く。


 アレクシス公爵が私を見た。


「なぜ言った」


「事実でしょう」


「そうだが」


「嘘をつく理由がない、と今ご自分で仰ったじゃありませんか」


「……」


 勝った。


 少し気分がよかった。


 しかし。


「ハロルド」


「……はい」


「この件は他言無用だ」


「旦那様」


「なんだ」


「二十九年間仕えてきた私にも、限界というものがあります」


「耐えろ」


「無茶を仰らないでください」


 公爵家も大変らしい。


     ◇


 温かい風呂。


 新しい寝間着。


 温かい食事。


 それだけで、人間はかなり生き返る。


 私は客室の暖炉の前で、温かいスープを飲んでいた。


 お腹が空いていたことすら、忘れていた。


 パンを一口。


 スープを一口。


 おいしい。


 泣きそうだ。


 人間というのは、婚約者を妹に奪われても、実家を追い出されても、温かいスープを飲めばおいしいと思うらしい。


 少しだけ、自分が嫌になった。


 こんなときくらい、食欲をなくしてみたかった。


 でも。


 おいしい。


「そんなに腹が減っていたのか」


「っ!」


 私は慌てて口元を押さえた。


 いつの間にか、アレクシス公爵が部屋にいた。


「ノックしてください!」


「した」


「聞こえませんでした」


「三回した」


「嘘です」


「本当だ」


「……もしかして、私が食事に夢中で気づかなかったんですか」


「ああ」


 恥ずかしい。


 ものすごく恥ずかしい。


「見ないでください」


「何を」


「私を」


「無理だ」


「どうしてです?」


「話をしに来た」


「目を閉じて話してください」


「嫌だ」


「またそれですか」


 アレクシス公爵は向かいの椅子に座った。


 私はパンを置いた。


「食べていろ」


「見られていると食べづらいです」


「気にするな」


「見ている側が言うことではありません」


「……」


「……」


「冷めるぞ」


「話をしましょう」


 負けた気がする。


 アレクシス公爵は私をじっと見た。


「何から聞きたい」


「全部です」


「長くなる」


「私は今、あなたに妻になれと言われています」


「ああ」


「理由も分からず承諾する女に見えますか?」


「見えない」


「でしょう?」


「だから困っている」


「困るのは私です」


「両方だ」


 またそれだ。


 私はため息をついた。


「では、最初からお願いします」


「十年前」


 アレクシス公爵は、意外なほど素直に話し始めた。


「北方遠征で、古代神殿に入った」


「戦争ですか?」


「魔獣討伐だ」


「そこで呪われた?」


「ああ」


「ずいぶん簡単に言いますね」


「十年前の話だ。今さら大袈裟に話す気にもならない」


 彼はそう言った。


 でも。


 何となく分かった。


 これは慣れたのではない。


 諦めた人の言い方だ。


「神殿の最奥に、黒い石碑があった」


「触ったんですか?」


「触っていない」


「では、なぜ呪われたんです」


「同行した部下が触った」


「……部下の方は?」


「その場で死んだ」


 息を呑んだ。


「俺は部下を引き離そうとした。そのとき、石碑が砕けた」


「それで?」


「それからだ」


 アレクシス公爵は自分の胸に手を当てた。


「夜になると、心臓が痛む」


「毎晩?」


「ああ」


「十年間?」


「ああ」


「一日も休まず?」


 彼は少し黙った。


「最初の一年は、三日に一度だった」


「……だんだん増えたんですか」


「今は毎晩だ」


 私は言葉を失った。


 毎晩。


 十年間。


 そんなもの。


 人間が耐えられるのだろうか。


「眠れるんですか?」


「痛みが治まれば」


「治まるまでどれくらい?」


「長いときで四時間」


「四時間も?」


「短ければ一時間だ」


「それを短いと言うんですか?」


「四時間よりは短い」


「そういう意味ではありません!」


 思わず声を荒らげた。


 アレクシス公爵が、少し驚いたように私を見る。


「十年間ですよ?」


「ああ」


「毎晩?」


「ああ」


「どうしてそんな平気そうに話せるんですか」


「平気ではない」


「でも」


「平気ではないから、お前に妻になれと言っている」


 そこで言葉に詰まった。


 ずるい。


 その言い方はずるい。


「……呪いを解く方法は?」


「探した」


「見つからなかった?」


「完全に解く方法はな」


「では、一部は?」


 アレクシス公爵の目が、私を見る。


「古い文献に記述があった」


「何と?」


「呪いを受けた者には、対となる人間が存在する」


「対?」


「ああ。その人間の近くにいれば、呪いは弱まる」


 私は嫌な予感がした。


「それが」


「お前だ」


「ちょっと待ってください」


「なんだ」


「どうして断言できるんですか」


「昨夜、痛みが消えた」


「偶然かもしれません」


「十年間で初めてだ」


「それでも」


「なら試すか」


「何を?」


 アレクシス公爵が立ち上がった。


「え?」


「ここにいろ」


「どこへ行くんです?」


「確かめる」


「公爵様?」


 彼は部屋を出た。


 何をするつもりなのだろう。


 一分。


 二分。


 三分。


 何も起きない。


「……やっぱり偶然じゃ」


 四分目。


 廊下で何かが倒れる音がした。


「え?」


 私は立ち上がった。


 扉を開ける。


「公爵様?」


 返事がない。


 廊下を走った。


 曲がり角。


 その先で。


 アレクシス公爵が壁に手をつき、苦しそうに胸を押さえていた。


「何をしているんですか!」


「来るな」


「またそれですか!」


「リリアーヌ」


「馬鹿なんですか、あなたは!」


 私は駆け寄った。


 手を伸ばす。


 彼の腕を掴む。


 その瞬間だった。


 アレクシス公爵の荒かった呼吸が、ゆっくりと落ち着いていく。


「……」


「……」


 私は何も言えなかった。


 彼も言わなかった。


 ただ。


 確かに。


 私が触れた瞬間、苦しみが消えた。


「これで分かったか」


 まだ少し掠れた声で、彼が言う。


「分かりましたけど」


「なら妻に」


「なりません」


「なぜだ」


「どうして結婚なんですか!」


「最も確実にそばに置ける」


「言い方!」


「事実だ」


「私は物ではありません!」


「知っている」


「だったらもう少し考えて喋ってください!」


 私が手を離そうとすると。


 彼の顔が、ほんの少し歪んだ。


 私は反射的に、また握った。


 悔しい。


「……ずるいです」


「何が」


「そんな顔をされたら離せないでしょう」


「どんな顔だ」


「知りません」


「なら」


「黙ってください!」


 しばらく。


 私たちは廊下に立っていた。


 私が彼の腕を握り。


 彼は私を見ていた。


「では」


 私は言った。


「誰か別の女性を探してください」


 アレクシス公爵の表情が消えた。


「私でなくても、どこかにいるかもしれません」


「いない」


「どうして分かるんです?」


「探した」


「どれくらい?」


「十年間」


 簡単な答えだった。


 でも。


 その十年の重さを。


 私はもう少しだけ知ってしまった。


「王国中の貴族令嬢に会った」


「……」


「外国にも行った」


「……」


「神官、魔術師、平民、身分も問わなかった」


「……」


「誰一人、痛みを消せなかった」


 彼は。


 私を見た。


 まっすぐに。


 逃がさないというより。


 もう逃げる場所など残っていない人の目だった。


「十年間探した」


 低い声が、静かな廊下に落ちた。


「君しかいなかった」


 胸が。


 妙な音を立てた。


 特別だと言われたかった。


 たぶん私は。


 ずっと。


 父にも。


 母にも。


 アルベルトにも。


 誰かの一番になりたかった。


 でも。


 こんな形で言われるなんて、聞いていない。


「……それは」


 ようやく、声を出した。


「ずるいです」


「さっきも言ったな」


「二度言いたくなるくらい、ずるいんです」


「なら」


「でも妻にはなりません」


「なぜだ」


「そこを急ぐからです!」


 アレクシス公爵は黙った。


 そして。


 本当に少しだけ。


 困った顔をした。


 この人にも、こんな顔ができるんだ。


 そう思ったら。


 なぜか少しだけ。


 怖くなくなった。


 ほんの少しだけ。


 それが。


 一番まずいことなのかもしれなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ